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第24話 偽りの彼女

 アパートの古びた郵便受けに突っ込まれていたチラシの束をゴミ袋に放り込んだ時、スウェットのポケットの中で代替機が短く振動した。

 液晶のヒビ割れた画面を表に返す。情報屋ののぞみからのメッセージだった。


『今日の午後1時、表参道の交差点。デートしよ。おっさん、間違ってもあの油臭いパーカーで来ないでね』


 仁は画面の文字列を二度読み返し、短く息を吐いた。

 デート。わざわざそんな言葉を使う意図は分からないが、指定された場所柄、目立たないためのカモフラージュが必要なのだろう。

 部屋の隅の段ボール箱の中では、ムギとキナコが毛布に包まって身を寄せ合い、規則的な寝息を立てている。その小さな背中を一瞥してから、仁はクローゼットの奥を探った。

 数年前、まだ就職活動をしていた頃に着ていた、オックスフォード生地の白い襟付きシャツと、細身のチノパン。ハンガーに掛けっぱなしだったため防虫剤とカビの混ざったような古い匂いがしたが、油臭いパーカーよりはマシだ。

 袖を通すと、肩回りの生地がひどく突っ張った。ラグビーで鍛えていた当時の筋肉が落ち、逆に変な場所に脂肪がついたせいだ。首元のボタンを一つ開け、スニーカーの泥汚れを濡れタオルで手早く拭き取ってから、仁は部屋を出た。


 表参道の交差点は、初夏の乾いた風と、高級ブランドの紙袋を提げた人々の熱気に包まれていた。

 ケヤキ並木の影が歩道に落ち、行き交う外車の低いエンジン音が絶え間なく響いている。仁は交差点の端にあるガラス張りのビルの前で、周囲の視線を気にしながら所在なく立っていた。

 スマホのカメラレンズが自分に向けられていないか、無意識のうちにすれ違う人間の手元を確認してしまう。


「おっさん、遅い」


 背中を軽く叩かれ、振り返る。

 そこに立っていたのは、いつものレザーとダメージデニムのパンクな装いではなく、落ち着いたネイビーのノースリーブワンピースに身を包んだ女だった。


「……のぞみ、か?」

「そうだよ。誰かと思った?」


 のぞみは伊達メガネを外し、悪戯っぽく笑った。グランジ風だったボブヘアーはワックスで綺麗に撫でつけられ、スモーキーだったアイメイクもナチュラルなものに変わっている。どこからどう見ても、休日の表参道に買い物に来た洗練された若い女性だ。


「服、それしかなかったわけ? まぁ、小汚い格好じゃないだけマシか」


 のぞみは仁のシャツを値踏みするように上下に見ると、一切の躊躇なく、仁の右腕に自分の腕を絡ませてきた。


「なっ……」

「デートでしょ。堂々と歩きなよ、変にキョロキョロしてる方が不審者っぽくて目立つから」


 のぞみは仁の腕を強く引き、人混みの中へと歩き出した。

 他人の体温が腕に密着する感覚。ムスクとアンバーが混ざったような、少しスパイシーで大人びた香水の匂い。

 仁は身体を強張らせながら、のぞみの歩調になんとか合わせて歩いた。


「ターゲットがよく使うテリトリーには、そいつと同じ保護色で入るのが一番なんだよ。ここら辺のカフェやラウンジ、あいつのSNSにしょっちゅう登場してるでしょ」


 腕を組んだまま、のぞみが前を向いて小声で言う。

 大通りから入り組んだ路地へ入り、蔦の絡まるコンクリート造りのお洒落なカフェの前に着いた。

 のぞみが重いガラス扉を押す。店内は薄暗く、各テーブルの距離が広く取られた静かな空間だった。客層は若く、皆一様に洗練された身なりをしている。

 奥のソファ席に座るなり、のぞみは腕を離し、いつもの鋭い目つきに戻った。

 店員がメニューを持ってくると、彼女は一番高いフルーツティーを二つ頼み、すぐに自分のタブレットをテーブルの中央に置いた。


「結論から言うね」


 のぞみが素早い手つきで画面をスワイプする。


「あいつのSNSに頻繁に出てくる『本命の彼女』。背が高くて、華奢な骨格の女。こいつの正体、橘栞じゃないのは前に言ったよね」

「ああ」

「裏垢の特定班と繋がって、あいつの投稿画像に写り込んでる女の持ち物を全部洗った。時計、バッグ、ネイルのサロンの傾向。そこから個人の特定に入ろうとしたんだけど……途中でおかしいことに気付いた」


