表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/52

第23話 栞の真実

 休日の朝。

 百円均一で買ってきた猫じゃらしの先端が、ささくれ立った畳の表面をカサリと滑る。

 仁はあぐらをかいたまま、手首のスナップだけでしならせ、プラスチックの棒を左右に不規則に振っていた。先端についた鮮やかなピンク色の羽毛が空気を切る微かな音が、淀んだ室内の空気をわずかにかき回す。

 キジトラのムギが身を極端に低くして狙いを定め、短い後ろ足で床を強く蹴って飛びかかる。小さな肉球が大きく開き、鋭い爪が羽毛の塊にガッチリと引っかかる。そのまま勢い余って、ムギは畳の上をゴロゴロと不格好に横転した。

 少し離れた段ボール箱の影から、茶トラのキナコがそのドタバタ劇をじっと観察している。ムギが転がって無防備な腹を見せた瞬間、キナコが横から弾かれたように飛び出し、猫じゃらしの持ち手のプラスチック部分に細い乳歯で噛み付いた。

 ムギが素早く起き上がり、今度はキナコの背中に飛び乗る。二匹の小さな毛玉は、猫じゃらしの棒を挟んで短い手足をバタバタと動かし、ポコポコと互いの頭を叩き合うような不器用な喧嘩を始めた。

 仁は猫じゃらしから手を離し、二匹のじゃれ合いを無言で眺めていた。

 ゴミ捨て場から拾ってきた時は泥と雨にまみれて死にかけていたキナコも、数日間の粉ミルクの投与でみるみる体力を回復し、今ではムギと互角に取っ組み合いができるようになっている。

 二匹はひとしきり暴れ回ると、疲れたのか並んで畳の上に寝そべり、互いの顔や耳の裏を小さな舌で舐め合い始めた。ザリッ、ザリッという微かな摩擦音が部屋の壁に吸い込まれていく。

 傍らに伏せて置いてあった画面の割れた代替機が、短くバイブレーションした。

 液晶のヒビ割れに気をつけながら、画面を表に返す。のぞみからのメッセージだった。


『獲物の過去の足取り、裏取れたよ。恵比寿で落ち合おう』


 短いテキストの下には、待ち合わせ場所を示す位置情報のURLが添付されていた。

 仁は短く『行く』とだけ返信し、立ち上がって洗濯したばかりの灰色のパーカーを羽織った。


 恵比寿駅から少し離れた、閑静な路地裏。

 梅雨入り前のじっとりとした生温かい熱気が、高いビルの谷間に澱んで逃げ場を失っている。換気扇から断続的に吐き出される微かな油の匂いが鼻をついた。

 のぞみは、路地裏のブロック塀の陰に停めた黒いスクーターのシートに跨り、ヘルメットを顎に引っかけたままスマホの画面を凝視していた。レザージャケットの下は黒いタンクトップという身軽な格好で、首元にはシルバーのチェーンが鈍く光っている。

 仁が小走りで近づくと、のぞみは画面から目を離さずに片手を上げた。


「遅いよ」

「悪い。……それで、あいつの足取りは」

「あんたが言ってた『佐々木翔太』。ネットの海からリアルの生活圏を洗い出すのにちょっと骨折ったけど、面白いもんが取れたよ」


 のぞみは持っていたスマホの画面を、仁の顔の前に突き出した。


「先週末、あいつが恵比寿のフレンチで女とメシ食ってた時のデータ。店のバイトの裏垢から引っ張ってきた隠し撮り動画」


 仁が身を乗り出し、ひび割れた画面を覗き込む。

 粗い画質で細かく手ブレしている十数秒の動画には、白いパラソルが日陰を作るテラス席が映っていた。

 そこに、少し猫背気味に座る男の姿がある。

 髪は不自然なほど綺麗にセットされているが、頬の肉は不健康に削げ落ちている。分厚い黒縁眼鏡の奥の目は、目の前に置かれた色鮮やかな料理には一切向けられていない。手元のスマホの画面にだけ異様な執着を持って張り付いている。

 佐々木翔太。

 高校時代の部室の隅でカメラをいじっていた頃から、少しも変わっていないあの神経質そうな横顔。

 そして、大理石のテーブル越しに翔太と向かい合って座っているのは、白いブラウスを着た女性だった。


「……栞」


 仁の口から、無意識にその名前が漏れた。

 橘栞。俺の職場の正社員。俺の顔を盗んだあのストーカー男と、向かい合ってフレンチを食べている。


「やっぱり、あんたの知り合いの女なんだね」


 のぞみがプレビュー画面の再生ボタンをタップし、動画の音声を流した。

 周囲の雑踏やカトラリーの鳴るノイズに混じって、翔太の甲高く、どこか焦燥感を帯びた早口な声がスマホのスピーカーからはっきりと聞こえてきた。


『……でさ、今のプロジェクト、俺がほぼ一人で回してるようなもんなんだよね。会社のシステムも、俺の権限がないと動かない状態だし。年収も同年代の中じゃトップクラスだからさ、ぶっちゃけ金使う暇がないんだよね』


