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第25話 由紀への接触

 朝。薄暗い四畳半の部屋に、むせ返るような強い酸の匂いが充満している。

 仁はちゃぶ台の前にあぐらをかき、くすんだガラスコップの底に沈む赤黒い液体を見下ろしていた。スーパーの隅で半額シールが貼られていたもろみしぼり酢だ。水道水を注いで箸の先でかき混ぜると、ツンとした刺激臭がさらに鋭く鼻腔を突き刺してくる。

 傍らには、プラスチックの容器ごと出した特売のプレーンヨーグルトがある。表面に、ボトルの底で白く結晶化して固まりかけていた安物の蜂蜜を、スプーンで無理やり削り落として何とか垂らした。

 冷たいヨーグルトをかき込み、口内に残る蜂蜜の不自然な甘さとジャリッとした食感を、もろみしぼり酢を一気に胃へ流し込んで洗い流す。食道を焼くような強烈な酸の刺激が走り、寝不足で鉛のように重かった神経が強制的に叩き起こされた。

 高校でラグビーをやっていた頃、泥まみれの激しい練習の翌日には、疲労回復のために親が作ってくれたこの組み合わせをよく流し込んでいた。当時は引き裂かれた筋肉の修復を助けるためのものだったが、今は違う。安価でカロリーを摂取し、這い上がるための闘争心を無理やり胃の底から引きずり出すための、ただのカンフル剤だ。


「ミャッ」


 段ボール箱の中から這い出してきたムギとキナコが、仁の足元で短い尻尾を振りながらじゃれ合っている。仁はコップを置き、二匹の小さな頭を手のひらで乱暴に撫で回した。

 今日、あの見えないストーカーの懐に直接手を入れる。

 口座残高のほぼすべてを注ぎ込み、昨日予約のボタンを押した。もう後戻りはできないし、するつもりもなかった。


 午後2時。

 新宿の繁華街から少し外れた、会員制の看板を掲げるラウンジ。

 分厚い防音扉に守られた店内は、真昼だというのに窓が一つもなく、間接照明のオレンジ色の光だけが重厚なベルベットの絨毯を照らしていた。

 仁は奥のボックス席に座り、氷の溶けかけたグラスの水を無意識に見つめていた。数年ぶりにクローゼットから引っ張り出したオックスフォード生地の白い襟付きシャツと、細身のチノパン。ラグビーで鍛えていた当時の筋肉が落ちた身体には肩回りの生地がひどく突っ張り、首元のボタンが首を締め付けるように窮屈だ。

 周囲には、仕立ての良いスーツを着た初老の男や、ブランド品で身を固めたIT系の若手経営者らしき客が数組いるだけ。どこを見渡しても、時給で働く底辺の派遣社員が紛れ込んでいい空間ではなかった。


「お待たせしました」


 静かな、ひどく透き通った声が頭上から降ってきた。

 仁が顔を上げる。

 大塚由紀。19歳。

 のぞみのタブレットで見た写真通りの、170センチを超える長身。露出を抑えたネイビーのロングワンピースを着ているが、その布地越しでも骨格の華奢さがはっきりと分かる。青白いほど透き通った肌に、赤茶色のストレートヘア。

 息を呑むような造形美だった。だが、目の前に立った彼女から漂ってきたのは、若い女性特有の甘い香水や化粧品の匂いではなく、微かなベビーパウダーと、無機質な消毒用アルコールの冷たい匂いだった。


「由紀です。今日は呼んでくださって、ありがとうございます」


 彼女は仁の向かいのソファに腰を下ろし、完璧な弧を描く微笑みを作った。

 だが、そのメランコリックな瞳の奥は、完全に冷え切っていた。目の前の男の着慣れない安物のシャツ、肩の強張り、場違いな雰囲気を瞬時に値踏みし、人間としての感情のスイッチを物理的にオフにしたような、ガラス玉のような目。


「はじめまして。……何、飲みますか」


 由紀がテーブルの上のメニュー表に手を伸ばした。


「必要ない」


 仁の低く擦れた声に、由紀の白い手がピタリと止まる。


「デートのつもりで呼んだんじゃない。あんたに、直接聞きたいことがあった」


 由紀はゆっくりとメニュー表から手を離し、姿勢を正した。営業用の微笑みが、蝋細工のように固まる。


「お客様。お話しするだけなら構いませんが、プライベートな詮索や、店を通さない直接の交渉はお断りしています」


 マニュアル通りの流れるような拒絶。面倒なトラブル客をあしらうことに慣れきった、隙のない態度だ。

 仁は周囲の客席に視線を走らせ、自分たちの会話が誰にも聞こえないことを確認してから、細身で窮屈なチノパンのポケットに無理やり手をねじ込み、古い代替機を取り出した。

 画面を点灯させ、大理石のテーブルの上を滑らせて由紀の目の前に置く。

 表示されているのは、MINATOのSNSアカウントだ。

 高級ホテルのラウンジを背景に、ワイングラスを持つ女性の手元と、華奢な肩のラインが写り込んだ写真。

 由紀の視線が画面に落ちる。その瞬間、彼女の長いまつ毛が微かに跳ねた。


「このアカウントの男……佐々木翔太について、話がしたい」

「……」


 由紀は黙ったまま、自分の膝の上で両手をきつく組んだ。


「人違いです」

「あんたが毎週のようにこの男に指名されて、写真のパーツとして使われてるのは分かってる。あんたの身につけてるブランド物のレンタル履歴と、写真のタグが完全に一致した」


