第27話 罠の設置
朝。
換気扇の油にまみれたプロペラが、低いモーター音を立てて狭い台所の淀んだ空気を外へと掻き出している。窓の外からは、アスファルトを叩く細かな雨の音が絶え間なく聞こえていた。冷たく湿った空気が、錆びたアルミサッシの隙間から部屋の中へと這い込んでくる。
仁はコンロの火をつけ、使い込まれた鉄の小さなフライパンを熱していた。
昨夜から冷蔵庫でじっくりと浸水させておいた米は、すでに炊飯器の中で静かな蒸気を上げ、部屋の隅々にまで炊きたての米特有の甘く輪郭のある匂いを漂わせている。
まな板の上に置かれたのは、深夜のスーパーで半額になっていた大ぶりのタラコと、ひび割れて塩を吹いた肉厚の南高梅だ。どちらも形が崩れており、見栄えは決して良くないが、腹を満たすという本来の目的において何の問題もない。
フライパンの表面から微かに白い煙が上がり、十分に熱されたのを確認してから、仁はタラコをそっと乗せた。
ジューッ、という甲高い音とともに、焦げた魚卵の香ばしい匂いが弾けるように立ち上る。菜箸で転がし、表面の薄皮にはしっかりと焦げ目をつけながらも、中心には半生の赤い状態を確実に残すよう、秒単位で火入れを見極めて手早くコンロから下ろした。
まな板の上の梅干しは、親指と人差し指で慎重に種を抜き取る。残った果肉を包丁の背で細かく、ペースト状になるまで叩き潰す。トン、トン、トンと、一定のリズムで硬いプラスチックのまな板を叩く音が狭い部屋に響く。そこに、ほんの数滴だけ醤油を垂らし、強い酸味の角を取ってまろやかな旨味を引き出した。
ピーッ、と炊飯器の電子音が鳴る。
蓋を開けると、白く輝く米粒が立ち上がり、むせ返るような熱い蒸気が顔を覆った。網膜に焼き付いている薄っぺらいピクセルの画像を消し去るかのように、その生々しい熱気を肺の奥深くまで吸い込む。
仁は流水で手を限界まで冷やしてから、手のひらに粗塩をたっぷりと馴染ませた。木しゃもじで茶碗にすくった熱々の米を、火傷しそうな熱さに耐えながら素手で受け取る。
中心を指の腹で少し窪ませて、ほぐした半生の焼きタラコと、ペースト状にした梅干しの果肉を贅沢に乗せる。
米粒を絶対に潰さないように、指の関節を使って空気をふんわりと包み込む感覚で、3回だけ軽く形を整える。最後に、コンロの火でサッとあぶって香りを立たせたパリパリの海苔を、底面からしっかりと巻きつけた。
湯気を立てる大ぶりのお握りを、そのまま1口かじる。
炊きたての米の暴力的な甘み、表面の強めの塩気、香ばしく焼けたタラコの濃厚な旨味。そして、それらすべてをキュッと引き締める梅干しの鮮烈な酸味が、口の中で完璧なバランスで混ざり合った。
「……美味い」
独り言が、カビ臭い4畳半の壁に吸い込まれていく。
安物の食材を使った、男の素人料理だ。だが、自分の手で火の熱を感じ、焦げる匂いを嗅ぎ、確かな味覚を刺激するこの一連の物理的な作業は、今の仁にとって欠かせないものだった。かつてラグビーの泥まみれの練習の後、親が握ってくれたあの巨大な塩むすびの記憶が蘇る。肉体を酷使し、汗を流し、その対価として得られるカロリーの圧倒的な実存感。
足元では、茶トラのキナコが仁の靴下を噛んで後ろ足で蹴り、キジトラのムギがそれにじゃれついて丸まっている。チクリとする小さな牙の感触を味わいながら、仁は2口目をごくりと飲み込み、冷たい麦茶で喉の奥を洗い流した。
昼前。
雨の気配を含んだ湿った風が吹き込む部屋に、杉山のぞみと丸山乙女がやってきた。
2人が持ち込んだ大きめの紙袋から、分厚い長方形のブロックが次々とちゃぶ台の上に取り出されていく。
ドン、ドン、と重みのある鈍い音が響く。
「撮影用のダミー札束。一番上と下だけ、本物の1万円札を挟んであるから」
のぞみがレザージャケットのポケットから手を出し、ちゃぶ台に積み上げられたそれを見下ろして言った。
10束。1000万円分の札束の山だ。
帯封でしっかりと束ねられた紙の束は、薄暗い部屋の蛍光灯の下で、異様なほどの存在感と生々しさを放っていた。印刷の匂いと、新しい紙特有の微かな埃っぽさが混ざり合い、日常の空間に強烈な違和感をもたらしている。今まで底辺で生きてきた仁にとって、これだけの束を目の前にするのは初めてのことだった。日焼けしてささくれたイグサの畳と、縁の欠けた古いちゃぶ台の上に置かれた大金というコントラストが、ひどくシュールだ。
「で、こっちが本物っぽく見せるための小道具ですね。ハイブランドの時計の箱とか、外車のキーケースとか、メルカリで安く仕入れてきました」
乙女がショルダーバッグから、黒いベルベット張りの時計の空箱と、高級外車のディーラーでもらえるような革製のキーケースを取り出し、札束の山の横に無造作に配置した。
乙女は手慣れた様子で、配置のバランスを数ミリ単位で微調整しながら口を開いた。
「こういうのは、あえて適当に置いてる感を出した方が生々しいんですよ。綺麗に並べすぎると嘘くさいし。……こんだけ見え見えの『お金持ちセット』見せつけたら、あのフェイク野郎のプライドが黙ってないっしょ。あの承認欲求の塊みたいな奴が、先輩の素材だけ急に金持ちになったなんて絶対許せないだろうし。速攻で自分のものとして加工して、フォロワーにドヤ顔で自慢したくなりますよ」
