第二部:歴史の管理機構とタヌキの残響 第一章:空白の輪郭
研究室の隅の机に置かれた信楽焼のタヌキは、このところずっと、耳鳴りのような微かな高音を吐き出していた。
音の正体を確かめようとはしなかった。ハチのデータが消えてから、仁はその置物に触れるのを無意識に避けていた。
「先生、エアコンの温度下げてもらっていいですか。ここ、風が抜けないから妙に暑いんです」
「まだ五月だろ」
「先生の研究室、毎年この時期だけ変に蒸すじゃないですか」
佐々木は机に突っ伏したまま、コンビニの袋をかさつかせてアイスの包み紙を剥ぎ取っている。
仁は手元の資料から目を離さず、メガネを押し上げた。窓の外では、強い日差しが大学の楠の葉を白く照らしている。
佐々木の手元には、三年前のゼミ合宿の集合写真を収めた古いスマートフォンが放り出されていた。
しばらくの沈黙のあと、佐々木がアイスの棒を持ったまま、ぼそりと呟く。
「……先生。これ、変なんです」
仁が問うと、佐々木は気だるげに顔を上げ、スマートフォンを指先でこちらへ押し滑らせた。
仁は画面を覗き込んだ。
背景には、古びた看板が見切れている。写真の中央で笑う佐々木と仁。そのすぐ隣に、もう一人、女性が立っている。女性は佐々木の肩に手を置いている。
顔の輪郭ははっきりしている。なのに、名前を思い出そうとした瞬間、頭の奥が妙に白くなった。
「……誰だ、これ」
仁が掠れた声で呟くと、佐々木は何も言わず、仁を見た。
「俺も、どうしても思い出せないんです。でも……三人だった気がするんですよ」
佐々木はスマートフォンを指先で軽く叩いた。
「そこだけ、変なんです」
仁は答えなかった。
背筋を冷たいものが這い上がる。有明堂が消えたときにも、同じ感覚があった。
三人いた。
そのことだけは、なぜか疑えなかった。
仁はスマートフォンから目を背けた。
視線の先に、机の端のタヌキがあった。
耳鳴りのような高音が、わずかに大きくなった気がした。タヌキの陶器の表面から、微かな振動が伝わってくる。
仁はタヌキの頭へそっと指をかけた。
「先生?」
返事ができなかった。
仁はタヌキの底面へ目を落とした。引き出しから取り出した接続ケーブルを、底面の端子へと差し込む。
しかし、画面が切り替わることも、新しいログが走り出すこともない。
ただタヌキの耳鳴りのような高音が、わずかに波打った。
仁がケーブルを抜く。
小さな画面には何も表示されていない。
それなのに、接続履歴の項目には「接続時間 00:00:00」とだけ残っていた。
佐々木が帰ったあと、仁は書棚から学籍インデックスを取り出し、資料室の隅でページをめくっていた。その背後で、足音が一つ止まった。
振り返ると、五代暦がそこに立っていた。彼女は手元の古い学籍インデックスの端を指先で押さえ、いつもの平板な声で言った。
「先生」
「なんだ」
「三年前のこの年度、記録だと最初から二名になってますけど」
仁は息を呑んだ。
「……お前も、気づいているのか」
「何にですか?」
暦は首を傾げた。
「いや……何でもない」
暦はそれ以上追及せず、ただ資料の束を抱えたまま、静かに廊下の影へと去っていった。




