次郎長では裁けない
カヴィカが次郎長を訪ねたとき、次郎長は鍬を見ていた。
正確には、鍬だったものを。
柄は途中から折れ、鉄の刃も少し曲がっている。
その左右には、二人の男が立っていた。
一人はハワイ人。
もう一人は日本人だった。
「だから、おらが借りたときには、もう柄にヒビが入ってただ」
日本人の男が言う。
甚兵衛ほど強くはないが、東国の訛りが残っていた。
向かいのハワイ人が首を振る。
「でも使えた。貸す前の日にも使った」
「使えたのと、壊れかけてたのは別だべ」
「お前が壊した」
「だから、最初から割れてたって言ってんだ」
「お前が壊した」
「話聞いてんのか?」
「うるせえ!」
次郎長が怒鳴る。
二人ともすぐに黙った。
少し離れたところで石松が笑いをこらえている。
カヴィカは声をかける機会を失い、そのまま見物することにした。
次郎長は折れた柄を持ち上げる。
「こいつを貸したとき、ヒビはあったのか?」
ハワイ人は答えなかった。
「なかったのか?」
「……少し」
「少しか」
次郎長は今度は日本人を見る。
「おめえは?」
「借りたときから入ってただ」
「で、使った」
「使った」
「ヒビがあんのを知ってて?」
「……使えると思っただ」
次郎長は鍬を地面に置いた。
「じゃあ半分ずつだ」
「え?」
二人が同時に声を上げる。
「元から傷んでた。だが、とどめを刺したのはこっちだ。新しい柄を買う銭を半分ずつ出せ。それで終いだ」
「でも――」
「嫌なら好きなだけ喧嘩しろ。ただし俺の見えねえところでやれ」
二人は顔を見合わせた。
どちらも納得した顔ではない。
それでも、しばらくすると日本人が財布を取り出した。
ハワイ人も何か言いながら頷く。
二人が去ってから、石松が笑った。
「親分、半分ってのは適当じゃねえですか」
「うるせえ。二人とも半分ずつ悪いんだから半分でいいんだ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだ」
次郎長はそこで、ようやくカヴィカに気づく。
「おう。いつからいた?」
「半分ずつのあたりからです」
「そりゃ一番見られたくねえところを見られたな」
「なぜですか?」
「判事の前で適当な裁きをしちまった」
「私は裁きだとは思いませんでした」
次郎長が眉を上げる。
「喧嘩を終わらせただけです」
「同じじゃねえのか?」
「違いますよ」
カヴィカは答えた。
「だから来ました」
次郎長はカヴィカを家の陰へ連れていく。
二人の間に置かれた箱の上へ、カヴィカは持ってきた契約書を積む。
次郎長の顔が露骨に嫌そうになった。
「俺ァ、こういうのは嫌いだ」
「まだ何も言っていません」
「見りゃ分かる。字がいっぱい書いてある」
「契約書です」
「だから嫌なんだ」
カヴィカは一枚を開く。
「ある男が金を借りました」
「うん」
「土地を担保にしました」
「うん」
「結果、返せなかった」
「それで?」
「土地を失いました」
次郎長はしばらく待った。
「……それだけか?」
「今のところは」
「だったら、しょうがねえんじゃねえのか」
カヴィカは次郎長を見る。
意外な答えだった。
「そう思いますか?」
「借りたんだろ?」
「ええ」
「返すって約束したんだろ?」
「そうです」
「返せなかった」
「ええ」
「じゃあ、しょうがねえだろ」
次郎長は当然のように言う。
「俺だって、借りたもんを返さなくていいとは言えねえよ」
カヴィカは黙って次の契約書を出す。
「では、これは?」
また説明する。
金額、利息、期限、担保。
次郎長は途中から眉を寄せた。
「さっきより、きつくねえか?」
「そうですね」
「借りた額は?」