 相手の反応を待たない、自己陶酔に満ちた淀みない自慢話の羅列。

 それに対する、栞の反応。


『へえ……すごいですね、佐々木君』


 仁は思わず眉をひそめた。

 動画から聞こえてくる栞の声は、普段職場の休憩室で乙女と笑い合っている時の明るく弾んだ声とは全く違っていた。声のトーンが不自然に低く、仕事の面倒な取引先に向けるような、感情の一切乗っていないただの相槌だった。


『あ、ちょっと待って。その料理と、君の左手。そのまま動かさないで』


 翔太の声が、急にトーンを変える。早口で、相手をコントロールしようとする命令するような強い響き。


『え? あ、はい……』


 栞の戸惑う息遣いが漏れる。

 カシャッ、カシャッ、と、スマホのシャッター音が執拗に連続して鳴り響く。


『ごめんね、俺、写真の構図にちょっとこだわりがあってさ。こういう上質な空間には、君のその綺麗なネイルのパーツがないと映えないから。少し手首の角度、こっちに捻れる?』

『……パーツ?』


 栞の、完全に引いているような、呆然とした声が録音されていた。

 音声ファイルがそこでブツリと切れる。

 のぞみが電子タバコを携帯灰皿にしまい、ヘルメットのシールドを押し上げた。


「どう? クソキモいでしょ。相手の女、完全にドン引きしてんじゃん」


 仁は路地裏のコンクリートブロックの壁に手をつき、肺の奥に溜まっていた重い空気をゆっくりと吐き出した。

 栞は、翔太と親密な恋愛関係にあるわけではなかった。

 ただ、学生時代から連絡先を知っていた程度の男から、仕事の話か何かで強引に呼び出され、付き合わされているだけなのだ。


『素敵な彼女』としてSNSに投稿されたあのボルドー色のネイル。


 あれは、栞の意思とは全く関係のないところで、翔太が自分の虚栄心を満たすためのパーツとして勝手に切り取り、利用していただけのものだった。

 胸の奥に渦巻いていた、栞に対する一方的な失望感が急速に薄れていく。その代わりに、他人の人生や尊厳をただのピクセルの素材としてしか見ない翔太の異常性に対する、吐き気を催すほどの激しい嫌悪感が、胃の底からせり上がってきた。


「ただのクズだな」


 仁の低い声に、のぞみは「同感」と短く返した。


「でもさ、これであいつの底が全部見えたわけじゃないんだよね」


 のぞみはスクーターのメットインをガチャリと開け、一枚のプリントアウトされた用紙を取り出して仁に渡した。

 MINATOのアカウントに投稿された、別の日の写真のスクリーンショットだった。

 高級ホテルのラウンジらしき場所で、ワイングラスを持つ女性の手元と、わずかに写り込んだ肩のライン。


「アタシも最初、MINATOのSNSに出てる女は全部この橘栞って人だと思ってた。でも、この写真見てよ。肩幅とか、指の長さの骨格が、さっきの橘栞とは明らかに違う」


 仁は用紙に目を落とした。

 確かに、写真に写る腕や肩のラインは、栞のものよりもずっと細く、どこかモデルのように華奢だった。


「あいつ、橘栞以外にもパーツとして使ってる女がいる。しかも、過去の投稿を洗うと、こっちの背が高い女の方が圧倒的に出現頻度が高い。橘栞は、ただのたまのピンチヒッターにすぎない」


 のぞみは用紙を仁の手から抜き取り、再びメットインに放り込んだ。


「こっちの『本命のパーツ』の女。これだけ頻繁に呼び出されて、あいつのイキり写真の撮影に付き合わされてるなら、あいつの本当の生活圏や、あのフェイク配信の裏側を知ってる可能性が高い」


 仁は顔を上げた。


「その女の正体は、分かるのか」

「今、裏垢のネットワーク使ってこの女の着てる服とかアクセサリーのブランドから絞り込みをかけてる。……たぶん、素人じゃないね。こういう金持ちぶった男の扱いに慣れてる、玄人の匂いがする」


 のぞみはエンジンキーを回した。低い排気音が路地裏の壁に反響する。


「本命の女が割れたら、また連絡する。それまで、あんたはあんたの職場で、せいぜいフェイク野郎にバレないように息を潜めてなよ」


 のぞみは短くクラクションを鳴らし、そのまま路地裏を抜けて大通りの車の流れの中へと消えていった。

 排気ガスの匂いが漂うアスファルトの上に残され、仁はポケットの中の古い代替機を強く握りしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