第22話 乙女のSNS嗅覚
四畳半の部屋の薄汚れた網戸越しに、夕方の冷たい風が吹き込んでくる。
丸めたスーパーのレシートが、日焼けしてささくれた畳の上を不規則に風で転がった。
「ミャッ!」
キジトラの子猫が、フローリング風のクッションフロアの境界線で思い切り踏み切り、宙を舞ってレシートに飛びかかる。だが、まだ筋力も距離感も掴めていないのか、見事に空振りをして自分の勢いのままゴロゴロと畳の上を横転した。
そのドタバタとした様子を、段ボール箱の縁に小さな顎を乗せてぼんやりと見つめていた茶トラの子猫が、のっそりと這い出してきた。茶トラは転がっているキジトラの短い尻尾に狙いを定め、背後から飛びついて細い乳歯で甘噛みをする。
驚いたキジトラが反撃し、二つの小さな毛玉が畳の上で取っ組み合いの喧嘩を始めた。
仁はちゃぶ台の前にあぐらをかいて座り込んだまま、その小さな命の躍動を静かに眺めていた。
情報屋ののぞみに会った夜、冷たい雨の降るゴミ捨て場から拾い上げてきた茶トラの子猫は、病院に連れて行く金すらない俺の素人介抱で生き延びられるかどうかも分からなかった。数時間おきにスポイトで粉ミルクを口に含ませ、排泄を促し、夜中はキジトラが湯たんぽ代わりにぴったりと寄り添い続けた。その結果、今ではこうして元気な声で鳴き、ひっくり返って走り回れるまでに体力を回復していた。
「……おい、やりすぎるなよ」
仁がそっと両手を伸ばし、激しく絡み合っている二匹の間に指を入れる。
キジトラが仁の親指にじゃれつき、茶トラは人差し指の腹をザラザラとした舌で舐め始めた。
これまではただ「キジトラ」「茶トラ」と呼んでいたが、こうして二つの個性がはっきりと分かれてくると、さすがに名前が必要だと感じた。
「お前はすばしっこいから、ムギだ。お前は……色が薄いから、キナコ」
安直で、三十過ぎの男の独り暮らしの部屋には不釣り合いなほど間の抜けた名前だ。
だが、仁が少しだけ声を張って「ムギ。キナコ」と呼んでみると、二匹はじゃれ合うのをピタリとやめ、同時に小さな耳をピンと立てて仁の顔を見上げた。
まだ自分の名前だと認識しているわけではないだろう。ただ音に反応しただけだ。それでも、濡れたガラス玉のように透き通った丸い瞳に見つめ返されると、荒みきっていた胸の奥に、じんわりとした確かな熱が広がるのを感じた。
キナコがトコトコと歩いてきて、仁のあぐらをかいた膝の上によじ登り、そのまま丸くなって喉をゴロゴロと鳴らし始めた。ムギもそれに続くように膝に乗り、キナコの背中にあごを乗せて目を細める。
仁はざらついた舌で指先を舐められる感触を味わいながら、膝の上に伝わる二つの柔らかな重みと、微かな寝息の規則的なリズムにただ静かに身を委ねていた。
午前3時。
物流センターの休憩室は、自販機の低いモーター音と、奥のソファで死んだように眠る数人の派遣社員の寝息だけが支配していた。白々しい蛍光灯の光が、パイプ椅子に座る仁と、向かいの丸山乙女を無機質に照らし出している。
乙女は手元に自分の派手なラインストーンでデコレーションされたスマホを置き、さらに仁が持ち込んだ画面の割れた代替機を並べて、忙しなく視線を往復させていた。
プルタブを開け、エナジードリンクをストローで啜る。炭酸と合成甘味料の匂いが鼻をつく。
「……で、このMINATOってアカウントのメッキを剥がしたいんですよね」
乙女が小声で確認してくる。
「ああ」
「先輩がなんでそこまでこのインフルエンサーに執着してるのかは謎ですけど、まあいいです。私も最近のこいつのイキり方は鼻についてたんで」
乙女は長くデコレーションされた爪で仁の代替機の画面をタップし、MINATOの直近の投稿一覧を表示させた。
「こいつ、15万フォロワーとか言ってますけど、中身はスッカスカのハリボテですよ」
「フォロワーを買ってるって、この間言っていたな」
「買ってるなんてもんじゃないです。これ、見てください」
乙女の細い指先が、ある投稿の「いいね」を押したユーザーのリストを次々とスクロールしていく。
