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法廷の外

 ノアが次郎長を訪ねてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 一人ではない。

 見知らぬハワイ人の男を連れている。

 年は次郎長と同じくらいか、少し上だろう。

 日に焼けた顔に深い皺があり、畑仕事をする者の手だった。


「親類だ」


 ノアが言う。


「おめえの?」

「ああ。母の方の」


 男が頭を下げた。

 次郎長も軽く頭を下げ返す。


「で?」

「土地のことだ」


 その一言で、次郎長はだいたいを察する。


「カヴィカが調べてるやつか」


 ノアが頷く。

 男は土地を担保に金を借りていた。

 不作だけが理由ではない。

 家族に病人が出た。

 作物を売るまでの間にも金が要った。

 道具も買い直した。

 一つ一つは、それほど大きな出費ではない。

 だが、運悪くそれらが重なった。


 返すつもりで借りた。

 次の収穫で返せると思っていた。

 しかし、返せなかった。

 期限を過ぎた今、土地を失いかけている。


「カヴィカがホノルルへ行くらしい」


 ノアが言った。


「聞いた」

「土地が戻るかもしれないと、こいつは思っている」


 次郎長は男を見る。

 男の顔には、確かに期待があった。


「戻るのか?」


 男が尋ねる。


「俺に聞くなよ」


 次郎長は苦い顔をした。


「俺ァ判事じゃねえ」

「でも、カヴィカと話した」

「話しただけだ。決めるのは俺じゃねえ」


 男の顔から期待の色が消える。

 次郎長は頭を掻いた。


「ただよ」


 男が顔を上げる。


「仮に土地が戻ったとして、借りた金はどうすんだ?」


 途端、男は黙った。


「借りた金まで消えるって話じゃねえんだろ?」

「それは……」


 ノアも答えない。

 次郎長は二人を交互に見た。


「だったらノアに借りりゃ――」


 そこまで言って、止まった。

 ノアを見る。

 カフルイのコノヒキ。

 村のことを任され、住民から頼られる立場だ。

 だが、金持ちではない。

 畑があり、家があり、食うものもある。

 だからといって、親類の借金を肩代わりできるほどの現金を持っているわけではない。


「……いや」


 次郎長は言い直した。


「おめえにそんな銭がありゃ、最初から俺んところへ連れてこねえか」

「ない」


 ノアは即答する。

 あまりに早かったので、次郎長は笑いそうになった。


「少しは考えろよ」

「考えても増えない」

「そりゃそうだ」

「食べるものなら分けられる」


 ノアは親類を見た。


「畑も手伝える。家を直すなら人も集められる。でも、金を返せと言われたら、それでは足りない」

「だよな」


 次郎長は腕を組んだ。

 驚きはしない。

 むしろ、懐かしいほどだった。


「どこも同じか」

「何が?」


 ノアが聞く。


「日本もだよ」


     