 仁が矢継ぎ早に事実を突きつけると、由紀の表情から完全に愛想笑いが消え去った。

 温度を一切感じさせない、冷ややかな視線が仁の顔に向けられる。


「……だとして、何ですか。私が誰の指名を受けようが、お客様には関係ないですよね」

「関係ある」


 仁は身を乗り出し、声を一段階落とした。


「あいつがSNSに上げてる顔は、俺だ。俺の日常を盗み、俺の顔を切り取って合成してる。……あんたなら、あいつの部屋で、その作業の裏側を見ているはずだろ」


 由紀は一瞬、眉をひそめて仁の顔をまじまじと見つめた。

 営業用の仮面がわずかに崩れ、その冷たい瞳に戸惑いの色が混ざる。やがて、彼女の視線は仁の右顎に貼り付けられた絆創膏の隙間――不格好に歪んだ三日月型の傷跡に縫い付けられたように動かなくなった。

 数秒の、ヒリヒリとするような静寂。

 由紀の喉の奥で、小さく息を呑む音がした。


「あなた……あの、素体の……?」


 かすれた声だった。彼女は、翔太の部屋で『高田仁』が作り出されていくあの狂気の裏側を、すぐ傍で見ていたのだ。


「あいつの本当のアジトはどこだ。あいつのシステムをぶっ壊すための情報が要る」


 仁の要求に対し、由紀はスッと目を細め、深く息を吐き出した。

 驚きはすぐに消え失せ、底なしの虚無感と諦めだけが彼女の顔に張り付いた。


「……帰ります」


 由紀はテーブルの上の小さなハンドバッグを手に取った。


「待て。お前もあいつにパーツとして良いように使われてるだけだろ」


 仁の言葉に、由紀は立ち上がりかけた姿勢のまま、冷ややかに鼻で笑った。


「使われて、何が悪いんですか」

「……何?」

「あの人は、私の時間を1時間何万円というお金で買ってくれている。私はただ隣に座って、カメラの前に手首を出すだけ。別に殴られるわけでも、無理やり身体を要求されるわけでもない。最高の金ヅルです。パーツ扱いだろうと何だろうと、お金になればそれでいいんです」


 彼女は冷めた氷の浮くグラスを指先で弄り、抑揚のない声で言い放った。怒りも悲しみもなく、ただ目の前の現実を等価の現金として処理しきっている、底なしに冷え切った声だった。


「あなたは自分の顔を盗まれたから怒ってるんでしょうけど……そんなの、私には関係ない。あの人がインフルエンサーのふりをしていようが、他人の人生をパクっていようが、私にお金が振り込まれるならどうでもいいんです」

「あんなフェイク野郎の小道具にされて、自分の人生が空っぽだとは思わないのか」

「空っぽで結構です。だって、現実なんてどうせクソみたいなものじゃないですか」


 由紀は仁の着ている白いシャツのシワを見下ろした。


「あなたが素材だとして、それが何ですか。あの人はお金を持ってる。どんなセキュリティも破る技術を持ってる。誰もあの人の嘘を見抜けない。あなたみたいなお金もない、こんな場所にボロボロのシャツで来るような人間が足掻いたって、潰されるだけです。……巻き込まないでください」


 完全に扉を閉ざす言葉。由紀はそのまま背を向けようとした。


「なら、俺が引きずり下ろす」


 仁の低く、地鳴りのような声が由紀の背中を止めた。


「あいつの持ってる偽物の城を、全部ぶっ壊す。15万人の前で、あいつが他人の人生をパクって引きこもってるだけの無様な詐欺師だってことを暴く」

「……バカみたい。できるわけない」

「できる。俺だけじゃない、あいつの足跡を追ってる人間が他にもいる。……お前がこのままあいつの小道具で居続けるつもりなら、あいつが破滅する時に、お前も共犯のレンタル品としてネットの海で一緒に燃えることになるぞ」


 BGMのジャズの低音が鳴る中、由紀の背中が、わずかに強張った。

 数十秒の沈黙の後、由紀は振り返らずに、自分のハンドバッグの中から何かを取り出した。

 テーブルの上に、店のロゴが入った紙のコースターが裏返しに置かれる。

 由紀はそれ以上一言も発することなく、ラウンジの薄暗い出口へ向かって真っ直ぐに歩き去っていった。

 仁はテーブルに残された紙のコースターに手を伸ばした。

 裏側には、ボールペンで殴り書きされた英数字の羅列――暗号化されたメッセージアプリのIDが記されていた。

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