第21話 情報屋との接触
休日の深夜。雨上がりの新宿。
ネオンの反射でギラギラと光るアスファルトの裏路地に、吐瀉物とアルコールの酸っぱい匂いが滞留している。
仁は薄暗い雑居ビルの壁に背を預け、冷え切った缶コーヒーを握りしめていた。
アリアの逆探知で、翔太のマンションのIPアドレスは割れた。だが、ネット上の住所から現実の「佐々木翔太」の生活圏や交友関係、そして何より『MINATO』として活動する際の具体的なアジトを特定するには、どうしても物理的な「足」が必要だった。
アリアはサイバー空間のプロだが、ストリートの泥水の中を這いずり回るような真似はできない。乙女のSNSの知識も、画面の向こう側の出来事を暴くためのものだ。
現実の街で、他人の裏の顔を暴き、引きずり下ろすことに特化した人間。
仁の頭には、数年前に一度だけ関わったことのある、ある女の顔が浮かんでいた。
当時、派遣先の倉庫で横行していた備品の横流し事件。その主犯格だった社員の弱みを握り、会社から慰謝料代わりに金をむしり取って消えた、フリーのルポライターを名乗る小柄な女。
仁は古い代替機を取り出し、記憶の底から引っ張り出した連絡先に、昨日短いメッセージを送っていた。
『大物のインフルエンサーの裏の顔を売りたい』
それに対する返信は、時間と場所を指定する一言だけだった。
「よぉ、おっさん。相変わらずシケた面してんな」
不意に、真横の暗がりから声がした。
仁が顔を向けると、黒いレザージャケットにダメージスキニーというパンキッシュな装いの女が立っていた。
杉山のぞみ。23歳。
手入れされているのかいないのか分からないグランジ風のボブヘアー。スモーキーなアイメイクの奥にある瞳は、夜の野良猫のように野心的で、常に他人の隙を探るような冷たい光を宿している。
「……久しぶりだな」
「で? 呼び出しておいてその態度かよ。アタシ、暇じゃないんだけど」
のぞみは仁の横に並んで壁に寄りかかり、ポケットから電子タバコを取り出して咥えた。
「売るって言ってたネタ、誰のこと? 10万人以下のショボい奴なら帰るよ」
「『MINATO』だ」
仁が短く答えると、のぞみは電子タバコを吸い込む動作をピタリと止めた。
「MINATO……あの、最近意識高い系の界隈でバズり散らかしてる奴? 15万フォロワーの」
「ああ」
「へえ」
のぞみは面白そうに口角を上げ、紫色の煙をゆっくりと夜空に吐き出した。
「あいつ、隙がなさすぎて気持ち悪いんだよね。タワマン住んで高級車乗り回してるのに、プライベートのボロが一切出てこない。裏垢の気配もないし、女の影も巧妙にコントロールしてる。……で、あんたがあの完璧なフェイク野郎の何を握ってるって?」
仁は黙ってポケットから、アリアが解析したあの紙片を取り出し、のぞみに差し出した。
「こいつの、本当の住所だ」
のぞみは紙片を受け取り、街灯の光に透かして見た。
「……郊外の、ごく普通のマンションじゃん。タワマンのタの字もない」
「あいつのSNSの画像は、全部俺の生活をハッキングして、AIで加工して作ったものだ」
のぞみは鼻で笑おうとして、仁の目を見て動きを止めた。
血走った瞳の奥にある、冗談や虚勢とは無縁の、どす黒く重い狂気。
「……本気で言ってんの?」
「俺のスマホにマルウェアを仕込んで、俺の行動を素材にして絵を描かせていた。あいつの顔も、俺の顎や髭のパーツを合成したものだ」
仁は自分の顎にある三日月型の傷跡を指差した。
のぞみの目が僅かに見開かれ、すぐに自身のスマホを取り出してMINATOの過去の投稿画像を検索した。画面の中の傷跡と、目の前に立つ薄汚れた男の生身の傷跡を交互に見比べる。
「……マジか。これ、全部ディープフェイク?」
「俺の顔だけじゃない。俺が食べた半額弁当、俺が歩いた裏路地、俺の仕事着についた機械油のシミ。全部あいつの養分になった」
仁の声は低く、ひび割れていた。
「俺は、あいつの化けの皮を完全に引き剥がしたい。ネット上だけじゃない。あいつの現実の生活、金の流れ、配信のアジト。全部を暴き出して、15万人の前で叩き潰したい。そのための足取りを追ってほしい」
のぞみは電子タバコを携帯灰皿にしまい、仁の顔を改めて値踏みするように見つめた。
「あんたみたいな冴えないおっさんが、そこまで執着するなんてね」