 次郎長は男の畑を見に行くことにした。

 土地そのものを見たからといって、法律のことが分かるわけではない。

 それでも、紙だけ見ているよりはましだと思った。

 畑には作物が植わっている。

 荒れてはいない。

 男も働いている。

 家族もいる。

 小さな家もある。

 食うものが何もないわけでもない。


「日本にもいるんだ」


 畑を歩きながら、次郎長は言った。


「こういう百姓が」


 ノアが隣を歩いている。


「土地を持っているのに?」

「土地があるから食えるとは限らねえよ」


 次郎長は土を蹴る。


「年貢がある。借金がある。不作もある。病人が出りゃ働き手も減る。銭が要るときに米しかねえことだってある」


 ノアは黙って聞いていた。


「田畑を手放す奴もいる。家族を奉公に出す家もある」


 次郎長はそこで言葉を切る。

 娘を売る。

 そんな話も珍しくない。

 しかし、ここで口にする必要まではないと思った。


「だから、こいつが珍しいとは思わねえ」


 次郎長は親類の男を見た。


「むしろ、見たことがある話だ」

「日本でも?」

「ああ」

「豊かな国だと思っていた」

「誰がそんなこと言った」


 ノアが少し笑う。


「お前たちを見ていると、そう見える」

「そりゃ、おめえ――」


 次郎長は言いかけて、止まる。

 何かが引っかかった。

 自分たち。

 カフルイにいる日本人。

 そしてハカラウへ行った者たち。

 確かに、彼らはこの男とは違う。

 だが何が違う。

 働き者だからか。

 日本人だからか。

 次郎長は畑の向こうを見た。


「……違うな」

「何が?」

「甚兵衛たちは、最初からこいつとは違う」

「ジンベエ?」

「ハカラウへ行った連中だ」


 次郎長は指を折った。


「住むところを用意してもらった。道具もある。当面食ってく分も、お上が面倒を見る」

「そう聞いている」

「土地借りて、鍬一本渡されて、あとは勝手に生きろって放り出されたわけじゃねえ」


 考えてみれば当たり前だった。

 ハワイへ人を送り、最初の移住地を作る。

 幕府にとっても初めてのことだ。

 失敗すれば、次に行こうとする者はいなくなる。

 だから面倒を見る。

 最初の収穫が悪かったからといって、翌日から食えなくなるようにはしていない。


「……あいつら、特別なんだな」


 次郎長が言った。


「特別?」

「最初だからだ」


 ノアには意味が分からないらしい。

 次郎長は歩きながら続けた。


「今は人数が少ねえ。だから、お上も面倒を見られる」


 ハカラウへ行った者たちの顔を思い浮かべる。


「だが、これが百人になったらどうする?」

「百人?」

「千人なら?」


 ノアが少し目を見開いた。


「そんなに来るのか?」

「知らねえよ」


 次郎長は笑った。


「たとえだ」


 だが、あり得ない話でもない。

 土地がある。

 作物が育つ。

 仕事がある。

 海の向こうで暮らせる。

 そんな話が日本へ伝われば、来たいと言う者は増えるかもしれない。

 最初がうまくいけば、なおさらだ。


「百人、千人に家建てて、鍬持たせて、食い扶持までずっと出してくれるわけがねえ」

「国でも?」

「国だからって、銭が湧いてくるわけじゃねえ」


 次郎長は言った。


「そのうち、自分の銭で来る奴が出る。着いてから仕事を探す奴も出る。畑を始めるのに金を借りる奴も出る」


 ノアが親類を見た。

 次郎長も見た。

 二人とも同じことを考えたらしい。


「そうなりゃ」


 次郎長は言った。


「次にこいつと同じところへ座ってんのは、日本人かもしれねえ」


 風が畑を渡る。

 葉が揺れた。

 次郎長はそれを見ながら、妙な気分になった。

 ハカラウの日本人がうまくやっている。

 それを嬉しいと思っていた。

 働いたからだ。

 工夫したからだ。

 土地を大事にしたからだ。

 それは間違いではない。

 だが、それだけでもない。

 失敗しても、すぐにすべてを失わないよう支えてくれる者がいた。


「運がよかったんだな」

「日本人が?」

「ああ」


 次郎長は頷いた。


「少なくとも最初の連中はな」




 数日後。

 カヴィカがホノルルへ向かう船の予定を確かめていると聞き、次郎長は港へ行った。

 ちょうどカヴィカは荷をまとめていた。


「行くのか?」

「まだです。船を確認しています」

「そうか」

「何かあったのですか?」

「ノアの親類に会った」


 カヴィカの手が止まる。


「土地の件ですか?」

「ああ」


 次郎長は、畑で見たことを話した。

 土地はある。

 働いている。

 それでも現金が必要になり、借りた。

 返せなくなった。

 ノアにも肩代わりできるほどの金はない。

 カヴィカは黙って聞いた。


「日本にも、ああいう百姓はいる」

「そうなのですか」

「いるさ」


 次郎長は海を見た。


