第18話 過去からの刺客
引き出しの奥底から引っ張り出した代替機の画面は、ひび割れたクモの巣状の傷のせいで、表示された時刻の数字がひどく歪んで見えた。
分厚いベゼルとプラスチックの安っぽい手触りが、かつて自分が社会の底辺に落ちていく過程で使っていた頃の惨めな記憶を不必要に呼び起こす。画面の端から放射状に伸びるヒビが、バックライトの光を乱反射して目を刺した。
アリアの手によってマルウェアが物理的に抜き取られた本来のスマホは、今も電源を切ったままアパートの流し台のステンレスの上に放置してある。水垢のついたシンクの横で、通信を完全に遮断されたあの黒い板は、ただの冷たい文鎮と化していた。どんなにタップしても、どんなにスワイプしても、もう俺の日常を勝手に切り取って送信することはない。
俺の生活音も、部屋の広さも、歩幅のデータも、もう奴のサーバーには届いていない。
目に見えない監視の恐怖から解放されたはずなのに、四畳半の部屋を満たす淀んだ静寂は、仁の神経を逆撫でするように重く、不快な粘り気を帯びていた。自分の生体データを絶え間なく吸い上げていたパイプが断ち切られたことで、逆に暗闇の奥深くで息を潜める敵の気配だけが、底知れない質量を持って膨れ上がっていくような息苦しさがある。
足元で、コツン、という乾いた軽い音がした。
視線を落とすと、キジトラの子猫がちゃぶ台の脚に小さな頭をぶつけていた。
拾ってから数日が経ち、目に見えて足腰がしっかりしてきた子猫は、低い段差なら躊躇なくよじ登ろうとするようになっていた。ちゃぶ台の上の空間に興味を持ったのか、短い後ろ足を踏ん張り、前足を天板の縁にかけようとジャンプを試みる。
だが、まだ筋力も跳躍力も全く足りていない。空中で不格好に手足をばたつかせ、天板の縁に爪を引っ掛けることすらできないまま、イグサの擦り切れた畳の上にボテッと無様に落ちる。埃が微かに舞い上がった。
「ミャッ」
悔しそうな、短い鳴き声。子猫はすぐに体勢を立て直し、首をブルブルと振って再びちゃぶ台の縁を見上げた。何度失敗しても、自分の身体の限界を疑うことなく、ただ純粋な野生のストロークだけで次のジャンプのタイミングを計っている。
仁は無意識に手を伸ばし、その小さな背中を指の腹でそっと撫でた。
細く折れそうな骨の感触と、薄い皮膚の下で脈打つ、人間よりも異常に早い心拍。
俺が、見えない敵に怯えて自分という人間の輪郭を見失いそうになっている間も、この小さな獣はただここで呼吸をし、目の前の段差を越えることだけを考えている。
指先から伝わってくる、その温かく生々しい命の振動に触れている時だけ、仁は自分の足が辛うじて現実の床を踏みしめていることを実感できた。
土曜日の午後1時。
休日の表参道は、初夏の刺すような日差しと、着飾った人々のけたたましい熱気で溢れかえっていた。
仁は大通りから1本裏に入った、緑の多い静かなカフェのテラス席で、グラスに張り付いた結露を指先で無意味に拭っていた。
目の前の白いアイアンチェアに、小柄な人影が滑り込むように座る。
「遅れて、すみません」
サフィヤ・ラムリだった。
彼女は深夜のコンビニでの疲労困憊の様子を隠すためか、今日は淡いベージュのヒジャブに、清潔な白いリネンのブラウスを合わせていた。目元の濃いクマはコンシーラーで念入りにカバーされており、少しだけ血色を良くするリップが塗られている。
隣のテーブルでは、ブランド物の紙袋を並べた若い女性の二人組が、マカロンの写真を撮るために何度も角度を変えながら甲高い笑い声を上げている。だが、その華やかな喧噪から完全に孤立するように、仁とサフィヤが座るテーブルだけが、湿った泥のように重い緊張感に沈んでいた。
