44:神さまへの分割誓約
戦いはメルローズ家の勝利で終わった。
リネアの放ったスティレットが、ルーソン家当主の腕を裂き、毒が血に混じった。ほどなくして身体の自由を失った当主は、鞍から落ち、意識も戻らないまま地に横たわったのだ。主君の異変に気づいたルーソン家の兵たちは、攻めるよりも守ることを選んだ。盾を引き寄せて当主の周囲を固め、開きかけていた陣形を、今度は退路を作るために使わざるを得なくなった。
ルーソン家は武器を捨て、当主の命の保障と引き換えに降伏した。メルローズ家は、膝をついた敵をさらに追いつめて、むやみに血を流すような真似はしなかった。
その代わり、急がなければならない命があった。腹を深く貫かれ、意識の途切れたリネアだ。
彼女は布に包まれ、兵たちが交代で抱え上げながら館へと運ばれた。道中、呼吸が浅くなるたびに誰かが名を呼び、そのたびに、かすかな脈を確かめる手が増えた。屋敷に着くなり医師が呼び出され、寝台の傍から一歩も離れずに処置が続けられたのだった。
* * *
静まり返った寝室で、リネアは包帯に覆われたまま寝台に横たわっていた。腹部には幾重にも布が当てられ、その上にさらに帯が締められている。傷口に塗られた薬の匂いが、かすかに空気に残っていた。
寝台のすぐ傍らに置かれた椅子にギデオンは座っていた。彼の頬にも、耳の後ろから頬の中央まで、白い布が一枚あてがわれていた。布の下では、ちりちりとした痛みが走り、皮膚の下で何かが引きつるようだった。
室内には、緊張した気配が満ちていた。
壁際には使用人たちが肩を寄せ合って立ち、不安そうに見守っている。その中にはベルの姿もあった。彼女は声を殺して泣いていた。
笑い声が似合う人々の顔に、いまは笑みが一つもない。いつもなら、自分の美貌と魅力の話ばかりしている、どうしようもない主に振り回され、誰かが苦笑し、誰かが呆れ顔を見せる。そんな空気こそが、この館の平常だった。
だが今、ギデオンの頬はこけ、唇は色を失い、視線はほとんど動かない。
肘を膝に当て、組んだ指を口元に押し当てて黙り込む姿は、普段の彼を知る者からすれば、別人がそこに座っているようにしか見えなかった。誰も彼に声をかけられずにいた。何を言っても、彼の肩に新しい重みを乗せるだけになるのではないかと、使用人たちの多くが思っていた。
どれほど時間が経ったころか、ギデオンが不意に顔を上げた。
「ここに立っていても、君たちまで倒れてしまう。みんな、もう眠った方がいい……」
いつになく落ち着いた口調だが、有無を言わせない気迫があった。主人の言葉に、使用人たちは戸惑いながらも頭を下げ、それぞれに「何か必要なものはありませんか」と短く確かめてから、静かに部屋を出ていった。
扉が何度か開閉し、人の気配が少しずつ減っていく。最後に残ったのは、リネアとギデオンと、ベルだけだった。
ベルは動かなかった。胸の前で固く握りしめた両手に、ぽつぽつと涙が落ちていた。ギデオンはしばらくその様子を見ていたが、やがて椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで彼女に歩み寄った。
肩に手を置き、そのまま強く抱き寄せる。ベルの身体がびくりと震え、そのあとでようやく、ギデオンの胸にしがみつくように腕が回された。
泣き声が、服越しに微かに震える。ギデオンは、背中に腕を回したまま、言葉を探した。何を言えばいいのか、頭の中がひどく混沌としていたが、それでも一つだけ、どうしても伝えたい言葉があった。
「……ごめん」
喉の奥から無理やり押し出した声だった。ベルが顔を上げる。涙で濡れた目が、間近で彼を見つめた。
「リネアに……怪我させた。僕が。僕のせいで、こんな目に遭わせた」
本当はもっと長い理屈をつけて、自分の責任を薄めることもできた。あの場の判断はどうだったか、他に手はなかったか、誰かに押しつけることもできた。けれど、今そのどれもが口に合わなかった。喉を通る前に、舌の上で苦くなるのが分かる。
ベルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから、泣きながら笑った。小さな手が伸びてきて、ギデオンの頬に巻かれた布にそっと触れる。
「でも、ギデオン様はがんばったと思うの」
簡単な一言だった。慰めの言葉として、特別に気の利いたものではない。それでも、「がんばった」という評価を、ベルの口から受け取るとは思わなかった。ベルは言葉を続ける。
「それに、ギデオン様のそんな顔、初めて見た。……いつものギデオン様より、かっこいいわ」
ギデオンは短く息を吐いた。笑おうとして、頬の布の下で傷が引きつり、すぐに諦める。
「……ベルも、もう休みなよ」
「うん。ギデオン様も、ちゃんと寝てね」
「分かってる」
ギデオンの返事に、ベルは頷き、部屋を後にした。扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
寝室には、リネアとギデオンだけが残された。
急に広くなったように感じる部屋の中で、耳に入ってくる音は、外の風と、寝台の上から聞こえてくるかすかな呼吸だけだった。椅子に戻ろうとしたとき、ベルの残した言葉が遅れて胸の奥で響いた。
『いつものギデオン様より、かっこいい』
そう言われるのは、本来なら嬉しくてたまらない類の言葉だった。ただ、今日だけは喜べそうになかった。椅子に腰を下ろした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。緩んではならないと必死に締めていた紐が、音もなく切れたような感覚だった。
視界が滲む。
最初は、頬の痛みのせいだと、自分に言い訳をしようとした。だが、頬の痛みだけでは、こんなに喉の奥が熱くなることはない。涙が次から次に、頬の布を濡らしていく。布が水分を吸い込む感触まで、妙に鮮明だった。
リネアの眠る顔を見ようとしたが、視界が歪んでよく見えない。
かっこいいと言われたその直後に、みっともなく泣きじゃくっている自分は、どう考えても「かっこいい」とは言い難い。その自己認識が、余計に胸を締めつける。どこにも持っていきようのない感情が、身体の中で暴れていた。
泣きながら、ギデオンはふと顔を上げた。天井を、そしてその向こうを、見上げるようにして。
神に祈ったことなど、これまで一度もなかった。祭壇の前ではそれらしい顔をして手を組んだこともあるが、それは貴族として求められる所作の一つにすぎない。心の底から誰かにすがった記憶など、思い返してみても見当たらなかった。けれども衝動に突き動かされるように、口を開く。
「……もし、リネアが目を覚ましたら……。僕は……女遊びを、やめる。……仕事も、真面目にする。領地のことも、ちゃんと見る。帳簿だって、頭が痛くなっても逃げない」
口から出てくる言葉は、どれもギデオンにとっては、かなりの譲歩だった。言えば言うほど、自分のこれまでの怠慢が目の前に並べられていくようで、居心地が悪い。しかし祈りは止まらない。
「朝も、寝台にしがみつかない。午前中から執務室に行く。……新しい服も、少しは我慢する。季節ごとに仕立てるのをやめて……いや、半分くらいにする……」
祈りの中に、妙な現実感のある条件が紛れ込む。神がどれほど寛容かは知らないが、ここで嘘をつくのは逆効果な気がしていた。できもしない約束を並べるより、多少みっともなくても、今の自分が本当に差し出せるものを順番に並べていくほうが、まだ誠実だと考えた。
「遊び歩くのも程ほどにする……あとは、なんだろう……。リネアが目を覚ますのなら、僕は何でも……いや、何でもは無理だけど、できる範囲で、できる限りのことはする」
欲しいものがあるたびに「良い子にするから」と大人に約束していた子供のような物言いだった。それでも、今のギデオンには、その言い方しか思いつかなかった。自分なりの最大限を、どうにか言葉に押し込んでいく。
だから、どうか……。
涙で喉がかすれ、言葉は途中で途切れ、やがて祈りはかすれた呼吸に変わっていった。
だから、どうかリネアを助けてください。神さま……。
ギデオンは膝に顔を伏せ、両腕で頭を抱え込んだまま、祈りだけを必死に握りしめていた。




