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信頼の王国  作者: 志々十勒
創世記─これまでとこれから─
35/37

灯火が消える夜…

 王宮の客室は、夜の気配を静かに受け入れていた。


 警戒のための近衛は外にいるが、扉の内側は驚くほど穏やかだった。


燭台の柔らかな灯り。

厚手の毛布。


窓の外には、風に揺れる王都の灯。


ベッドの上で、メフィスは久しぶりに深い眠りに落ちていた。


呼吸は安定し、眉間の皺もない。

逃走の日々で見せていた、警戒の浅い眠りではない。


完全な「安心」している眠り。


それを確認してから、マルガレーテは椅子に腰を下ろした。


(ふふっ……眠ってる)


それだけで、胸の奥に張り付いていた何かが、音もなく剥がれ落ちるのを感じた。


もう、走らなくていい。

もう、背中で守らなくていい。


彼女は、自分の手を見る。

震えはない。


だが、力もほとんど残っていなかった。


感情結晶は、胸元で微かに光っている。

それは炎ではなく、炭のような赤。


(ああ……もう、充分だ)


痛みはない。

苦しさもない。


ただ、長く張り詰めていた糸が、ほどける準備をしている感覚だけがあった。


マルガレーテは、眠る娘に視線を戻す。


(メフィ……)


呼びかけるつもりはなかった。

起こしたくない。


この眠りを邪魔しないことが、母としての最後の仕事だと理解していた。


彼女は、心の中で言葉を紡ぐ。


(あなたは、優しいままでいい)


(強くなれとは言わない)


(戦えとも、守れとも言わない)


(ただ……信じなさい)


それは教えではない。

遺言でもない。


母が娘に託す“世界の見方”だった。


ゼロ王の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。


厳格で、疲れた横顔。

正しさに縋り、正しさに縛られた王。


(あなたは……守ろうとした)


(やり方は違った。でも……守ろうとした)


恨みはなかった。

怒りもなかった。


ただ、理解だけがあった。


(あなたが作った“枠”があったから、あの青年は、枠を越える覚悟を持てた)


だから。


(……ありがとう)


それは、評価ではない。

赦しでもない。


因果への感謝だった。


次に、若き王ファウストの顔が浮かぶ。


低い姿勢。

人を見る視線。


命令ではなく、約束として差し出された言葉。


(この人なら……)


そこで、マルガレーテは気づく。


期待していない。

願ってもいない。


ただ、信じている。


それがどれほど残酷なことか、彼女は知っていた。


信じるとは、裏切られる可能性を含めて手放すことだから。


(……あなたに託します)


(この子を、力としてではなく)


(“生きる人”として)


言葉は、音にならなかった。

それでいい。


この部屋には、もう伝わっている。


呼吸が、ひとつ、浅くなる。


胸元の感情結晶が、かすかに明滅する。ひときわ明るく光って静かに明度を落としていく。やがて小さく収束して結晶表面にヒビが入る。


(……ああ)


(安心、してしまった。私は貴方の娘をちゃんと守れましたよ…)


それが、最後の自覚だった。


母としての役割が終わり、「生き延びる理由」が、きれいに消えた瞬間。


灯火は、静かに、静かに――


消えた。


音もなく。

痕跡もなく。


ただ、眠る娘の呼吸だけが、部屋に規則正しく残っていた。


扉の外で、異変を察した近衛が一歩踏み出しかけて、止まる。


 椅子に座ったままのマルガレーテはまるで聖母のように微笑みを浮かべたまま事切れていたからだ。


 触れてはいけない聖性の象徴が静かに置かれ、中は、あまりにも静かだった。


やがて医師が呼ばれ、そして王に報せが届く。


だがその前に。


メフィスは、眠りの中で小さく身じろぎし、誰にも教えられていない言葉を、夢うつつに呟く。


「……おかあさん……ありがとう……」


それは、別れの言葉ではない。


安心の中でしか、出てこない声だった。


◆失われたモノの形──


 朝の光は、思ったよりも柔らかかった。


王宮の客室。重いカーテンの隙間から差し込む淡い光が、ベッドの上に落ちている。


メフィスは、久しぶりに「夢を見ない眠り」から目を覚ました。


(……朝……?)