「いや、こっちが急に呼び出したんだ。コーヒーでいいか」
仁がメニューを差し出すと、彼女は遠慮がちに首を横に振った。
「あの、甘いもの……食べてもいいですか。昨日も徹夜で、頭がうまく働かなくて」
「ああ、好きなものを頼んでくれ」
数分後、彼女の前にベリーが山盛りに乗ったパンケーキと、温かいダージリンティーが運ばれてきた。サフィヤはフォークを握り、少しだけ強張った表情を緩ませて甘い生地を口に運ぶ。
その様子を黙って見つめながら、仁は周囲の席の客たちが一様にスマホの画面に釘付けになっている光景を、意識的に視界の端からシャットアウトしようと努めていた。誰かがスマホを構えるたびに、そのカメラレンズが自分を狙っているのではないかという強迫観念が、まだ完全に抜けきっていなかったからだ。
「……それで、聞きたいことって」
半分ほどパンケーキを食べ終えたところで、サフィヤがフォークを置き、警戒の色を滲ませた目で仁を見た。
「あんたの会社に送られてくる、画像加工の指示書についてだ」
仁は身を乗り出し、声を一段階落とした。
「クライアントは完全に匿名のクラウドソーシングのアカウントだって言ってたな。相手の身元に繋がるような情報は、本当に何もないのか」
サフィヤはティーカップを両手で包み込み、視線を水面に落とした。カップから立ち上る細い湯気が、彼女の揺れる瞳を薄く覆い隠している。
「アカウントの登録情報は分かりません。仕事のやり取りも、自動翻訳を通したような無機質なテキストのチャットだけ。……ただ、」
彼女は言葉を切り、周囲の客の視線がないことを確認してから口を開いた。
「私はただエラーを修正する作業員にすぎません。でも、奇妙なことに、顔や背景の補正とは別に、手作業で『特定のアイテム』を画像の中に描き足すように指示が来ることがあったんです」
サフィヤはバッグから自分のスマホを取り出し、画面を数回タップして仁に見せた。
表示されたのは、彼女が過去に担当した加工指示書のメモのスクリーンショットだった。
クラウドソーシングの作業画面をキャプチャしたと思われるその画像には、発注者からのコメント欄があり、無機質な明朝体のテキストでこう書かれていた。
『背景のデスクの上に、古いラグビーボールのオブジェクトを追加。ボールには擦り傷と泥汚れのテクスチャを強めに乗せること』
内臓を素手で鷲掴みにされ、無理やり引きずり出されるような強烈な吐き気が込み上げ、仁は思わず息を詰まらせた。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むことすらできない。
「他にもあります」
サフィヤが画面をスワイプする。
『棚の奥に、銀色のトロフィーを追加。「関東大会」の文字が読める程度の解像度で。トロフィー自体は埃を被ってくすんでいる状態にすること』
「……なんだ、これ」
ひび割れた、うわ言のような声が出た。
「インフルエンサーの写真に、こんな汚れたアイテムを合成する意味がわからなくて。それでもクライアントは、傷の角度や埃の被り方まで、何度もリテイクを出して異常なほど細かく修正させてきたんです」
ラグビーボール。関東大会のトロフィー。
偶然の一致で片付けられるような代物ではない。高校時代、雨の日も風の日も泥にまみれて追いかけ続けていたあの革のボールの感触。汗と泥の混じったグラウンドの匂い。レギュラーとして掴み取った栄光の証。
そして、膝の靭帯を断裂してすべてを失ってからは、アパートの押し入れの奥底に段ボールごとしまい込み、見たくもない過去として埃を被るに任せている俺の歴史そのものだ。
なぜMINATOが、そんなものをわざわざ自分の写真の背景に合成しようとする?
