第五章:終章(選べる未来の証明と、連なる因果)
「……私は、もう従わない」
暦の双眸に、揺るぎない光が灯る。
彼女は自らの手で、管理機構の執行者であることを示すデバイスを地面へと投げ捨てた。
「馬鹿な……それを捨てれば、管理格子との接続を失い、お前の存在そのものが特異点に呑まれるぞ!」
惣一の焦燥混じりの声が響く。
だが、暦の迷いは消えていた。
「私は、私の意志で選ぶ」
「そんな選択肢は存在しない!」
惣一が叫ぶと同時に関ヶ原の中央にそびえる神話装置が眩い青白い光を膨れ上がらせた。
空間の格子が凄まじい風圧を伴って収縮し、暦の足元から崩壊が始まる。
「くっ……!」
暦の身体が宙へと浮き上がりかけたその瞬間、仁が泥を蹴って飛び出した。
「暦ッ!」
仁は自分の身体を投げ出し、落下する彼女の腕を渾身の力で掴み取る。
二人の身体は激しい衝撃と共に泥濘みへと転がり込んだ。
「なぜだ、仁……!」
「一人で勝手に歴史の結論を決めつけるなよ。俺たちは、まだ何も諦めてない!」
仁の瞳を見た瞬間、暦の胸の奥で何かが音を立てて弾けた。
「愚か者どもが……!」
惣一は狂ったように出力レバーをさらに引き絞る。
装置の穂先から放たれた光の槍が周囲の空間を串刺しにし、退路を完全に断ち切った。
固定化の網はすでに収縮を完了し、存在そのものを「最初からなかったこと」へ書き換えようと迫る。
その絶体絶命の淵で、ハチのホログラムが青い火花を散らしながら飛び出した。
「――ここまでや、クソジジイ!」
ハチのホログラムが唸りながら揺らめく。
「――仁。一本にするっちゅうことはな、一本にできんもんまで切るっちゅうことや」
「待て、何をする気だハチ!」
「……ほな、行ってくるわ」
ハチは自らの全データを解放した。
「やめろ、ハチ――ッ!」仁が叫ぶ。
ハチの身体は装置の巨大な光の渦へと飛び込んだ。
装置の内部で青白い光が激しく逆流する。
「バカな……! 私の演算網が逆流している……!?」
惣一が焦愕の表情を浮かべ、制御端末にしがみつく。
ハチが命を削って開いたシステム内部の破孔から、消されていたはずの「選ばれなかった記憶の断片」が一気に噴き出した。
「一本に貫かれてたまるか……!」
仁はハチの光が走った中枢部へ向けて、自らの手でその接続を断ち切るように装置の根幹を強く引き剥がした。
直後、装置の中心で激しい電磁爆発が連鎖する。
ギギギ……と世界を縛り上げていた巨大な格子が悲鳴を上げ、音を立てて粉々に砕け散った。
一本の因果に収束させられていた世界がガラス細工のように激しくひび割れ、無数の枝へと爆発的に分岐していく。
その眩い光の奔流の中で、中枢へと引きずり込まれかける惣一の姿があった。
「父さん――!」
仁が手を伸ばしたその瞬間、光の奔流がすべてを飲み込み、視界の底へとかき消していった。
圧倒的な静寂が訪れる。
仁は膝をつき、動かなくなった信楽焼のタヌキの置物に手を伸ばした。
触れる。
冷たい。
呼びかける。
返事はない。
――ああ、本当にいない。
仁の手から力が抜け、泥を強く掴んだ。
暦は静かに仁を見つめ、何も言わずにその傍らに膝をついてそっと寄り添った。
その足元から、世界がゆっくりとほどけていく。
戦場の瓦礫も、散らばった光も、すべてが泡のように消え去り、意識が深い底へと沈んでいく――。
やがて眩い光がすべてを包み込み、景色が日常へと反転した。
――「こら、時任! また家賃滞納する気い! いつまで寝てさぼっとるの!」
お馴染みの大家さんの怒鳴り声で、仁はハッと目を覚ました。
頭が割れるように痛い。
見慣れた研究室の机。
白衣。
「……っ」
慌てて隣を見る。
そこには、機能を完全に停止した信楽焼のタヌキの置物がぽつんと置かれていた。
研究室のドアが開き、足音が近づいてくる。
顔を上げると、そこに立っていたのは五代暦だった。
彼女は仁を一瞥し、わずかに目を細めて言い放つ。
「……また、そんなところで胃薬ですか」
仁は苦笑しながら、ポケットからくしゃりとした薬の袋を取り出した。
数日後。
大学からの帰り道、仁はいつもの路地裏に足を運んだ。
かつて存在が丸ごと消え去り、ただの空き地になっていたはずの場所。
そこには、真新しい木造の店舗が建っていた。
看板の字体は以前のものとは違い、どこか不揃いで真新しい。
店主の姿も違う見知らぬ男が、奥でせっせと餅をこねている。
店先には、「有明堂」の暖簾が風に揺れていた。
仁は足を止め、一つだけ豆大福を買った。
包みを開け、白い餅を口に運ぶ。
「……ちょっと、甘いな」
仁はもう一口食べた。
店の奥から、餅を打つ音が聞こえている。
仁はしばらくその音を聞いていた。
それから、歩き出した。