一瞬、状況が分からない。


逃げていた森も、鈴の音も、追手の気配もない。


身体が軽い。

呼吸が深く、胸が痛くない。


「……あ」


そこで、安心した。


ここは安全だ。

昨日の夜、あの王がそう言った。


約束してくれた。


メフィスは小さく息を吐き、寝返りを打つ。


「……お母さん」


 いつものように呼んだ。起こすためじゃない。


 ただ、そこにいると分かっている人に向けた、無意識の声。


 だが…返事はない。


(…まだ寝てるのかな? )


 そう思って、半身を起こす。

そこで初めて、部屋の違和感に気づいた。


 あまりにも静かすぎる。夜の緊張が解けた後の、安堵の静けさではない。


何かが「終わった」後の静けさ。


視線を巡らせて、椅子を見る。

そこに、母は座っていた。


外套はきちんと整えられ、乱れた様子はどこにもない。


ただ――動いていない。


「……お母さん?」


 少しだけ声が大きくなる。返事はない。


 メフィスは、ベッドを降りる。

裸足のまま、床を踏む。冷たい。


(え…あれ?)


 近づくにつれて、胸の奥がざわつく。

理由は分からない。


 ただ、嫌な予感だけが、形を持って迫ってくる。


「……ねぇ」


母の前に立つ。顔色は、穏やかだった。

苦しそうではない。怖がってもいない。


まるで――眠っているみたいに。


「……起きて」


手を伸ばし、袖に触れる。


その瞬間。

冷たさが、指先から一気に伝わった。


「…………っ」


理解が、遅れてやってくる。

癒しの力が、無意識に動こうとする。


けれど――何も、応えない。


いつもなら感じるはずの、“感情の揺らぎ”が、そこにはなかった。



(……あ、れ……?)



 心臓が、一拍遅れて強く打つ。


「……お母、さん……? 」


 声が震える。「冗談よ」って否定してほしい。いつもみたいに何か言ってほしい。


だが、沈黙だけがある。

その沈黙が、はっきりと告げていた。


――もう、癒せない。

――もう、守れない。

――もう、戻らない。


「……っ」


 喉が詰まる。

泣き声は出ない。叫びもない。


 ただ、世界の一部が抜け落ちた感覚だけがあった。


 力が入らず膝が、床に落ちる。


「……なんで……」


 問いは、誰にも向いていない。


(……安心、したから……?)


 昨日の夜のことを思い出す。


 ここでは守られている。

 誰にも追われない。ここは安全。


――だから。


「…あ、そっか……」


 その言葉が出た瞬間、メフィスは初めて理解する。


 自分の“安心”が、母の役目を終わらせたことを。


 罪悪感ではない。後悔でもない。


 ただ、取り返しがつかない事実として、胸に落ちる。


「……ごめんなさい……」


 誰に何を謝っているのか、自分でも分からない。


 母は、責めていない。責める理由がない。

それでも、言わずにはいられなかった。


 そのとき、扉の向こうで足音が止まる。

気配だけで分かる。


あの王だ。


ファウストは、扉の外で立ち止まり、中に入らない。


中で起きていることを、察していた。

扉越しに、低く、静かな声。


「……落ち着きましたか」


メフィスは、答えない。答えられない。

しばらくして、かすれた声が落ちる。


「……王さま」


その呼び方は、助けを求める声ではなかった。


事実を、確認する声だった。


「……お母さん、は……」


 ファウストは、すぐに答えなかった。


沈黙。


その沈黙が、答えだった。


メフィスは、母の手を握る。


冷たい。でも、怖くない。


「……安心、しちゃったんだね」


 ぽつりと笑いながら呟く。


「……だから、行っちゃったんだ」


 涙が、一滴、手の甲に落ちる。


声を上げて泣くことはなかった。


 代わりに、胸の奥で、何かが静かに固まっていく。


それは復讐心でも、使命感でもない。


「守れなかった」ではなく、「託された」ことへの自覚。


メフィスは顔を上げ、扉の方を見る。


「……王さま」


「はい」


「私……ここにいていい?」


 問いの形をしているが、答えはもう決まっている。


ファウストは、はっきりと答えた。


「ここは、あなたの居場所です」


 命令ではない。約束だ。


 メフィスは、母の手をそっと離し、立ち上がる。


「……分かった」


 その声は、まだ子供だった。

けれど、もう“守られるだけの子”ではなかった。


 この朝、フェルシアは一つの命を失い同時に、一つの未来を迎え入れた。


――信頼は、こうして受け継がれる。

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