46:主人と駄犬
あの夜、ギデオンは神と取引きをした。
リネアを助けてくれるのならば、自分ができる範囲で、何でもすると真剣に誓った。しかし時間が経つにつれて、その誓いを守りきれていない事は、ギデオン自身が一番よく分かっていた。
仕事に関しては、多少は真面目になった。机に向かう時間は増えたし、報告書や請願書に最後まで目を通す頻度も、以前とは比べものにならない。館の者たちも、最近は「またお仕事中ですね」と小声でささやき合う程度には、彼の変化を日常として受け入れ始めている。
しかし残念なことに、ギデオンの自尊心は相変わらず高く、鏡の前では自分の顔を入念に確認し、「領主たるもの品位が大事だ」と自分に言い聞かせている。話しぶりも尊大で、誰よりも自分の評価を気にしている点において、以前のメルローズ家三男坊と本質的な違いはない。
とはいえ、大きく変わったものもあった。
女遊びを、ぴたりとやめたのだ。娼館からの誘いも、馴染みの女たちからの伝言も、最近のギデオンはすべて笑ってかわしている。また、変化というならば、「犬」という言葉に対する考え方もそうだった。
リネアから「最高の駄犬」と宣言された時から、ギデオンは暇さえあれば、その言葉の意味を反芻していた。
犬とは何か。主人に従い、足元に伏せ、命じられれば走り、呼ばれれば駆け戻ってくる存在。鼻先を地面につけて匂いを辿り、時に吠え、時に尻尾を振る。
そこまでは世間の常識だが、ギデオンにとって重要なのは、その先だった。
彼の思う犬とは、主人に思い切り可愛がられ、甘やかされ、幸福をたっぷり与えられる生き物でもある。柔らかな毛並みを撫でられ、良い餌を与えられ、雨風から守られ、暖かい場所を与えられる。そして、満たされた犬を見て、主人もまた満たされる。主人と犬の関係とは、つまるところ、互いの幸福を確かめ合う形なのだと、ギデオンは結論づけた。
自分が幸せそうにしていれば、リネアも満足する。ならば、従順さと図々しさの両方が必要なのだと、そのような理屈を真剣に組み立てている時点で、駄犬としての素質は十分なのかもしれない。
そうやって、二人で過ごす日々が積み重なった。
リネアの傷は、ゆっくりと、それでも確実に癒えていった。最初は、起き上がるだけでも顔をしかめていた。傷口を庇いながら寝返りを打つたび、唇の端から細い息が漏れ、そのたびギデオンは無意味に室内を行ったり来たりした。
やがて枕から頭を離し、窓の外を見る余裕が生まれ、侍女の手を借りて椅子に腰掛ける時間が増え、医師が「短い距離なら歩いてもよい」と言うまでになったのだ。
* * *
その日、雲ひとつない晴天の下で、二人は庭の一角に置かれた椅子に並んで座っていた。
春の名残を含んだ風が、庭を囲む生け垣を揺らす。新しく芽吹いたばかりの葉が光を弾き、噴水の水音が遠くでかすかに響く。戦場の煙と喧噪は、ここからは想像しにくいほど遠い話になっていた。
リネアは背凭れに軽く身を預け、膝には薄手の膝掛けをかけている。傷の具合は良くなっているとはいえ、長時間立っているにはまだ早い。
「……リネア」
「なぁに?」
リネアがこちらに顔を向ける。問い返す声音は柔らかく、首をわずかに傾ける仕草も、これまでと変わらない。ギデオンは椅子から腰を浮かせ、彼女との間の距離を詰めた。片手でリネアの手を取り、そのまま自分の頭の上へと導く。撫でてくれというように、頭をすり寄せるとリネアは笑う。
犬を撫でるときのような手つきで、指が髪をくぐる。前髪の生え際から後ろへ、ゆっくりと梳く動きが何度も繰り返される。頭頂を撫でられる感触は、妙にくすぐったく、同時に安心を呼び込んだ。
「最近、甘え上手になったわね」
「その方がリネアだって嬉しいだろ?」
答えながら、ギデオンは目を細める。妻に頭を撫でられて、子どものように喜んでいるという光景は、決して格好良いとは言えないだろう。ただ、格好良さと心地良さが両立しない場面も、世の中にはある。
「……ところでさ」
撫でられる感触に半ば溶けかけた思考を、ギデオンは無理やり引き戻した。
「何?」
「明日から僕は、嫌な仕事をするつもりだ」
「嫌な仕事?」
「うん。とても嫌なやつだ。机の上に山になっている書類を全部片づけて、境の村の視察にも行く。ルーソン家との争いで荒れた場所の後始末もあるし、兵の再編も考えなきゃいけない。……ひどい話だよ」
列挙しながら、自分でも少しうんざりする。それでも、「やらない」という選択肢は、以前ほど口に上らなかった。領主の座に座っている以上、誰かがやらなければならないと今は理解していた。
「そんな嫌な仕事を自発的にやろうとしている僕に、何か言うことあるんじゃない?」
「偉いわね、ギデオン」
「そう、それ」
リネアの一言に、ギデオンは満足げに頷いた。
「僕は叱られると萎縮するけど、褒められると伸びるんだ。だからもっと褒めていいよ」
「はいはい……」
リネアは、笑いながら指を離し、今度は頬へ手を添えた。
「ギデオンは偉いわ。領地を守って、これからも面倒な仕事をするって、自分で決めた。いい子ね」
言いながら、リネアは頬に添えた指で、傷の縁を優しくなぞった。戦場でついたその傷は、まだ薄い赤を残している。彼女の瞳の底には誇らしさが宿っていた。
自分の愛犬を誇る主人と、褒められて尻尾を振る犬。ギデオンは、その構図を察しながらも、それが妙に幸福で心地良さを覚えていたのだった。




