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第20話 反撃の狼煙

「心当たりがある」


 乙女の顔を思い浮かべ、非常階段の重い鉄の扉に手をかけた仁の背中に、アリアの冷ややかな声が飛んだ。


「待って」


 仁が振り返ると、アリアは黒いライダースジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、ダークブラウンの瞳で仁を真っ直ぐに見据えていた

「相手の持つ手札の異常さを、本当に理解してる?」


 アリアの言葉は、冷水を浴びせるように鋭かった。


「奴はただのストーカーじゃない。素人を監視するためだけに、莫大な資金と国家機関レベルのシステムを湯水のように使い潰せる環境にいる。15万人という信者を抱えた権力者よ。対してあなたは、何の力も持たないただの非正規の労働者」


 残酷なまでに正確な事実の羅列。


「中途半端な覚悟で手を出せば、今度こそ社会的に完全に抹殺されるわよ。逆にシステムをハッキングし返されたり、あなたの個人情報や過去のすべてをネットにバラ撒かれたりするリスクだってある」


 冷たい夜風が、二人の間を吹き抜ける。国道の騒音が足元から這い上がってきた。


「このまま息を潜めて、一生影に隠れて怯えて生きるか。それとも……噛みつくか」


 アリアの問いかけは静かだったが、相手の魂の底を直接探るような重さを持っていた。


 怯えて生きるか、噛みつくか。


 仁は、無意識のうちに自分の両手を強く握りしめていた。

 高校時代の、夏のグラウンドの土の匂いが鼻腔の奥に蘇る。

 県大会の決勝。相手は全国レベルの強豪校で、体重が20キロも違う外国人留学生の突進を真正面から受け止めなければならない場面があった。

 地響きを立てて迫ってくる巨大な肉の塊。

 恐怖で足がすくみ、逃げ出したい本能が全身で悲鳴を上げていた。

 だが、あの時の俺は逃げなかった。泥にまみれ、顔面を蹴り飛ばされながらも、相手の足首に死に物狂いで食らいつき、その巨体を引きずり倒した。

 骨が軋み、口の中が血の味で満たされたあの感触。恐怖を凌駕する、強烈な生存本能の爆発。

 今の俺は、あの時の留学生よりもはるかに巨大で、得体の知れないシステムを纏ったバケモノに立ち向かおうとしている。

 だが、相手の正体は分かった。全知全能の悪魔ではない。暗い部屋のモニターの向こうで俺の過去の映像にすがりつき、フォロワーの数字に一喜一憂している、ただの卑小な男だ。


「噛みつく、なんて可愛いもんじゃない」


 仁の口から、ひどく低く、地の底から響くような声が漏れた。


「あいつの足首に食らいついて、そのハリボテの城ごと噛み砕いて引きずり下ろす」


 仁の目に宿った、暗く燃えるような光。すり減った派遣社員の淀んだ目はそこにはなく、かつてグラウンドで巨大な敵を真っ向からねじ伏せようとしていた時の、静かで暴力的な熱が宿っていた。

 アリアは数秒間、その仁の目をじっと見つめ返し、やがてふっと口元を緩めた。


「……いい顔になったわね」


 彼女はそれだけ言うと、仁より先に鉄の扉を開け、フロアへと戻っていった。


 午前2時。

 冷え切った物流センターのフロアには、相変わらず無機質なタイピング音が響き渡っている。

 仁はモニターの数字を機械的に打ち込みながら、隣の席を横目で確認した。

 丸山乙女は、書類の束の陰にスマホを隠し、器用な親指の動きで画面を高速スクロールさせている。彼女の長いデコレーションネイルが画面を叩くカチカチという小さな音が、一定のリズムで聞こえてくる。

 仁は深呼吸をし、キーボードから手を離した。


「丸山」

「はい? 何ですか先輩」


 乙女はスマホから目を離さず、気だるそうに返事をした。


「少し、話がある」


 仁のひどく沈んだ声のトーンに気づいたのか、乙女はようやく顔を上げ、不思議そうに仁を見た。


「え、何ですか改まって。怒られるやつですか?」


 仁は周囲の目を気にしながら、ポケットから画面の割れた古い代替機を取り出し、デスクの下で乙女に向けた。

 画面には、MINATOのアカウントが表示されている。


「……こいつのことだ」


 乙女は一瞬きょとんとした後、呆れたように小さく息を吐いた。


「またMINATOですか? 先輩、本当にあのアカウント好きですね。もう完全にファンじゃないですか」

「ファンじゃない。……俺は、こいつを叩き潰したい」

「は?」


 乙女の目が丸くなる。彼女は仁の顔と、割れたスマホの画面を交互に見比べた。


「叩き潰すって、何言ってるんですか。アンチになるってことですか? やめた方がいいですよ、あのアカウント、フォロワー15万人もいるんですよ。先輩みたいな素人が粘着したところで、信者にボコボコにされて終わるだけです」

