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第26話 トロイの木馬の反逆

 深夜のアパート。

 ちゃぶ台の脚のそばで、丸めたスーパーのレシートを巡る攻防が繰り広げられていた。

 茶トラのキナコが前足で丸い紙屑を抱え込み、腹ばいになって短い後ろ足を高速でバタつかせている。そこへ、少し離れた段ボール箱の影からキジトラのムギが忍び寄り、一気に飛びかかった。

 キナコは驚いてレシートを手放し、ムギの頭に短い猫パンチを連打する。ムギはそれにひるむことなく、キナコの首根っこに細い乳歯を立てて甘噛みをした。二匹の小さな毛玉はもつれ合いながら、日焼けして毛羽立ったイグサの上をごろごろと転がっていく。

 仁は万年床の上にあぐらをかき、そのドタバタとした無邪気な動きを視界の端に捉えながら、手元の古い代替機の画面を凝視していた。

 時刻は午前2時を回っている。

 画面に表示されているのは、暗号化されたメッセージアプリのチャットルームだ。

 相手は、数日前にラウンジで接触した大塚由紀。

 彼女が去り際に残していったコースターの裏のIDを登録し、『高田仁だ』とだけ送信してから、すでに48時間が経過していた。

 既読はついている。だが、返信はない。

 無理もない。彼女にとって、俺は客ですらない、ただの不気味なストーカー被害者だ。高い指名料を払ってくれる翔太という金ヅルを裏切ってまで、底辺の派遣社員に協力する義理などどこにもない。


『バカみたい。できるわけない』


 ラウンジで見下された時の、彼女の底冷えのするような声が蘇る。あの諦観に満ちた目は、他人も自分も、すべてを等価の現金として処理しきっている目だった。

 連絡が来なければ、また別の手を考えるしかない。

 仁がスマホの画面を伏せようとした、その時だった。


 ブブッ。


 手の中で、端末が短く振動した。

 画面に、新しいメッセージのポップアップが表示される。


『今日の夜中、あいつの部屋に呼ばれてる』


 仁は息を詰め、画面をタップしてチャットルームを開いた。

 立て続けに、数枚の写真が送信されてくる。

 手ブレのひどい、暗い画質の写真。

 そこには、足の踏み場もないほどにゴミが散乱した、狭く汚い部屋が写っていた。

 脱ぎ捨てられた衣服、食べかけのコンビニ弁当の容器、壁際に積み上げられた何十本ものエナジードリンクの空き缶。

 そして、部屋の奥。

 タワーマンションの夜景がプリントされた、巨大なグリーンバックのスクリーンの裏側。

 そこには、無数のケーブルが這い回る巨大な自作PCがあり、透明なケースからLEDの青い光を不気味に点滅させている。いくつもの冷却ファンが唸りを上げているのが、静止画からでも伝わってくるようだった。三脚に固定された高性能な一眼レフカメラ、そして何面ものモニターが設置された、異様な機材の要塞が築き上げられている。

 その傍らには、俺が高校時代に使っていたあのラグビーボールと関東大会のトロフィーが、埃を被ったまま無造作に転がっていた。


『これが、あなたの顔を盗んでる場所。最寄り駅は、京王線の柴崎駅』


 由紀からのメッセージだった。

 仁の心拍数が跳ね上がり、こめかみの血管がドクンと嫌な音を立てた。

 画面の奥に広がる、息が詰まるほどカビ臭く、埃とゴミにまみれた狭いワンルーム。足の踏み場もない床。積み上げられたゴミの山。これが、翔太の本当のアジトだ。俺の人生を貪り食っている男が、この悪臭のしそうなゴミ溜めの中で、あのアカウントを更新し続けている。


『どうして、送ってくれた』


 仁が短く文字を打ち込んで送信する。

 数秒後、既読がつき、返信が来た。


『別に。あの人の小道具のまま、一緒に燃えるのは嫌だから』


 短いテキスト。そこに由紀の感情は読み取れない。

 だが、あのラウンジで俺が突きつけた言葉が、彼女の冷え切った諦観の底に、わずかな亀裂を生じさせたことだけは確かだった。


『次呼ばれるのは、おそらく週末の配信の日。その時までに、あいつを確実に潰せる準備をしておいて』


 メッセージはそこで途切れ、オフラインの表示に切り替わった。

 仁は代替機の画面を消し、畳の上に置いた。

 翔太のアジトの内部構造と、最寄り駅の情報。

 これだけあれば、のぞみの足とアリアの技術で、物理的な住所を完全に特定できる。

 仁は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。

 畳の上で取っ組み合いをしていた二匹の子猫が、仁の様子に気づき、トコトコと近づいてきて膝の上に登ってきた。ムギがスウェットの紐を噛み、キナコが仁の手の甲をザラザラとした舌で舐める。小さな乳歯が時折皮膚に当たるくすぐったい感触と、温かい体温を感じながら、仁は代替機の冷たいプラスチックの側面をじっと見つめていた。