 のぞみは画面に、MINATOの投稿画像をいくつか並べて表示した。

 女性の首から下や、手元だけが写っている写真群だ。


「この女が身につけてるハイブランドのアクセサリーやバッグ。これ、全部『レンタル品』なんだよ。月額制でブランド物を借りられるサービスのタグと、傷の位置が完全に一致した」


 仁は黙って画面を見つめた。


「女の私服じゃない。となると、女自身も『それ用』に用意されたプロの可能性が高い。ってことで、高級な交際クラブやレンタル系のキャスト名簿に顔認識と骨格のデータをぶち込んでスクレイピングをかけた」


 のぞみはタブレットの画面を切り替えた。

 ピンクと黒を基調とした、派手なデザインのウェブサイト。

 画面の上部には『高級レンタル彼女・プレミアムキャスト』という文字が踊っている。

 そのサイトの個別プロフィールページが、画面の中央に表示された。


『由紀 19歳・大学生』


 写真に写っているのは、透き通るように白い肌と、赤茶色の長いストレートヘアを持つ女性だった。どこかメランコリックで、大人びた冷たい視線をカメラに向けている。身長は170センチ以上あると記載されていた。


「大塚由紀。19歳。これが、あいつのSNSにしょっちゅう登場してる『完璧な彼女』の正体だよ」


 フルーツティーが運ばれてきたが、仁ものぞみもグラスには手を伸ばさなかった。


「……レンタル彼女?」

「そう。佐々木翔太は、この大塚由紀を週に何度も指名して、金払って隣に座らせてるんだよ。デートするためじゃない。自分のSNSの『成功者の生活』を演出するための、小道具のマネキンとして使うためにね」


 栞を強引に呼び出し、手元を撮影していたあのフレンチレストランの光景がフラッシュバックする。あれは、この大塚由紀のスケジュールが合わなかった時の、手近な代用品にすぎなかったのだ。


「この大塚由紀って女、店のトップキャストで指名料もバカ高い。彼女まで金で買ったレンタル品なんだよ。滑稽すぎて笑えないっしょ」


 のぞみは氷の入ったグラスをストローでかき混ぜ、冷めた目で画面の由紀の写真を見た。

 仁はテーブルの下で、靴の底を床に強く押し付けた。

 翔太は、ただの引きこもりのオタクではない。自分の偽の城を維持するために、金とシステムを徹底的にコントロールしている。

 だが、その完璧なコントロールには、必ず生身の人間の綻びが生じる。


「……この大塚由紀は」


 仁が低い声で切り出した。


「あいつの、本当の顔を知ってるんだな」


 のぞみがストローから口を離し、仁を見た。


「もちろん。撮影の時、目の前に座ってるんだから。それに、これだけ頻繁に指名されてるなら、あいつの配信部屋とか、本当の生活圏に連れ込まれてる可能性も高い」

「あいつのハッキングのシステムも、俺の顔を加工している裏側も、こいつなら見ているかもしれないってことか」

「そういうこと。この女は、フェイク野郎の城の内側にいる唯一の生きた証人だよ」


 のぞみはタブレットの画面をタップし、由紀のスケジュールのカレンダーを表示させた。

 ほとんどの枠が『予約済』で埋まっているが、数日後の夜に、ポツンと数時間の空きがある。


「ただ、プロのキャストだよ。客のプライバシーをペラペラ喋るわけない。どうやって口を割らせる気?」


 のぞみの問いに、仁は自分のポケットから画面の割れた代替機を取り出した。

 電源を入れ、ネットバンクのアプリを立ち上げる。

 現在の口座残高。

 次の給料日までの生活費ギリギリの、惨めな数字が表示されている。


「……俺が、こいつを買う」


 仁は代替機をテーブルに置き、のぞみのタブレットの画面に表示された『指名して予約する』の赤いボタンをじっと見つめた。

 大塚由紀。19歳。

 俺の顔を盗んだ男の、最も近くにいる女。


「金なら、なんとかなる」


 仁はタブレットの赤いボタンの上に、自分の親指を乗せた。

 ガラスの表面を強く押し込む。

 画面が切り替わり、予約の確定画面へと遷移した。

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