45:檻ではなく鎖で
祈っていたはずなのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。カーテンの隙間から淡い光が差し込む中、ギデオンは顔を上げた。視線の先で、こちらを見つめるリネアと目が合う。
「おはよう、ギデオン」
「……リネア……」
掠れた声が零れ落ちる。ギデオンは、呼吸すら忘れて、彼女の顔を食い入るように見つめた。リネアが眠り続けていた間、見てきたのは閉じたまぶたと動かない唇だけだった。だが今、彼女の澄んだ青の瞳は、こちらに焦点を合わせている。呼びかければ応えが返ってくる場所に、意識が戻ってきている。
その事実を確認した途端、喉の奥で固まっていた何かが崩れた。
「リネアッ……!」
再度、名を呼び、ギデオンは寝台へと身を乗り出す。腕を伸ばし、力加減も忘れて彼女を抱き締めた。
「……痛い」
「ご、ごめん!」
慌てて距離を取りながら、リネアの顔を確かめる。その顔が苦痛に歪んでいないのを見て、肩から力が少し抜けた。リネアはうっすらと微笑んだ。
「……ギデオン……もしかして、泣いてたの?」
「泣いてない」
即答ではあったが、目元は赤く腫れ、声も掠れていては説得力がない。リネアは仰臥したまま、ゆっくりと腕を伸ばし、ギデオンの目の下をなぞる。
「……心配してくれた?」
「するものか」
これも即答だった。リネアの口元が、ゆっくりと緩む。
「君は、しぶといから目を覚ますって、分かっていた」
ギデオンは、さも当然のような顔をして言った。実際のところ、夜の間に、どれだけ狼狽え、どれだけ神に向かって条件交渉をしたかを、彼女は知らない。
「だから、別に心配なんてしていない」
「そうね。しぶとく生き残ってしまったわ。……ギデオンは、新しいお嫁さんをもらい損ねたわね」
リネアは、少しだけ意地悪な光を目に浮かべて言った。以前、ギデオンが「もしリネアがいなくなったら、新しい妻でも迎える」と口にした言葉を、きっちり覚えている。
「そうだよ……。……だから、これからも、ずっと同じ妻と一緒にいるしかない」
「……ずっと?」
「そうだ。君が飽きるまで、いや飽きたとしても、簡単には僕を捨てられない。君がいなければ僕は仕事をさぼって遊び歩いて、周りで起きることを片っぱしから台無しにする。そんな騒ぎの中心を置き去りにして、新しい夫なんて探せるはずがないだろう」
言葉を重ねるほど、妙な脅迫めいた形になっていく。ギデオンは途中で引き返す機会を失い、そのまま最後まで言い切った。
リネアは小さく笑う。まだ痛みが残っているせいか、大きくは笑えない。それでも、その目尻には、悪戯を思いついた子どものような光が浮かんでいた。
「そうね。まだまだ、あなたのこと、これからも躾けないといけないものね」
「……躾け?」
聞き慣れない単語に、ギデオンは眉をひそめた。妻から夫へ向けられるには、あまりにも物騒な表現だ。
「ええ……。誰にも言ったことないんだけどね……」
そこで言葉を途切り、リネアはギデオンを手招きした。ギデオンは椅子から身を乗り出し、枕元へ顔を近づける。吐息が触れるほどの距離まで耳を寄せた所で、リネアが大事な秘密を打ち明けるように、「あのね」と囁いた。
「私、駄犬を躾けるのが、大好きなの。……だから、あなたの妻になったのよ。ギデオンは、最高の駄犬だわ」
「…………」
あまりにもはっきりとした宣言だった。天地がひっくり返る、というのは、こういう感覚を言うのだろう。彼女が自分に向けてきた数々の視線や言葉、これまでの指示や叱責の一つ一つが、別の意味を持って蘇ってくる。
「……つまり君は、僕を躾けるために妻になったと?」
「そうよ。ちゃんと、それらしくなってきたでしょ?」
その言葉に、ギデオンは言い返そうとして、そこで詰まった。
思い返せば、結婚前と今とでは、自分の生活は、変わっている気がした。仕事の書類を前に、頭が痛いと愚痴りながらも、最後まで目を通すようになった。娼館に足を運ぶ頻度も目に見えて減った。
更に、よりによって戦場にまで出ていったのだ。自分の意思で、とは到底言いがたいが、それでも馬上にいたのは事実だ。並べてみると、彼女の言う「躾けられている」という表現を、全面的に否定しにくくなる。
「……そう簡単に首輪をつけられるのは、本意じゃないんだけど」
ギデオンは、小さく息を吐いた。駄犬だの首輪だのと、人としてあるまじき単語で会話をしている自覚は一応ある。
(……駄犬)
もう一度、心の中で繰り返してから、ギデオンは、改めてリネアの顔を見下ろす。
「……どうしたの?」
リネアが少しだけ首を傾ける。ギデオンは、言葉を探して一度口を開き、何も言えないまま閉じた。それから、ほんのわずかに身を乗り出す。片手で寝台の端を押さえ、傷に触れないよう注意しながら顔を近づけた。
リネアの瞳が、少しだけ見開かれる。
自分から彼女に口づけようとしているのは、これが初めてだと、そこでようやくギデオンは自覚する。その途端、喉が鳴り、頬に一気に熱がのぼった。耳まで熱くなっていくのを自覚しながら、逃げ道を断つように寝台の端を握りしめる。真っ赤な顔のまま、それでもそっと唇を重ねた。
顔を離すと、リネアの視線がまっすぐこちらに向いているのに気づく。赤くなっている所まで見られたと思うと、さらに熱がこみ上げてしまう。ギデオンは頬を火照らせたまま、思わず口元を片手で覆った。
「ねぇ、ギデオン」
「なんだよ……」
「もう一回して?」
「嫌だ……っ」
情けないほど動揺している自分には腹が立つ。
それなのに、もし彼女の犬として鎖に繋がれていられるのなら、それも悪くないと感じてしまうのだった。少し不名誉なその幸福を、泣きたくなるほど甘く思ってしまう。そんな自分を、ギデオンはそっぽを向いたまま、黙って受け入れていた。