「だから、あいつを見て驚いたわけじゃねえ」

「では?」

「先が分かるんだよ」


 カヴィカが眉を寄せる。


「土地が戻ったとする」

「ええ」

「そのあと、また病人が出たら?」


 カヴィカは答えない。


「次の収穫まで銭が足りなかったら?」

「……また借りるかもしれない」

「そうだ」


 次郎長はカヴィカを見た。


「おめえは土地を戻せるかもしれねえ」

「私が戻すわけではないですよ」

「分かってるよ。たとえだ」


 次郎長は面倒そうに手を振る。


「だが、その土地を持ち続けられるようにはできねえんだな」


 カヴィカはしばらく黙っていた後、言う。


「それは、裁判所が決めることではありません」

「だろうな」

「だから裁判をするなと言うのですか?」

「逆だ」


 次郎長はすぐ答える。


「裁判で止められるもんがあるなら、止めろ」


 カヴィカが次郎長を見る。


「ただよ」


 次郎長は続けた。


「勝った後のことを誰かが考えねえと、また同じところへ戻る」

「誰が考えるのですか?」

「俺に聞くな」


 次郎長は顔をしかめる。


「それを聞きに来たんだ」

「私に聞かれても困ります」

「おめえも分からねえのか」

「分かりません」


 カヴィカは正直に答えた。


「政府かもしれない。王かもしれない。村で考えることかもしれない。商人が別の仕組みを作るのかもしれません」

「国が金貸しでもやるか?」

「そこまでは言っていません」

「だよな」


 二人とも黙った。

 簡単な答えがあれば、こんな話にはなっていない。


「もう一つある」


 次郎長が言った。


「何ですか?」

「ハカラウだ」


 カヴィカの表情が少し変わる。


「日本人の土地がどうしました?」

「今は、お上が面倒を見てる」

「ええ」

「それは最初だからだ」


 カヴィカは黙っている。


「初めの少しなら助ける事はできる。だが、百人、千人になってみろ。同じようにはできねえ」

「そうでしょうね」

「そのうち、国に頼らず来る奴が出る。金を借りる奴も出る」


 次郎長はカヴィカが抱えている書類を顎で示した。


「そんときゃ、そこに書かれる名前が日本人になるかもしれねえ」


 カヴィカは書類へ目を落とす。


「マヌにも似たことを言われました」

「マヌ?」

「法律のことを相談した男です」

「何て?」

「ハワイ人だから救うのではない。外国人だから責めるのでもない、と」


 次郎長は鼻を鳴らした。


「そいつァ話が早え」

「あなたが今言ったことも同じです」

「俺ァ法律の話なんかしてねえぞ」

「だから同じなんです」


 次郎長にはよく分からなかった。

 カヴィカは少し笑う。


「もし同じ条件で日本人が土地を失うなら、同じ法で判断されなければなりません」

「ああ。それはそうだ」

「なら、私たちが今決めようとしていることは、ハワイ人だけのためではありません」

「そういうこった」


 次郎長は頷いた。


「今はノアの親類だ。次は甚兵衛の隣に住む奴かもしれねえ」


 カヴィカはしばらく何も言わなかった。

 やがて、書類を抱え直す。


「私は、法が許す線を確かめたい」

「じゃあ俺ァ」


 次郎長は少し考えた。


「その線を引いても困る奴のことを考えりゃいいのか」

「頼んだ覚えはありません」

「うるせえ。俺だって好きで考えてんじゃねえよ」


 二人とも笑った。

 船はまだ出ない。

 それでもカヴィカは、近いうちにホノルルへ向かう。

 法廷で何が決まるのか、次郎長には分からない。

 カーライルという弁護士がどんな男なのかも、よく知らない。

 契約がどうだ。

 担保がどうだ。

 法律がどうだ。

 そういう話はカヴィカたちに任せればいい。


 だが、一つだけ次郎長にも分かる。

 日本で見てきた。

 土地を失う者を、借金に追われる者を。

 働いても働いても、追いつかない者を。

 だから、土地が戻れば全部終わるなどとは思わない。

 

 そして、今は幕府に守られている日本人も、いつまでも同じではないはずだ。

 最初は特別。

 最初だから守られる。

 成功させねばならないから幕府は支える。

 だが、成功すれば人が来る。

 人が増えれば、すべてを守ることはできなくなる。

 皮肉な話だ。

 

 成功したからこそ、次に来る者は最初の者ほど守られない。

 次郎長は港の向こうを眺めた。

 法廷で決められることがある。

 法廷でしか決められないこともある。

 だが。

 法廷では、どうしても決められないこともある。

 それでも、誰かが決めなければならない。

 誰かが考えなければならない。

 でなければ、カヴィカが一つの穴を塞いでも、その隣からまた水が漏れるだろう。


「まったく」


 次郎長は一人呟いた。


「でけえ桶だな」


 その言葉は誰にも聞かれなかった。

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