第19話 高校時代の亡霊
薄暗い四畳半の部屋に、カタ、カタ、という不規則な音が響いている。
安物の姿見のプラスチックフレームが、畳の縁にぶつかる音だ。
万年床の上で身じろぎした仁は、重い瞼をこじ開けた。昨夜、非常階段でアリアから突きつけられた事実と、自らの口からこぼれ落ちた名前の衝撃で、結局一睡もできていなかった。頭の芯が鈍く痛み、血の巡りの悪さが全身の関節を軋ませている。
視線を向けると、部屋の隅でキジトラの子猫が孤軍奮闘していた。
姿見の前に立ち、鏡に映る自分自身の姿を、縄張りに侵入してきた見知らぬ敵だと思い込んでいるらしい。
全身の産毛を逆立てて一回り体を大きく見せ、背中を丸めながら、カニのような不格好な横歩きでじりじりと鏡の表面へ距離を詰めていく。
鏡の中の猫も全く同じ威嚇のポーズで迫ってくるため、子猫は驚いてその場で小さく飛び退き、前足を伸ばしてペシッ、ペシッとガラスの表面を連続で叩いた。硬く冷たい感触に戸惑ったように小さな鼻を押し付け、フンスフンスと息をして匂いを嗅ごうとしている。
相手に匂いがなく、反撃もしてこないと分かると、今度は鏡の裏側に回り込み、首を長く伸ばして敵の本体を探している。当然、そこには埃を被った薄いベニヤ板があるだけだ。子猫は首を傾げ、再び鏡の正面に戻っては、見えない敵に向かって無意味な猫パンチを繰り返していた。
その無邪気で滑稽な姿を、仁は布団の上に上体を起こしてぼんやりと眺めていた。
動物にとって、鏡の向こう側の世界に実体がないことは理解できない。
だが、人間はどうだ。
俺の生活を盗み、俺の顔のパーツをパッチワークのように継ぎ接ぎして作った『MINATO』というアカウント。その液晶画面の中にあるピクセルのフェイク画像を、15万人もの人間が本物の成功者だと信じ込み、「いいね」という承認の餌を投げ与え続けている。
そして何より、他人の人生の断片を削り取ってまで自分の空っぽな器を満たそうとしているあの男の執着は、鏡の前の虚像にムキになっている猫よりも遥かに滑稽で、そして醜悪だった。
佐々木翔太。
高校時代、ラグビー部で同じ釜の飯を食った同級生。
目を閉じると、埃っぽい夏のグラウンドの匂いと、耳を劈くような蝉の鳴き声が脳裏に蘇る。
当時の俺は、フィジカルにも恵まれ、チームのエースとしてフィールドを縦横無尽に走り回っていた。タックルを恐れず、泥にまみれてボールを追うことに何の疑いも持っていなかった。
一方、翔太は常にフィールドの外にいた。
体格が細く、スタミナもなく、何より接触の痛みを極端に怖がった翔太は、早々にプレイヤーとしての道を諦め、データ分析とビデオ撮影の裏方に回っていた。
小柄で、いつも分厚いスポーツ眼鏡をかけていた男。薄暗い部室の隅で、いつも黙々と三脚の手入れをし、高性能なハンディカメラのレンズを磨いていたあいつの横顔。
俺がトライを決め、仲間とハイタッチをして歓声を上げている時。俺が顧問から期待の言葉をかけられている時。翔太はいつもグラウンドの隅に立ち、冷たいレンズ越しに、そして赤い録画ランプの向こう側から、俺たちの姿を無言で記録し続けていた。
当時の俺はそれを、裏方からの献身的なサポートだと信じて疑わなかった。翔太のカメラの向こう側にある視線に宿っていた、どす黒い感情に全く気づいていなかった。
自分が決して手に入れられない肉体とスピード、周囲からの賞賛。それを一身に集める俺という存在に対する、嫉妬と羨望が入り混じった異様な執着。
大学で俺が膝の靭帯を完全に断裂し、スポーツの道を絶たれたあの日。病院のベッドで絶望する俺を見舞いに来たあいつは、心底悲しそうな顔を作っていたが、今思えばあの分厚いレンズの奥には、薄暗い優越感がへばりついていたのかもしれない。