「アイコンがグレーの初期設定のままのアカウントとか、意味不明な英数字の羅列、投稿がゼロの非公開アカウントばっかり。明らかにお金で動いてる海外の業者botです。しかも……」
乙女は別の投稿の隅にあるタイムスタンプを指差した。
「こいつ、投稿する時間帯がめちゃくちゃ不自然なんですよ」
「時間帯?」
「普通、こういうライフスタイル系のインフルエンサーって、みんながスマホを見てる夜の8時とか9時のゴールデンタイムに投稿を固定するんです。アルゴリズム的にもその方がインプレッションが伸びるんで。でもこのMINATOは、深夜の3時とか、明け方の5時とかに平気で連投してる」
仁は画面を覗き込んだ。確かに、投稿時間がバラバラだ。
「しかも、変な時間にアップした直後の数十分で、一気に『いいね』が1万件とかつくんです。その後はピタッと止まる。普通に考えてあり得ないですよね」
乙女が呆れたように鼻で笑う。
「これ、予約投稿じゃなくて、手動でやってますよ。夜中に起きて、自分でツールのスイッチ押して数字を盛ってるんです。フォロワーの反応が気になりすぎて、たぶんまともに寝てないんじゃないですかね」
深夜の暗い部屋で、血走った目でモニターの数字に張り付く男の姿が、仁の脳裏に生々しく浮かび上がった。
どんなに高度なシステムを組み上げ、15万人からチヤホヤされるフェイクの城を築こうと、その実態は深夜に自分でツールをポチポチと手動で回し続けなければ気が狂いそうになる、孤独で滑稽な男の姿だった。俺の生活を覗き見し、俺の皮を被りながら、あいつは暗い部屋に引きこもって数字の増減に一喜一憂しているのだ。
「あと、コメント欄のパトロールも異常に早いです」
乙女の言葉が続く。
「どういうことだ」
「アンチコメントとか、ちょっとでも批判的な意見がつくと、数分で光の速さで削除されて、アカウントごとブロックされてます。常に自分のタイムラインに張り付いて監視してないと、あんな対応無理ですよ」
乙女はスマホの画面を伏せ、仁の顔を真っ直ぐに見た。
「この人、自分を『完璧な成功者』に見せることに必死すぎます。少しでも傷がつくのが怖いんですよ。典型的な、承認欲求のバケモノです」
「……」
「自分が一番じゃないと気が済まない。他人から見下されることを何よりも恐れてる。だから、こんな面倒くさいフェイクを必死に維持してるんです」
的確すぎる分析だった。
乙女の指摘は、翔太という人間の根底にある致命的な弱さを正確にえぐり出していた。他人の人生の美味いところだけを吸い上げ、完璧な成功者を気取っておきながら、少しの批判や数字の停滞すら許容できない。画面の向こう側の見知らぬ連中からの賞賛が途切れれば、あいつの自我はあっという間に干からびて崩壊するのだ。
「そういう奴って、どうすればボロを出す?」
仁の低い問いかけに、乙女は口角を上げて少しだけ意地悪く笑った。
「簡単ですよ。こいつのプライドをピンポイントで刺激するような、分かりやすい『餌』を目の前にぶら下げればいいんです」
「餌?」
「はい。自分より『上』のもの、あるいは自分が『持っていない』ものを見せつけられたら、こういうタイプは我慢できなくて絶対マウントを取りにきます。自分の完璧な世界を脅かす異物を、自分の手で叩き潰して優越感に浸りたくなるんです」
乙女はテーブルの上の空になったエナジードリンクの缶を指先で弾いた。カラン、と軽い金属音が響く。
「こっちから動いて罠を張るんです。こいつが絶対に食いつくような、最高にウザい『映え』の餌を撒いて、向こうから尻尾を出させるんですよ」
仁は乙女の言葉を頭の中で反芻した。
翔太が絶対に食いつく餌。あいつが俺から奪い、自分のものとして誇示したいと渇望しているもの。
高校時代からずっとあいつが手に入れられず、今でも底なしの執着を抱いているもの。
あいつは、俺の過去の栄光を埃を被ったゴミとして扱いながら、それでも俺の人生のパーツを自分の背景に並べずにはいられなかった。ならば、あいつが今一番欲しがっていて、絶対に手に入らないものを、俺の手の中に見せつけてやればいい。
仁は無言のまま、テーブルの上に置かれた画面の割れた代替機を見つめていた。