「それほど変わりません」
「土地は?」
「こちらの方が価値があると思われます」
「ふうん」
さらに三枚、四枚。
次郎長の表情から軽さが消えていく。
「全部、同じ奴なのか?」
「貸した者、あるいは仲介した者として、同じ名前が何度も出てきます」
「なるほどな」
「ただし、同じ人物が関わっていても普通の条件の契約もあります」
「なんだ。じゃあ――」
「その相手は、英語を読める。商売の経験がある。外国人との取引にも慣れている」
次郎長が黙った。
「厳しい条件の方は?」
「そうではない者が多いです」
「土地持ちか?」
「多いですね」
次郎長は契約書を読めないまま、一枚を手に取った。
表を見て、裏を見て、元へ戻す。
「そいつァ、ちっと臭えな」
「私もそう思います」
「なら――」
「ですが、臭うことと、悪事を働いたことは同じではありません」
次郎長はカヴィカを見た。
しばらくして鼻を鳴らす。
「判事ってのは面倒くせえな」
「私もそう思います」
「次郎長さんなら、どうします?」
カヴィカが尋ねた。
「俺?」
「ええ」
「そりゃ、両方呼ぶな」
次郎長はあっさり答えた。
「貸した奴と借りた奴を座らせる。いくらなら返せる。いつまでなら待てる。土地を全部取らなきゃならねえのか。畑の半分で済まねえのか。話をさせる」
「相手が嫌だと言ったら?」
「そこを何とかするんだよ」
「どうやって?」
「どうやってって……話してだな」
「それでも嫌だと言ったら?」
次郎長は口を閉じる。
「契約どおり土地をもらう。話し合うことはない、と言われたら?」
「……そりゃあ」
「どうします?」
「そこまでだな」
次郎長は頭を掻いた。
「俺が人んちの土地を勝手に返すわけにもいかねえ」
「そうです」
「それに俺の話を聞く気がねえ奴なら、そもそも座らねえ」
カヴィカは頷いた。
次郎長のやり方は、彼に力がある事が前提だ。
船乗りも、村人も、商人も、次郎長の前に座る。
次郎長が公平に話を聞くことを知っているからだ。
そして明日も同じ港で顔を合わせるから、どこかで折れる。
だが、それは法ではない。
「では、十件あったら?」
「何が?」
「同じような契約が」
次郎長が顔をしかめる。
「十件?」
「二十件なら?」
「そんなにあるのか?」
「まだ分かりません」
カヴィカは契約書の束を指で叩く。
「ですが、もしあったら?」
次郎長は黙った。
「あなたが一件ずつ間に入りますか?」
「……無理だな」
「仮に一件解決しても、すぐに次の訴えが出ます」
「そうだな」
「その次も」
「そうだな」
次郎長は腕を組む。
しばらく考えてから、ぽつりと言った。
「穴の空いた桶みてえだな」
「桶?」
「水が漏れるたびに床を拭いたって、穴を塞がなきゃまた濡れるだろ」
カヴィカは次郎長を見た。
「それです」
「なんだ?」
「いえ」
カヴィカは小さく息を吐く。
「私は、ずっと床を見ていたのかもしれません」
「俺ァ桶の話をしただけだぞ」
「それで十分です」
「では、この男は悪いと思いますか?」
カヴィカは契約書に繰り返し現れる名前を指す。
次郎長は即答しない。
「知らねえ」
「知らない?」
「会ったことがねえからな」
「私が説明しました」
「おめえさんが見た話だろ」
カヴィカは少し驚く。
「そいつの言い分は聞いてねえ」
「そう、ですね」
「騙したってんなら悪い。脅したってんなら悪い。最初っから土地を取るつもりで、何も分からねえ奴にうまいこと言って金を貸したってんなら――」
次郎長は契約書を指で弾く。
「俺ァ好きじゃねえ」
「好き嫌いの問題ですか?」
「だから困ってんだろ」
次郎長は苦笑した。
「嫌いだからって、俺がそいつの土地を取り上げるわけにゃいかねえ」