あのアカウントは、俺の現在の惨めな生活を「高級な日常」に書き換えて楽しんでいるだけではなかったのか。
「……」
仁は額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭い、テーブルの上の自分の拳を強く握りしめた。
こいつは、昔の俺の姿を知っている。俺がどれだけあのボールに情熱を注ぎ、あのトロフィーを誇りに思っていたかを間近で見て知っているのだ。知っている上で、わざわざ埃を被ったゴミとして俺の過去を引っ張り出し、自分の虚栄を飾るための背景アイテムとして見せびらかし、俺の人生そのものを嘲笑っている。
相手の持つひどく歪んだ執着の形に、仁は強烈な寒気を覚えた。
サフィヤは怯えたように目を伏せ、冷めた紅茶のカップの縁をきつく握りしめていた。
その日の夜。
物流センターの裏手にある非常階段で、仁はアリアと向かい合っていた。
国道の絶え間ない車の騒音が、コンクリートの壁に反射して鼓膜を低く叩いている。排気ガスの混じった夜風が、鉄柵を抜けて冷たく吹き込んできた。
アリアは黒いライダースジャケットのポケットから手を出し、冷たい鉄の手すりに寄りかかった。彼女の長い黒髪が、風に煽られて生き物のように揺れている。
「マルウェアの送信先、プロキシの壁を逆探知したわ」
彼女の第一声に、仁の背筋が粟立ち、全身の筋肉が硬直した。
「……場所が、分かったのか」
「エンドポイントのIPアドレスを特定した。国内のプロバイダ。東京都内の、郊外のマンションの回線よ。個人名義の契約」
アリアは折りたたまれた小さな紙片を仁に差し出した。受け取って開くと、そこには、見慣れない住所の文字列と、部屋番号が無機質に印刷されている。インクの擦れた文字が、街灯の薄暗い光の下で黒々と浮かび上がっていた。指先サイズの小さな紙切れが、ひどく重たく感じられる。
「ただ、相手のサーバーの構成を解析して、もっと嫌な事実が分かった」
アリアはダークブラウンの瞳で、仁の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「あのマルウェアが吸い上げていたあなたの歩幅や姿勢のデータ。それを元に『MINATOの動き』を生成してるって言ったわよね」
「ああ」
「相手のサーバーの奥底に、膨大な量の古い動画ファイルが隠されていた痕跡があったわ」
「古い動画?」
「画質が荒い、ホームビデオか何かで撮られたスポーツの試合の映像よ。何十時間分もあった。相手のシステムは、その『昔の映像の動き』をベースの骨格にして、スマホから送られてくる『今のあんた』の姿勢データを重ね合わせている。過去の滑らかで力強い筋肉の動きのデータを使って、今のあなたの劣化した動きのノイズを上書き補完してるのよ。だから、あんなにリアルで自然なフェイクが作れる」
心臓が凍りつき、全身の血液が急速に温度を失って逆流していくような錯覚に襲われた。
スポーツの試合の映像。
俺が高校時代、フィールドを走り回っていた頃のビデオ。泥にまみれ、息を切らし、勝利のためにすべてを懸けていたあの瞬間の記録。
ただの無差別なサイバー犯罪者じゃない。
俺の高校時代の映像を、何十時間分も持っている人間。
押し入れの奥底に突っ込んである古いラグビーボールと、関東大会のトロフィーの存在を知っている人間。
そいつが、俺の過去の映像データを素材にして、俺の顔を被り、15万人のフォロワーを抱えるインフルエンサーとして振る舞っている。
サフィヤの言葉が脳裏にフラッシュバックする。
『古いラグビーボール』『埃を被ったトロフィー』。
仁の脳裏に、埃を被った記憶の奥底から、ある一人の男の顔がゆっくりと浮かび上がってきた。
高校時代、常に俺の背中を見ていた男。万年補欠で、俺の試合のビデオをいつも三脚にカメラを固定して撮影させられていた、あの男。
「……翔太」