「ああ。あいつのAIは音と映像から状況を『盛る』んだろ。なら、この札の音もしっかり食わせてやろう。目と耳の両方から、極上の餌をぶら下げてやるんだ」
のぞみが口角を上げて笑い、ダミーの札束の1つを手に取った。
仁は黙って頷き、スウェットの右ポケットから、アリアに内部を解析してもらった自分の本来のスマホを取り出した。
カメラのレンズには、まだ黒い絶縁テープがぐるぐる巻きにされている。
親指の爪をテープの端に立て、ゆっくりと剥がしていく。
メリメリと粘着質のゴムが糸を引いて剥がれ、指先にベタベタとした不快な感触が残った。数週間ぶりに、背面カメラの小さな黒いレンズが完全に露出する。
漆黒の、無機質なガラスの穴。
見えない巨大な敵の眼球と、再び至近距離で視線が交差するような生々しい悪寒が、背筋を駆け上がった。
今この瞬間から、俺の視界は再び奴のサーバーへと直結している。心臓の鼓動が早鐘のように鳴り始めるのを、深く息を吐いて強引に抑え込んだ。
仁は震えそうになる右手を必死に抑え込みながら、そのスマホをちゃぶ台の上のスマートフォンスタンドに立てかけた。
背面のレンズの画角に、積み上げられた1000万円のダミー札束と、高級時計の箱がしっかりと収まるように角度を微調整する。
のぞみが親指の腹で札の端を弾いた。
パラパラパラッ。
分厚い紙の束が連続して擦れ合う、乾いた小気味良い音が部屋に響く。
仁もそれに倣い、札束を手に取って親指で弾いた。
パラパラッ、パラッ。
硬い紙の端が指の腹を弾くたびに、微かな振動が骨に伝わってくる。静まり返った部屋の中で、札を弾く独特の摩擦音だけが、マイクの集音部分に向かって意図的に鳴らされ続けた。
レンズの向こう側にいる翔太のシステムが、この空間の光と音を、巨大なブラックホールのように貪欲に吸い上げているのを感じる。
俺の生活のどん底のノイズをいらないものとして消去してきたあの不気味なフィルターが、今度はこの大金をどう変換し、どう飲み込むのか。
「……十分だろ」
数分間の作業の後、仁はスマホをスタンドから下ろした。再び黒い絶縁テープを取り出し、背面とフロントのカメラを厳重に塞ぎ直す。
光が遮断され、スマホはただの黒い塊へと戻った。
夕方。
のぞみと乙女が帰り、元の静けさとカビ臭さに包まれた部屋で、仁はちゃぶ台の前に座り込んでいた。
アリアには、すでに物理ハッキングのためのUSBデバイスの作成を依頼してある。由紀が翔太のアジトに呼ばれる次のタイミング。そこに全ての照準を合わせ、奴の首根っこを直接掴むための、これは最初の誘い水だ。
ブブッ。
手元の古い代替機が、短く振動した。
画面を見る。MINATOのアカウントからの更新通知だ。
仁はゆっくりと瞬きを1度だけし、ひび割れた画面をタップした。
『積み重ねた努力と時間が、ついに目に見える大きな形になった。新規プロジェクトがもたらした圧倒的な利益。金は単なる数字の羅列に過ぎないが、自分の選択の正しさを証明するトロフィーにはなる』
気取った、自己陶酔に満ちたテキスト。
「金は単なる数字の羅列に過ぎない」と言いながらも、その金を見せびらかさずにはいられない翔太の小物感と執着が透けて見える。
そして、その下に表示された画像。
黒い大理石のテーブルの上に、無造作に積み上げられた1000万円の札束。
隣には、見慣れないバカラの高級なグラスと、琥珀色の液体の入ったウィスキーのボトルが添えられている。グラスの表面にはうっすらと結露が浮かび、天井のダウンライトがウィスキーの液面で鈍く反射していた。
だが、その見事な背景とは裏腹に、光の当たり方、札束の積み上げられた崩れ具合の角度、時計の箱の配置に至るまで。
数時間前に、俺がこの4畳半のちゃぶ台の上で作り出したあのフェイクの配置と、ミリ単位で完全に一致している。
ダミーの視覚データと紙を弾く音は、見事に高級なラウンジの背景へと変換されていた。ただの印刷された紙のブロックが、15万人から羨望を浴びる『成功者の証』として出力されている。
そして、その投稿の最後の一文。
『今週末の夜、フォロワーの皆に重大な発表をする。これからのMINATOの新しいステージを、生配信で直接見届けてほしい』
通知の最後の一文を読んだ瞬間、仁の口の端が、自分でも止められないほど歪に吊り上がった。奥歯がギリリと、無意識のうちに強く噛み合わされる。
「重大な発表」という言葉が持つ意味の重さ。「生配信」という、フィルターが崩壊した瞬間に取り返しのつかない事態に陥る舞台。
罠にかかった。
仁は画面をスクロールし、秒単位で増え続けていく「いいね」のハートの数字を見つめた。
1万、2万、3万。
膨れ上がっていく無機質な数字の羅列が、俺の手で組み立てた泥臭い罠に向かって、一斉に群がり、狂信的な賞賛を浴びせている。
手の中のプラスチックの端末が、ただの冷たくて薄っぺらい石の板のように感じられた。
週末の夜。
そこが、あのフェイク野郎の葬式だ。