「……そうです」
「おめえさんだって同じだろ?」
カヴィカは答えなかった。
同じだったからだ。
いや、判事である自分の方が、なおさらできない。
誰かを気に入らないから。
やり方が汚いように見えるから。
結果が不公平だから。
それだけで、その者の権利を奪うことはできない。
次郎長が尋ねる。
「で、おめえさんは何がしてえんだ?」
「何がしたいとは?」
「土地を返してえのか。そいつを捕まえてえのか。もう金を貸すなって言いてえのか」
カヴィカは口を開きかけ、そのまま閉じる。
取り上げられそうな土地を戻したい。
そう思う者はいる。
だが、すべての契約をなかったことにしたいわけではない。
金を貸すことが悪いとも思わない。
土地を担保にすることそのものを禁じたいわけでもない。
外国人だから土地を持つな、と言いたいのでもない。
では何をしたいのか。
長い沈黙のあと、カヴィカは言った。
「どこまでなら許されるのか、決めたい」
「どこまで?」
「契約の内容を知っている者と、知らない者がいます」
「ああ」
「文字を読める者と、読めない者もいます。読めても意味を理解できない者もいます」
「いるだろうな」
「その差を使って、自分に有利な約束をさせる。どこまでなら商いで、どこからが許されないのか」
次郎長は黙って聞いている。
「署名した。その一言だけで、すべてを認めるのか。それとも、署名に至るまでのことも見るのか」
「……難しいな」
「だから困っています」
次郎長は、また契約書の束を見た。
「そりゃ俺じゃ決められねえな」
「そうですね」
「おい」
「何です?」
「それを言わせるために来たのか?」
「違います」
カヴィカは少し笑った。
「自分で言えるようになるために来ました」
「余計たちが悪いじゃねえか」
カヴィカは契約書をまとめた。
紐で束ね、立ち上がる。
「では帰ります」
「おう」
「邪魔をしました」
「次は字の少ねえ相談を持ってこい」
「努力します」
数歩歩いたところで、次郎長が声をかけた。
「カヴィカ」
振り返る。
「一つだけ忘れんなよ」
「何をですか?」
次郎長は顎で契約書を示した。
「紙の向こうに、人がいるってことだ」
カヴィカは手元の束を見た。
署名、金額、利息、期限、担保。
紙の上では、それだけだ。
だが、その向こうには畑がある。
家がある。
墓がある。
そこで暮らしてきた者がいる。
「分かっています」
「ならいい」
「ですが」
カヴィカは顔を上げた。
「だからこそ、紙で決めなければならないこともあるのです」
次郎長は嫌そうな顔をした。
「難儀な商売だな、判事ってのは」
「今さら気づいたのですか」
「俺ァ絶対やらねえ」
「頼まれても王は任せないでしょう」
「そりゃよかった」
次郎長が笑う。
カヴィカも笑い、今度こそ歩き出した。
今回の事は次郎長には裁けない。
しかし、次郎長だからこそ収められる争いもある。
互いに顔を合わせ、互いに少しずつ譲り、明日も隣人として生きていくための争いなら。
だが、これは違う。
一つの土地の話ではない。
一人の借金の話でもない。
同じことが繰り返されるなら、そのたびに誰かが間へ入って頭を下げるだけでは終わらない。
桶の穴を塞がなければならない。
では、誰が塞ぐのか。
カヴィカは足を止めた。
自分は判事だ。
だが、一地方の判事が一件の争いとして決めてよい問題ではない。
どこまで契約を守るのか。
どこから契約を認めないのか。
その線は、この王国に暮らすすべての者に関わる。
ハワイ人にも。
外国人にも。
金を借りる者にも。
貸す者にも。
その線を引く場所がある。
カヴィカは契約書の束を抱え直した。