そのまま就職活動にも失敗して社会の底辺へと転がり落ちていく俺とは対照的に、翔太は有名私大の理系学部に進学し、大手のIT企業に就職したという話を、数年前に風の噂で聞いていた。
それから10年。
あいつは今でも、カメラのレンズ越しに俺を見つめ続けていた。
グラウンドの隅に立てた三脚からではなく、俺の右ポケットの中にあるスマホのフロントカメラから。
かつて俺の背中を見ているしかなかった男が、俺の惨めな生活を泥棒のように覗き見し、俺の顔のテクスチャを剥ぎ取って、ネットの海でチヤホヤされている。
鏡の前で遊び疲れたのか、子猫がトコトコと歩いてきて、仁の膝の上に丸くなった。
仁はその小さな頭を撫でながら、自分の内側で冷たく凝固していく怒りの輪郭をなぞっていた。
得体の知れない幽霊や、顔のないサイバー犯罪者に怯えていた時の恐怖は、もう微塵も残っていない。
相手の正体は、過去の幻影に縛り付けられたままの、ただの惨めなストーカーだ。
午後10時。
冷え切った物流センターの非常階段の踊り場で、仁はアリアと向かい合っていた。
眼下の国道を大型トラックが通り過ぎ、排気ガスの混じった生温かい突風が鉄柵をすり抜けてくる。
仁は古い代替機をポケットに突っ込んだまま、アリアに低い声で告げた。
「犯人の見当がついた。高校の同級生で、大手のIT企業に就職した男だ」
アリアはライダースジャケットの襟元を立てながら、表情を変えずに頷いた。
「佐々木翔太。……心当たりがあるのね」
「ああ。あんたが見つけた古い試合の映像。あれは、あいつが回していたカメラのデータだ」
アリアは腕を組み、鋭い視線を仁に向けた。
「個人でゼロデイの脆弱性を突くようなマルウェアを組める人間。企業のインフラや開発環境を密かに私物化できる立場にいるなら、技術的にも資金的にも辻褄は合うわ。……それで?」
「それで?」
「相手のアジトは特定できている。警察に駆け込んで、ハッキングの被害届でも出す?」
アリアの言葉には、どこか試すような響きがあった。
仁は錆びた鉄の手すりに寄りかかり、遠くの街明かりを見つめた。
警察に被害を訴えれば、通信記録やマルウェアの証拠から、翔太を逮捕することはできるかもしれない。
だが、それで俺の失われた尊厳は戻ってくるのか。
奴は俺の日常を盗み、俺の顔を加工して15万人のフォロワーから承認の雨を浴びている。俺が底辺で息を潜めている間、奴は俺の人生の美味しいところだけを切り取って、最高の快感を味わい続けていた。
警察に突き出すだけじゃ足りない。逮捕されたところで、あいつの腹は痛まない。
「……警察には行かない」
仁が静かに答えると、アリアの口の端がわずかに上がったような気がした。
「あいつが一番執着しているのは、俺の顔を使って集めた15万人のフォロワーだ。あの偽物のアカウントを完全に叩き潰して、15万人の前で、あいつの本当の無様な姿を晒し者にしてやる」
かつて、グラウンドで自分より大きな相手のタックルを真っ向から受け止め、強引にねじ伏せていた頃の闘争心。すり減って消えかけていたはずのその熱が、血液に乗って全身の筋肉へと行き渡っていくのを感じた。
「悪くない判断ね。法廷で争うより、ずっと合理的で破壊的だわ」
アリアはポケットから黒い革手袋を取り出し、ゆっくりと指にはめた。
「でも、相手はプロよ。生半可な罠じゃ、すぐに尻尾を切って逃げられる。あのマンションに直接乗り込んでも、データを物理破壊されたら終わり」
「どうすればいい」
「SNSの数字に固執しているなら、そこを突くしかない。……SNSの生態系に詳しい専門家が必要ね」
アリアの言葉を聞き、仁の脳裏に真っ先に浮かんだのは、休憩室で四六時中スマホをいじり、他人のタイムラインを徘徊しているあの後輩の顔だった。
「心当たりがある」
仁は短く答え、非常階段の重い鉄の扉に手をかけた。




