最高裁への道
紙を並べるだけなら簡単だった。
借りた金額、利息、返済期限、担保となった土地、返済できなかった場合に何が起きたか。
カヴィカは机の上に契約書を並べ、一枚ずつ見比べていく。
だが、紙の向こうには人がいる。
次郎長に言われるまでもなく、それは分かっていた。
だからこそ、紙だけを見て決めることも、人だけを見て決めることもできない。
一枚目の契約書を手に取る。
借りたのは年老いた男だった。
作物の出来が悪く、家族が病に倒れ、どうしても金が必要になった。
土地を担保にして借りた。
返せなかった。
土地を失った。
事情だけを聞けば、助けたくなる。
だが、男は条件を理解していた。
金額も、期限も、返せなければ土地を失う可能性があることも。
騙された形跡はない。
条件が良かったとは言えない。
それでも、この男の事情だけを理由に契約を覆すのなら、返せなかった者の契約はすべて同じように扱わなければならなくなる。
カヴィカはその紙を左へ置いた。
二枚目。
こちらは、借りた男が「そんな説明は受けていない」と言っている。
だが、契約に立ち会った証人は「説明した」と言っている。
どちらが本当なのか。
それを確かめること自体が争いになる。
もし説明されていなかったと認められれば、その一件について救済する理由にはなるかもしれない。
しかし、それではカヴィカが調べている問題には届かない。
説明したか、しなかったか。
その争いで終わってしまう。
その紙も左へ置いた。
三枚目を手にしたところで、戸口から声がした。
「まだやっているんですか」
顔を上げる。
マヌ・カヘレが立っていた。
「まだ、とは何だ」
「昨日も同じ紙を見ていたでしょう」
「昨日と今日は違う」
「紙は同じです」
「見る方向が違う」
マヌは少し笑い、向かいへ腰を下ろす。
彼はカヴィカより若い。
ラハイナルナの学校で英語や西洋の学問を学び、その後ホノルルの裁判所で書記や通訳として働いた経験がある。
弁護士ではない。
判事でもない。
だが、どんな訴えがどこで扱われ、どんな書類が必要になり、どんな言葉が法廷で意味を持つのかを知っている。
地方で判事を務めるカヴィカにとって、今必要なのはそういう人間だった。
マヌは机上の紙を見る。
「分けたんですか」
「ああ」
「何で?」
「まだ決めていない」
「それは分けたとは言わないでしょう」
カヴィカは三枚目の契約書を差し出した。
「これを見ろ」
マヌが読む。
しばらくして、眉を寄せた。
「署名は?」
「本人のものだ」
「証人は?」
「いる」
「金は?」
「渡されている」
「担保についての説明は?」
「したと証人が言っている。借りた本人も、土地が担保になることは知っていたと認めている」
「返済期限も?」
「知っていた」
マヌはもう一度、紙を見る。
「では、何が問題なんです?」
「それを聞きたくて呼んだ」
「呼ばれていません。私が来たんです」
「では、来てくれて助かった」
マヌは呆れた顔をした。
だが、契約書を返さない。
「条件は厳しいですね」
「ああ」
「土地の価値に比べて、借りた金は大きくない」
「ああ」
「期限も短い」
「ああ」
「でも、それだけです」
カヴィカは頷く。
「だから困っている」
マヌが契約書を机へ置いた。
「カヴィカ。あなたは何をしたいんです?」
「どういう意味だ」
「土地を返したいんですか」
カヴィカは答えなかった。
「借金をなくしたい?」
「違う」
「利息を取れなくしたい?」
「それも違う」
「外国人が土地を持てないようにしたい?」
「違う!」
今度はすぐに答えた。
マヌがカヴィカを見る。
「では、何をしたいんです?」
「分からない」
「それでは裁判になりませんよ」
「分かっている」
カヴィカは腕を組んだ。
「だから困っていると言っている」
窓の外から、人の声が聞こえた。
ホノルルとは違う。
ここでは、誰がどこへ向かっているのか、おおよその見当がつく。
地方の争いも同じだった。
殴った。
壊した。
貸した。
返さない。