「こいつのフォロワーが金で買われた水増しだって、お前が言ったんだろ」


 仁は乙女の目を真っ直ぐに見据えた。


「お前は、こいつの投稿の不自然さや、コメント欄のサクラを一目で見抜いた。俺にはそんな知識も直感もない。だから、お前のその能力を貸してほしい」


 乙女は完全に引いたような顔をして、キャスター付きの椅子を少しだけ仁から遠ざけた。


「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ。なんで私がそんなことしなきゃいけないんですか。私、別にMINATOに恨みとかないし。だいたい、先輩とMINATOって何の関係があるんですか?」


 当然の反応だ。

 仁は、どこまで話すべきか迷った。俺の生活がハッキングされて、あいつの素材にされていると言ったところで、信じるわけがない。


「……こいつは、俺の過去を知ってる人間だ。俺の全てを盗んで、この偽物のアカウントを作り上げている」

「盗むって……」

「お前も言ったよな。最近のMINATOは、数字に飢えて本当の姿を見失ってるって。……あいつのメッキを剥がす方法を、一緒に考えてほしい」


 低く擦れた声と、充血した目で真っ直ぐに自分を射抜く仁の視線に押され、乙女は言葉を飲み込んだ。

 彼女の視線が、仁の真剣な瞳と、彼の手の甲に浮き出た太い血管をじっと観察している。

 数十秒の沈黙の後、乙女は大きなため息をつき、自分のスマホをデスクの上に裏返して置いた。


「……マジで言ってます?」

「本気だ」

「私、面倒くさいことに巻き込まれるの、ほんっと嫌いなんですけど」


 乙女はそう言いながらも、口元にはどこか面白がるような、好奇心を隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。


「でもまぁ、確かに最近のMINATOのイキり方はウザいと思ってたし。……で、どうやってあの15万人のハリボテを燃やすんですか?」


 数日後の午後8時。

 アパートの薄暗い四畳半。仁は深夜シフトに向かうため、洗いたての灰色のパーカーを羽織り、玄関の三和土に腰を下ろした。

 すり減ったスニーカーに足を入れようとした瞬間、足首に柔らかな毛玉が激突してきた。

 キジトラの子猫だ。

 拾ってきたばかりの頃の泥まみれだった姿はもうない。すっかり目に光を取り戻した子猫は、俺が外出の準備を始めると、ここ数日は決まってこうやって足元にまとわりついてくる。

 子猫は仁の足首を両方の前足でがっちりとホールドし、短い後ろ足で靴下をポコポコと連続で蹴り上げている。細い爪が布地に引っかかり、微かな抵抗感とチクリとした痛みが皮膚に伝わる。


「やめろ。遅刻する」


 仁が低い声で言いながら足を軽く振ると、子猫はポロリと床に転がった。だがすぐに立ち上がり、今度はスニーカーの垂れ下がった靴紐に狙いを定めた。

 紐の先端を口にくわえ、頭をブルブルと振って後ろへ引っ張る。その小さな体には不釣り合いなほどの力強さだ。


「留守番だ」


 仁がしゃがみ込み、靴紐から子猫を引き剥がす。

 手のひらに伝わる、折れそうなほど細い骨の感触と、じんわりとした柔らかな体温。

 子猫は仁の手の中で抵抗を諦め、大きな金緑色の瞳でじっと仁を見上げた。


「ミィ」


 喉の奥から絞り出すような、ひどく細く、心細げな鳴き声。

 たった一人でこの暗い部屋に取り残される不安が、その小さな身体全体から滲み出ている。親猫とはぐれ、冷たい雨の中で死にかけていたこの命にとって、今の俺が世界の全てなのだ。

 仁は子猫の額を指の腹で一度だけ強く撫で、古タオルを敷いた段ボール箱の中へそっと戻した。


「……すぐ戻る」


 重い鉄の扉を開け、外に出る。

 ドアが閉まる直前、箱の中から「ミィィッ」という焦ったような鳴き声が響いた。

 その声が、仁の胸の奥をギュッと締め付ける。

 この小さな命が、他人の悪意に脅かされることなく、安心して眠れる日常を取り戻すためにも。

 ただ怯えて時間をすり減らすだけの生活から、俺は俺自身の人生を、あのパラノイアから奪い返さなければならない。

 仁は冷たい夜風の中で短く息を吐き、静かに反撃の狼煙を上げるべく、夜のアスファルトを踏みしめた。

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