王の到来
ファウストが森に踏み込んだ瞬間、嫌な確信があった。数刻遅れれば、何かが壊れる。
それは命か、心か、あるいはその両方。
森を吹き抜ける風が乱れている。
肌で感じ取れるほどの人為的な殺気と、恐怖に歪んだ感情の残滓。
そして冷えた鈴の音…。
(……枷鈴か)
報告でしか知らなかった。
だが一度聞けば忘れない。本能の恐怖を呼び起こすような冷たい音色。
「狩る側」が、「獲物に聞かせるため」に鳴らす音だ。
「散開。三拍遅れで包囲」
ファウストは場を把握して、短く指示を出す。誰も問い返さない。森がそれに応じるように静まった。
視界の先に、母娘の背が見えた。
その走り方で分かる。彼女達はもう限界を越えている。
それでも止まらない──止まれない。
さらにその前には、黒革の外套。灰色の気配。
あれは……『沈黙の引き金』の魔術狩り部隊。
(っ…間に合え)
次の瞬間、前に出た女性が娘を庇うように立った。
その背に、かすかな淡く緑の光が灯る。
(……癒し系統? いや、違う……感情結晶……?)
過去に王宮の文書庫で見た、禁則指定の記録が脳裏をよぎる。
だが、考えるより先に身体が動いた。
「――止まれ」
声は低く、森全体に落とした。
威圧ではない。命令だ。
ロストの男が振り向く。一瞬、値踏みする目。
次に理解したのだろう。これは交渉ではないと。
「……ちっ」
彼が動くより早く、騎士の一人が距離を詰める。
刃は振るわれない。だが、退路は完全に断たれた。
ファウストは一歩、前に出た。
母娘の方を見る。娘は怒りと恐怖で震えている。
母は……立っているが、すでに限界だ。
「大丈夫です。もう追われません」
そう言ってから、気づく。
この言葉は命令でも宣言でもない。
――約束だ。
女性がこちらを見る。
驚きと、警戒と、そして……かすかな安堵。
(……この波長は……)
感情分類ならば…“癒し”の系譜。だが、これは不可侵領域のはずの“時間”に触れられる強度と純度…。
過去の記録と一致する。
ファウストは、視線を狩猟部隊の構成員に戻した。
「この女性方二人は、フェルシア王国が保護させてもらう。この時点より研究対象でも、商品でもない、人だ」
静かだが、有無を言わさない声だった。その宣言に、その場にいた全員が理解した。
これは感情論ではない。国家判断だ。
『沈黙の引き金』の男は舌打ちし、一歩下がる。
「なるけど……面倒な王だな」
皮肉たっぷりにファウストを睨みつける。
「光栄です」
その皮肉に、即答で返すファウスト。そこには迷いはいっさいない。
ファウストの言葉を聞き、男は手で合図を出し、闇に溶ける。
鈴の音が、遠ざかっていった。
森に、ようやくいつもの夜が戻る。
ファウストは再び母娘を見る。
「……怖かったですね」
王としては、あまりに個人的な言葉だと分かっている。 それでも、あえて口にした。
娘が、こくりと頷く。
母は、気丈に頭を下げようとして、大きくよろめいた。
「…無理をしないでください」
即座に支える。
その身体は軽かった。驚くほどに。
(……この人は、ずっと逃げ続けていた)
胸の奥が、軋む。
ファウストは決めた。
これは偶然の連続の末の救出ではない。国が向き合うべき問題だ。
「……名を、聞いても?」
女は一瞬だけ迷い、答えた。
「私はマルガレーテです。こちらは娘の、メフィス」
その名を、王は心に刻む。
(――守る。力のためではない。この“優しさ”を壊させないために)
夜の森で、ファウストは静かに誓った。




