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信頼の王国  作者: 志々十勒
創世記─これまでとこれから─
34/37

薄氷の夜

—王宮・非公開執務室—


 夜更けの王宮は静かだった。


 回廊の灯りは最小限に落とされ、外の風音だけが石壁を撫でている。


 長机の端に、ワルターが立っていた。


 机上に広げられたのは、数枚の簡易報告書。いずれも公式記録には残らない類のものだ。


 ムータラは椅子に腰掛け、指先で書類の端を押さえている。


 数字を見る癖は抜けないが、今日は計算をしていなかった。


「…レドフェーザ旧西街道」


 ワルターが低く言った。


「表に出た記録は、ロスト狩猟班一個部隊の“単独行動”。だが実際は、もう一段階上が動く寸前だった」


 ムータラは目を伏せたまま、短く息を吐く。


枷鈴かれいが鳴った時点で、街道の外側に“待機名簿”が出ていた。正式招集がかかっていれば、王が踏み込む余地はなかったでしょう」


 その事後報告に、ワルターは苦く笑った。


暗器ギルド(ロスト)の連絡線が沈黙したのは王の影(マサヒト)だろうが、この短時間で一人で可能か?」


 一瞬の間を置いて続ける。


「そもそも最初から狩猟班を正確に旧西街道に誘引した情報網が鍵になったはずだ。」


 二人で顔を見合わせる。


「…ってことはやっぱり“間に合った”じゃない。“間に合う”ように、誰かが止めていたと…。」


 ムータラの指が、わずかに止まる。


「……ええ」


 二人とも、名を出さなかった。出す必要がないからだ。


 ワルターは書類を一枚裏返す。


沈黙の引き金(ロスト)側の資金流れも、あの夜だけ不自然に途切れている。通常の連絡線が三本、同時に沈黙した。」


「偶然ではありません。闇市場への影響力が強い人物の介入が必要です。一部が、王宮復帰の恩義を感じ、非公式に動いたのかもしれません。」


 ムータラは静かに言った。


「偶然なら、王は森に入る前に“何か”を感じ取れなかったはずです」


 沈黙が落ちる。


 ファウストの姿は、この部屋にはない。

 だが、二人の思考は同じ一点に集まっていた。


「あの夜は……」


 ワルターがぽつりと呟く。


「……薄氷だった」


 ムータラは頷いた。


「ええ。一歩踏み違えれば、母娘は“保護”ではなく“接収”されていた。王の介入も、“救出”ではなく“外交案件”に変わっていたでしょう」


 ワルターは窓の外を見る。


「王は前に出た。だが、前に出られる盤面は、最初から“整えられて”いた。と…」


「…それを整えた者は、既に王ではない」


 ムータラの声は淡々としている。


「だからこそ、記録に残らない」


 ワルターは小さく笑った。


「相変わらずだな。“嘘をつかない王”のために、嘘にならない裏側を用意する」


 ムータラは答えない。ただ、机の書類を丁寧に揃えた。


「結果として」


 彼は言う。


「王は一人の少女と母を救い、国は何も知らずに朝を迎えた」


 それが、最良だった。


 ワルターは踵を返す前に、ひとことだけ残す。


「……だからこそ、忘れるな。あの夜は、英雄譚じゃない」


 ムータラは静かに締めくくった。


「ええ。氷の下に、すべてが沈みかけていた夜です」


 灯りが落ちる。


 王宮は、何事もなかったかのように眠りについた。


 その夜が終わった瞬間、私は誰にも見られない場所で、ようやく“何も起きなかった”という事実に、静かに息を吐いた。


◆薄氷の夜・さらに裏側


—マサヒト視点/ロストとの裏交渉—


 夜は、騒がしいほど静かだった。


 闇市場の外縁、正式な地図には載らない石造りの回廊。


 灯りは一本だけ。消えかけの魔石灯が、契約と裏切りの境界をぼんやり照らしている。


 ロストの使者は三人。全員、名を持たない。


 名を持たないということは、個ではなく“制度”だということだ。


「狩猟対象の移動情報が錯綜している」


 一人が言う。声に感情はない。

 責任を負わない声だ。


「旧西街道。枷鈴は既に鳴っている。これは“狩り”だ。止める理由がない」


 マサヒトは頷いた。

 否定しない。否定は交渉を壊す。


「止めろとは言わない」


 そう言ってから、一拍置く。


「ただ、正式な“狩り”にはなっていない」


 空気がわずかに動く。

 制度の耳が、こちらを向いた。


「待機名簿は?」


「未承認。招集符号も未送達。資金の一次経路が、今この瞬間、凍結している」


 使者の一人が、視線を細めた。


「……誰の手だ」


「知らないほうがいい」


 事実だ。


 これは“王の命令”ではない。命令なら、王国の闇(ロスト)は従わない。


 これは恩義と恐怖と計算が絡み合った、最も厄介で、最も確実な手続きだった。


「今夜、“狩り”を成立させれば」


 マサヒトは淡々と続ける。


「対象は“異能持ち母娘”から、“国家保護対象”へ格上げされる。王が森に入る。交渉は、裏から表に引きずり出される」


 沈黙。


 ロストは“光”を嫌う。

 彼らは闇でこそ、制度でこそ機能する。


「逆に」


 マサヒトは机の上に、何も置かない。


「今夜、“狩り”が成立しなければ。対象はただの“逃走中の民間人”だ。翌朝、別の名前が名簿に載るかもしれない。載らないかもしれない」


 使者の一人が、低く笑った。


「…脅しか?」


「いいや。“選択肢”の提示だ」


 マサヒトは初めて視線を上げる。


「お前らは“狩る”。だが、“狩りを成立させる義務”までは負っていない」


 長い沈黙のあと、枷鈴かれいを腰に下げた使者が、鈴を指で押さえた。


 音が、止まる。


「……今夜は」


 彼は言った。


「風向きが悪い」


 それだけだった。理由も、謝罪もない。


 ロストは立ち去る。

 足音は残らない。契約書も残らない。


 闇が、闇のまま閉じていく。

 マサヒトは一人、灯りの下に残った。


 成功だとは思わない。ただ、発動しなかっただけだ。


(……薄氷だな)


 森では、誰かが走っている。


 王が前に出るだろう。人々は、救われたと思う。


 だがそれは、世界が、壊れなかったというだけの話だ。


 灯りを消す。


 名を残さず、記録を残さず、マサヒトは闇に溶ける。


 ——その夜、何も起きなかった。それが、彼の仕事だった。



同時刻──


夜明け前、王宮の最奥。誰も通らない回廊で、私は立ち止まった。


 窓の外では、まだ街が眠っている。

 報告は上がっていない。


 鐘も鳴らない。

 つまり――世界は壊れていない。


 その事実だけで十分だった。


 私は外套の裾を整え、何事もなかった顔で歩き出す。


 あの夜が終わった瞬間、私は“王である必要がなかった”ことに、静かに安堵した。

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