「あいつは、高校時代の俺の同級生だ。俺への異常なコンプレックスをこじらせて、俺の人生を乗っ取ろうとしてる」
数秒の沈黙。
やがて、のぞみの唇の端が、三日月のように歪に吊り上がった。
「……最高じゃん」
彼女の声には、他人の不幸を食い物にするパパラッチ特有の、ゾクゾクするような歓喜が混じっていた。
「完璧なインフルエンサーの正体が、元同級生の人生を泥棒してるだけの陰湿なハッカー。しかもAIで作ったフェイク野郎。これを暴いたら、ネットの連中、どんな顔して炎上させるかな」
のぞみは紙片を自分のレザージャケットの内ポケットにしまい込んだ。
「乗った。そのネタ、アタシが徹底的に裏を取ってやる。まずはこの住所の周辺を洗って、あいつの物理的なアジトと、女の影を炙り出してやるよ」
「……頼む」
「ただし、タダじゃないよ。暴いた後の特大のスクープは、アタシが好きに売らせてもらうからね」
「好きにしろ。俺はあいつが破滅するところが見られればそれでいい」
のぞみは満足げに頷き、踵を返して夜の雑踏の中へと歩き出した。
仁は薄暗い壁に背中を預けたまま、ネオンの光に紛れていく彼女の黒いレザージャケットをじっと見送っていた。
午前2時。
仁はアパートへの帰り道、人気の途絶えた住宅街の裏路地を歩いていた。
のぞみという劇薬を味方につけたことで、腹の底でくすぶっていた闘志が確かな熱を帯びている。
その時、足元の暗がりから、微かな音が聞こえた。
「……ミィ」
立ち止まる。
仁はスマホのライトを点け、音のする方向を照らした。
ゴミ捨て場の脇。カラスよけの青いネットのすぐ下に、手のひらサイズの小さな毛玉がうずくまっていた。
泥にまみれ、ガタガタと震えている。柄は茶トラ。先日拾ったキジトラと月齢は同じくらいだ。もしかすると、同じ親から生まれて、別々の場所に遺棄された兄弟かもしれない。
仁はスマホをポケットに突っ込み、その泥だらけの毛玉の腹の下に両手を滑り込ませて、静かに持ち上げた。
指先に骨の感触が直接伝わってくるほどの軽さ。そして、体温は急速に失われつつあった。
心拍は微弱で、呼吸の間隔が異常に開いている。このまま放っておけば、間違いなく今夜中に死ぬだろう。
「……おい」
仁は着ていたパーカーのジッパーを下げ、自分の素肌の胸元に直接子猫を押し当てた。
俺の体温を少しでも分け与えるように、パーカーの上から両手でしっかりと抱え込む。
他人の命を拾う余裕など、相変わらずどこにもない。だが、これ以上、失われていく体温をただ黙って見過ごすことはできなかった。
仁は胸の中心に冷たい毛玉の感触を抱えたまま、アパートへの道のりを急いだ。
アパートの鉄の扉を開ける。
四畳半の部屋は、いつものカビ臭い静寂に包まれていた。
「ミャッ!」
靴を脱ぐ音に反応して、段ボール箱の中からキジトラの子猫が顔を出した。
仁はパーカーのジッパーを開け、胸元から茶トラの子猫をそっと取り出した。
冷え切っていた身体は、わずかに人間の体温を吸収して少しだけ動くようになっていたが、まだ目は開かず、呼吸も浅い。
仁は急いで古タオルをお湯で濡らし、茶トラの身体にこびりついた泥を優しく拭き取っていった。
キジトラの子猫が、箱の縁に前足をかけてその様子をじっと見つめている。
「お前の兄弟かもしれないぞ」
仁が低く声をかけると、キジトラは短い尻尾を振り、茶トラの匂いを嗅ごうと鼻をヒクつかせた。
泥を拭き取り、ドライヤーの温風を遠くから当てて毛並みを乾かす。
哺乳瓶に温かい粉ミルクを作り、茶トラの小さな口元に持っていく。
最初は反応がなかったが、何度かゴムの乳首を唇に擦り付けると、微かに口が開き、舌がミルクの味を捉えた。
ズズッ、ズズッという、不器用で必死な音が鳴り始める。
仁はホッと息を吐き、そのまま根気よくミルクを飲ませ続けた。
数十分後。腹を満たした茶トラは、ようやく満足そうな微かな寝息を立て始めた。
仁は茶トラを段ボール箱の中にそっと下ろした。
すると、キジトラがすぐに近づいてきて、茶トラの身体を自分の小さな舌でペロペロと舐め始めた。茶トラもそれに安心したように、キジトラの温かいお腹の下に潜り込み、二つの小さな毛玉は完全に一体化して丸くなった。
仁はちゃぶ台の前に座り込み、二匹の子猫が寄り添って眠る姿を無言で眺めていた。
俺の部屋には今、二つの命の鼓動がある。
仁はちゃぶ台の上に置かれた古い代替機を手に取り、画面のロックを解除した。