境を越えた。
誰の豚だ。
何が起きたのかを確かめ、どの決まりに当てはめるのかを考えるだけで済む。
だが、目の前にある紙は違う。
一枚だけなら、答えられる。
約束した。
金を受け取った。
返さなかった。
だから担保となった土地が処分された。
それだけなら、カヴィカにも理解できる。
だが、同じような紙が何枚も並んだとき、別のものが見えてくるのだ。
「同じ名前なのだ」
カヴィカが言った。
マヌが机を見る。
「貸し手ですか」
「貸し手もいる。仲介した者もいる。土地が処分された後に名前が出てくる者もいる」
「それだけなら商売でしょう」
「ああ」
「土地を扱う人間が限られていれば、同じ名前が何度も出てもおかしくない」
「ああ」
「それでも気になる?」
「ああ」
マヌは黙った。
やがて、一枚ずつ契約書を取り始めた。
「この人は?」
「土地を失った」
「こちらは?」
「失った」
「これは?」
「まだだ。返済期限が来ていない」
「こちらは?」
「返した」
マヌの手が止まる。
「返した人もいるんですね」
「いる」
「同じ貸し手から借りて?」
「ああ」
「なら、『最初から土地を奪うために金を貸している』と決めつけるのは難しい」
「分かっている」
カヴィカは低い声で答えた。
そこが厄介だった。
悪人を一人見つければ済む話なら、もっと簡単だ。
だが、人はそれほど分かりやすくない。
金を貸す。
利息を取る。
担保を求める。
返済されなければ、担保を処分する。
それぞれは商いとして説明できる。
それなのに、結果として土地を失う者が偏っているように見える。
「この人たちは」
マヌが何枚かを並べた。
「外国人との契約に慣れていない?」
「そう見える」
「読めない?」
「読める者もいる」
「では、何が違うんでしょう」
「そこも分からない」
カヴィカは答えた。
「文字が読めることと、契約が何を意味するか分かることは同じではない。だが、それを言い始めれば、どこまで分かれば契約できるのかという話になる」
「そうですね」
「説明を受けたと言っている者もいる」
「なら、なおさら難しい」
「ああ」
マヌはしばらく黙っていた。
それから、最初に見た三枚目の契約書をもう一度手に取る。
「これが一番厄介ですね」
「私もそう思う」
「署名は本物。証人もいる。金も受け取った。土地が担保になることも知っていた。期限も知っていた」
「ああ」
「騙されたという証拠もない」
「ああ」
「脅されたという話もない」
「ああ」
「なのに、あなたはおかしいと思っている」
カヴィカは答えなかった。
「私も少しおかしいと思います」
マヌが言った。
カヴィカは顔を上げる。
「どこがだ」
「それが分からないから、おかしいんです」
「役に立たんな」
「あなたに言われたくありません」
マヌは苦笑した。
それから、少し真面目な顔になる。
「ただ、一つ分かることがあります」
「何だ」
「これは、あなたのところで一件ずつ片づける話ではありません」
カヴィカは黙って聞く。
「地方で持ち込まれる小さな争いなら、あなたが事実を確かめて判断できる。でも、ここで問題になっているのは、抵当に入った土地がどう処分され、その結果を裁判所がどこまで認めるのか、でしょう?」
「ああ」
「しかも、契約書の一文が間違っているという話でもない」
「そうだ」
「なら、当事者が正式に争うしかありません」
「どこで」
マヌはすぐには答えない。
「ホノルルでしょうね」
「最高裁か」
「そう簡単に決めないでください」
マヌは眉をしかめた。
「私は弁護士ではありません。それに、何を求めて訴えるのかで手続きも変わります。地方判事が『大事な事件だから最高裁へ送る』という話ではないんです」
「分かっている」
「本当に?」
「今、分かった」
マヌがため息をついた。
「土地を失った本人が争うんです。借金そのものを否定するのか、土地の処分を争うのか、どんな救済を求めるのか。それを整理しなければならない」
「私は訴える側ではない」
「そうです」
「判事だ」