 翌日の午後。

 仁は、のぞみから指定された新宿の裏路地にあるネットカフェの個室にいた。

 薄暗いブースの中、革の剥がれたソファにのぞみと並んで座っている。換気扇の音に混じって、隣のブースからマウスを連打する硬い音と、ボソボソとした独り言が壁越しに聞こえてくる。空気には古いタバコのヤニと、安い芳香剤の甘ったるい匂いが染み付いていた。


「……マジか。この女、ほんとに裏切ったんだ」


 のぞみは仁の代替機に送られてきた由紀の写真を食い入るように見つめ、意地悪く口の端を吊り上げた。


「京王線の柴崎駅ね。あの辺りなら、古い単身者用のアパートが腐るほどある。でも、この窓枠の形と、外に見えてる鉄塔の角度……」


 のぞみは自分のスマホを開き、地図アプリとストリートビューを高速で切り替えながら、周辺の地形と画像を照らし合わせていく。親指の動きは異常に早く、画面のスクロールがブレて見えるほどだ。


「アタシの足なら、明日の朝までにピンポイントで特定できる。でもさ」


 のぞみはスマホから目を離し、仁を見た。


「アジトの場所が分かったとして、どうすんの? 警察にチクる? それとも、バールでも持って直接カチ込む?」

「……警察じゃ駄目だ。ハッキングの証拠を消されたら終わりだし、あいつの持ってるフォロワーの前で、完全にあのハリボテを叩き壊さないと意味がない」


 仁の低い声に、のぞみは「だよね」と面白そうに笑った。


「じゃあ、作戦が必要だ。あいつが一番油断してて、一番数字に執着してるタイミング。……『生配信』の真っ最中に、この裏側の現実を全世界に垂れ流してやるのが一番効く」


 のぞみは指の関節をポキキと鳴らし、狭いブースの中で立ち上がった。


「アタシはアジトの特定を急ぐ。あんたは、あんたが言ってた『SNSに詳しい後輩』と『システムのプロ』の同僚に声かけときな。そいつらも巻き込まないと、この『お葬式』は完成しないからね」


 深夜。

 物流センターのフロアは、絶え間なく回る巨大な換気扇の低い唸り声と、無数のキーボードから発せられる乾いたプラスチックの摩擦音に満たされている。

 深夜特有の、血の巡りが悪くなるような底冷えがコンクリートの床から這い上がってきていた。

 仁は作業の合間を見て、少し離れた席にいるアリアの背中を見つめた。

 彼女は黒いタートルネック姿で、背筋を伸ばし、複数のモニターに映るログの滝を冷ややかな目で追っている。周囲の派遣社員たちが眠気と疲労で舟をこぐ中、彼女だけが精密な機械のようにタイピングを続けていた。

 仁は立ち上がり、空のマグカップを持って給湯室へと向かった。

 アリアの席の後ろを通る際、彼女のデスクの隅に、小さく折りたたんだメモ用紙を滑り込ませた。

 殺風景な給湯室に入り、ステンレスのシンクで水道水をカップに注いでいると、背後から静かな足音が近づいてきた。


「……何」


 振り返らずにアリアが言った。


「アジトの内部写真と、最寄り駅が分かった。……協力者が情報を流してくれた」


 仁は水道の蛇口を閉め、声を潜めて答えた。

 アリアは腕を組み、給湯室の入り口の壁に寄りかかっている。


「佐々木翔太の、本当の部屋ね」

「ああ。近いうちに、あいつは必ず生配信をやる。そのタイミングで、あいつのシステムを完全に無力化して、現実の姿を晒し者にしたい」


 アリアは深いダークブラウンの瞳で、仁の顔をじっと見つめた。

 カミソリで力任せに削り落とした顎の絆創膏はもう剥がしているが、傷跡の赤みはまだ痛々しく残っている。アリアはその傷跡を数秒間見つめた後、視線を逸らした。


「相手のシステムに外部から干渉するには、マルウェアを逆流させるだけじゃ不完全よ。生配信の最中に確実にフィルターを落とし、裏のハッキングの証拠を引っこ抜くなら……物理的な『鍵』を、直接あの部屋のルーターかPCに挿し込む必要がある」

「鍵?」

「ええ。私が組んだ独自のコードを入れた、USB型のデバイス。これを、誰かがあの部屋の心臓部に物理的に接続しなければならないわ」


 アリアの言葉に、仁の脳裏に由紀の顔が浮かんだ。

 あのアジトの中に入れるのは、あの女だけだ。


「……俺が、そいつに渡す」

「本気なのね」


 アリアは短く息を吐き、視線を床に落とした。


「分かった。デバイスの準備をする。……でも、」


 アリアは再び顔を上げ、その深い瞳を仁に真っ直ぐに向けた。


「これは犯罪よ。不正アクセス禁止法違反。捕まれば、あなたも私もただじゃ済まない。……それでも、やるのね」

「俺の人生を勝手にパクって、おもちゃにした代償だ。何があっても、あいつだけは俺の手で終わらせる」


 仁の低い声に迷いはなかった。

 アリアはわずかに顎を引き、小さく息を吐いた。


「……明日までに、準備しておく」


 彼女は踵を返し、足音を立てずにフロアへの短い廊下を歩き去っていく。

 残された仁は、冷水が入って結露したマグカップを喉の奥へ一気に流し込んだ。

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