母娘の逃走、忍び寄る影
─レドフェーザ領・旧西街道──
木々の隙間から差し込む光は傾きはじめ、日没前の冷たい風が湿り気を帯びて吹き抜ける。
蹄の跡が深く刻まれた道を、二つの影が走り続けていた。
一人は若き少女──娘のメフィス。齢はおよそ17、18歳の凛とした美少女。
もう一人は、深い外套に身を包んだ少女が成長し、大人になったら辿るであろう美貌の女性。だが覗く顔はまだ若いが、疲労を隠しきれない影があった。
母娘の呼吸が乱れ始めた頃、森の奥から金属の擦れる音が微かに響いた。
メフィスが振り返り、小声で囁く。
「……お母さん。まだ……追ってきてる」
マルガレーテは息を整えることすら惜しみながら、娘の肩に手を添えて進ませる。
「分かっています。あの音は、『闇ギルド』……。気配を断つ訓練を受けた者たちです。気付かれないで振り切るのは……難しいわ」
「どうして……私たち、こんなに追いかけられてるの?」
少女の声は震えていたが、足は止まらない。
まだ大人になり切れていない強さと、信じる心がその歩みを支えていた。
マルガレーテは答えようとして、言葉を飲み込む。
(自分の素性を明かさないといけない。でも、言えば……娘に負担を与える可能性も高い)
けれど追手は近い。今までは個人的な利益や欲望の襲撃者だった。でも闇ギルドの『沈黙の引き金』相手では…。嘘で守れる段階ではもうない。
「……メフィ。よく聞いて」
メフィスは走りながら視線を母に向けた。母の体調は日に日に悪くなる一方だった。そこにきて今までとは違う、狩猟の様な追い詰め方をする追手。まるで手負いの獣の気分だ。
「私たち母娘の中には、“癒し”の感情を形に変える力が流れています。あなたが飴を心に届けて、あの男の人を救ったように」
「……うん」
「その力を……“欲しがる者”がいるの。癒すためではないわ。
支配し、独占し、研究し、武器にするため」
メフィスは歯を噛みしめる。
「そんなことに……使わせない」
「そうね。でも、あなたの優しさと違って……世の中は残酷よ。この癒しの力は、魔法と似ているけど違う力。過去、千年続いた戦乱を止めた“力”の一つだから…。」
その瞬間、森の向こうから冷たい風が吹き抜けた。
──カラン。
乾いた鈴のような金属音。
マルガレーテの表情が強張る。
「……狩猟の鈴──これは“枷鈴”、メフィ。『暗器ギルド』の狩りの合図」
子供が悪い事をした時の戒めの言葉にもなっている
『悪い子の時には鈴の音が聞こえるよ。枷鈴がなったら『沈黙の引き金』に連れてかれるよ』
まさか、自分で体験する日が来るとは思わなかった。
「来る……?」
不安そうなメフィスの表情に、気力を振り絞る。
「来るわ。もうすぐそこ」
母は娘の手を強く握る。限界などとうに過ぎてるが、止まれば世界から消える。
あの日の夫の言葉だけが、脳裏から離れない。
「走って。絶対についてきて」
二人は再び全力で駆け出した。
木々の影の中を走り抜けると、突然メフィスが小さく悲鳴を上げた。
「っ……!」
足元の枯れ枝に足を取られ、膝を擦りむいて転びそうになる。
マルガレーテは即座に抱き寄せた。
「大丈夫? 見せて」
「平気……でも、ちょっと痛い」
母は娘の膝にそっと手を当てた。
──淡い、緑色の光。
だがその光は以前より弱く、揺らいでいた。
メフィスが不安そうに顔を上げる。
「……お母さん。魔力?、足りないの?」
「違うわ。これは……あなたを守るために使いすぎたせい」
事実は違う。
本当に枯渇しているのは、精神のほうだった。
……私は目の前で誰かが死ぬのが怖い。……私は、目の前で“守れなかった命”を見るのが怖い。
あの“喪失への恐怖”は力の制御なんてできない……。
光が弱々しく収束し、娘の傷だけは塞いだ。
「よし。走れる?」
「うん!」
再び逃走が始まったその時──
ザッ……
森の奥の闇から、一歩、踏み出す影。
明らかに今までの“普通の追手”とは違う気配。
黒革と灰の外套。
獣皮を思わせる肩当て。
腰の枷鈴が、風でわずかに震える。
鋭く、冷たい嗤い。
「ようやく見ーつけた。
──特殊な“異能持ち”。逃げ足だけは大したものだ」
マルガレーテが娘の前に立つ。
「メフィ、私の背を見ていて」
「お母さん……!」
「どんなことがあっても、離れないで」
マルガレーテは深く息を吸い、感情結晶が胸元で淡い光を放つ。
(…どれだけ身が削れてもいい。この子だけは絶対に死なせない。私はそう決めて生きてきた)
外套の内側で、手が震えていた。
恐怖ではない。
“喪失”の記憶が疼いているだけ。
その震えを押さえ込み、彼女は静かに構えた。
『沈黙の引き金』狩猟班の男が歩み寄る。
「さて……お前たちには来てもらう。とある研究熱心な方々が、心待ちにしている」
メフィスの瞳に怒りと恐怖が混ざる。
「絶対に……渡さない!」
マルガレーテは短く告げた。
「メフィ、走りなさい。北へ向かって。私は──」
言い切る前に、背後の空気が震える。
……風の“気配”が変わった。
マルガレーテが振り返り、驚愕に目を見開く。
(……この光の波長の圧……!)
森の奥から駆けてくる強い気配。周囲の空気が、命令を待つように整う。
複数の“戦場帰りの気配”を従えた、ひときわ強い意志。
そして、風が裂けた。
その瞬間、別の視点で動いていた者達の到来。
木立を跳ねるように駆け抜ける影。
レドフェーザの森へ踏み込んだ王の気配。
「間に合った……!」
少女と母の視界に、ようやく“救い”が流れ込んでくる。