「そうです」
「なら、私がやるべきことは」
そこでカヴィカは言葉を切る。
自分で言って、自分で気づいた。
「事件を作ることではない」
マヌが頷いた。
「あなたが見つけたものを、当事者に返すことです」
「返す?」
「この契約と、この記録と、同じ名前が出てくる他の記録。何が起きているのかを説明する。そのうえで、本人が争うのかを決める」
「争わないと言ったら?」
「そこで終わりです」
カヴィカは眉を寄せた。
「終わりか」
「あなたの土地ではありません」
短い言葉だ。
しかしカヴィカは何も言えない。
その通りだからだ。
正しいと思うからといって、本人の代わりに争うことはできない。
土地を守りたいという思いがあっても、その土地は自分のものではない。
「もう一つ」
マヌが加える。
「この件を、外国人からハワイ人の土地を取り戻す話にしてはいけません」
「するつもりはない」
「あなたになくても、周りがします」
カヴィカは次郎長の顔を思い出す。
紙の向こうに、人がいる。
その人間には、ハワイ人もいれば外国人もいる。
「もし貸した者がハワイ人で、借りた者が外国人だったとしても」
カヴィカが言う。
「同じ判断でなければならない」
「そうです」
「そうでなければ、法ではない」
マヌは頷いた。
「元になった考え方は、外国から来たものかもしれません。でも、ここで定められ、この国の裁判所が使っているなら、もう外国の法律ではありません」
契約書を指す。
「王国の法律です」
カヴィカはその言葉をしばらく考えた。
外国から来た制度。
外国から来た文字。
外国から来た契約の考え方。
だが、それを受け入れ、王国の法として使うと決めた以上、都合の悪いときだけ「外国のものだから」と退けることはできない。
同時に、外国人だから特別に守られるものでもない。
王国の中で結ばれた契約なら、王国の法が判断する。
「この男に会おう」
カヴィカは三枚目の契約書を取った。
「本人に?」
「ああ。私が勝手に土地を取り戻す話をしても仕方がない。何を争えるのかも、まだ分からない」
「それがいいでしょうね」
「その前に、もう一度記録を確かめる」
「またですか」
「今度は違う」
「昨日も聞きました」
カヴィカは答えず、契約書を並べ直した。
今度は、悪い契約を探すためではない。
同じ貸し手から借りた者。
返した者。
返せなかった者。
土地を失った者。
失わなかった者。
処分された土地を買った者。
その土地が後に誰へ渡ったのか。
もし、都合の悪い例だけを集めれば、最初から答えを決めていたことになる。
それでは裁判ではない。
やがて、一枚の書類に記された名前を見て、マヌの手が止まる。
「この契約の代理人」
カヴィカも見た。
ネイサン・P・カーライル。
「知っているのか」
「名前は」
マヌが苦い顔をした。
「土地と契約の話なら、かなり手強い人です」
「そうか」
「嫌そうですね」
「逆だ」
「逆?」
カヴィカは契約書を置く。
「弱い相手の間違いを見つけても、何が正しいのかは分からない」
「カーライルなら分かると?」
「少なくとも、こちらの考えが間違っているなら、遠慮なくそこを突くだろう」
「負けるかもしれませんよ」
「私が争うわけではない」
口にしてから、カヴィカは少し笑う。
「今度は分かっている」
マヌも笑った。
「少しは」
その日の夕方、カヴィカは船の予定を確かめた。
ホノルルへ行くためだ。
まだ訴訟になると決まったわけではない。
土地を失った男が争うことを望むかも分からない。
望んだとしても、どのような形で訴え、どこで扱われるのか、カヴィカには断言できない。
だから、確かめに行く。
地方で拾った小さな争いの欠片が、本当に一つの問題につながっているのか。
そして、つながっているのなら、この王国の法は、どこに線を引くのか。
カヴィカは机の上の契約書を束ねた。
最高裁へ事件を持っていく道があるのではない。
当事者が何を争い、法が何を判断できるのか。
その道を、一つずつ探さなければならないのだ。




