第7話 減らない数字
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小説版ドリームチャレンジ(Web版)
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ホストクラブの売掛金が笑えない額になった頃、翠はまだ、どうにかなると思おうとしていた。
次の撮影が入れば払える。
ランキングが上がれば仕事が増える。
一度大きな案件を取れれば、まとめて片づけられる。
そう言い聞かせながら、翠は消費者金融の店舗の前に立った。
ガラス扉の向こうにある受付フロアは、妙に明るかった。
受付の女性は丁寧で、声もやわらかい。
けれど、窓口の椅子に座っているだけで、自分がどこか取り返しのつかない場所へ入ってしまったような気がした。
申込書に入力する指先が止まる。
勤務先。
収入。
借入希望額。
文字や数字を書き込むたびに、現実が形になっていく。
「……大丈夫。すぐ返せるし」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
最初の振込があった時、翠は少しだけ安心した。
スマホの画面に表示された残高が増え、ホストクラブへの支払いに回せる。
これで一度リセットできる。
そう思った。
けれど、リセットなどされなかった。
翌月、返済日が来る。
利息分は払える。
最低額も、どうにか払える。
だが、元本はほとんど減らなかった。
画面の数字は、思ったより重かった。
支払ったはずなのに、減っていない。
耐えたはずなのに、終わっていない。
翠はスマホを握りしめ、奥歯を噛んだ。
「次で返す。次の仕事で、絶対」
その言葉は、もう希望というより、足元が崩れないように自分で打ち込む杭に近かった。
逃げたいと思う日もあった。
けれど、逃げれば数字は増える。
見ないふりをしても、利息は止まらない。
翠はその時から、少しずつ引き返せなくなっていた。
* * *
黒い部屋では、第四マッチの判定がすでに下されていた。
勝者、英知。
敗者、翠。
カードの流れを見てしまった僕は、また勝つ方を選んだ。
四度目の勝利。
トップスもボトムスも失った翠に残されているのは、胸元のハート形のニップレスシールと黒のパンティだけだった。
そして今回、処理されるのはその胸元の覆いだった。
「翠様」
マックの声が次の処理を告げていた。
「第四マッチの敗北に伴い、賭け対象の処理へ移行いたします。」
「本マッチ開始前に提示された賭け対象は、第四段階、ブラジャー相当の当クラブ指定代替品。」
「すなわち、現在身につけているハート形のニップレスシールでございます」
その言葉で、翠の肩が小さく震えた。
「処理前確認を行います。ギブアップを申請されますか?」
翠はしばらく答えなかった。
胸元を押さえる腕に、力が入っている。
「……しない」
掠れた声。
「するわけ……ないでしょ」
「承知いたしました。翠様のギブアップ不申請を確認しました。これより、第四段階、ブラジャー相当代替品の賭け対象処理へ移行いたします」
翠はゆっくりと立ち上がった。
一瞬だけ迷うような間を置いた後、彼女は自ら背中をこちらに向ける。
見られるのが耐えられない。
その気持ちが、はっきりと行動に表れていた。
「……見ないで」
翠の声は、これまでで一番小さかった。
「あっち向いてて。絶対に見られたくないんだから」
「……分かりました」
僕は視線を落とした。
けれど、完全に顔を背けることはできなかった。
翠の背中だけが、視界の端に残っている。
見ないでと言われたのに、僕はその願いすら半分しか守れていなかった。
翠は壁の方を向き、手で胸を強く抱きしめるように隠しながら、震える指でハート形のニップレスシールに触れた。
後ろを向いたまま、ゆっくりとシールを剥がしていく。
「……っ」
小さく息を詰める音がした。
シールを剥がした瞬間、翠はすぐに両腕を胸に回した。
背中しか見えない。
それでも、腕に強く食い込む指の力と、肩の緊張したラインから、彼女の強い羞恥が痛いほど伝わってきた。
マックが彼女の横へ静かに歩み寄る。
翠は片腕で胸元を押さえたまま、もう片方の手をゆっくりと差し出した。
その指先には、剥がされたばかりのハート形のニップレスシールがつままれている。
「……ほら」
翠は顔を背けたまま言った。
「これでいいんでしょ」
「確認いたしました。第四段階、ブラジャー相当代替品。翠様より提示済み賭け対象を受領いたします」
マックは黒い手袋をはめた指先で、翠からニップレスシールを丁寧に受け取った。
扱いはあくまで事務的で、まるでチップやカードを回収する時と変わらない。
だが、その無機質な所作がかえって、今渡されたものの意味を際立たせていた。
翠は受け渡しが終わると、すぐに両手を胸元へ戻した。
それから、胸を隠すように手で押さえたまま、ゆっくりとこちらを振り向く。
肩は小さくすぼまり、さっきまで挑発的に笑っていた彼女の余裕は、今はほとんど残っていなかった。
「英知様」
マックが一歩、僕の方へ近づいた。
「こちらは、第四マッチの勝利により英知様へ移譲された賭け対象でございます。規定に基づき、所有権は英知様へ移ります。お受け取りくださいませ」
黒い手袋の上に乗せられたハート形のニップレスシールが、照明を受けて小さく浮かび上がる。
それはあまりにも小さく、軽いものに見えた。
けれど、翠にとっては、決して軽いものではなかったはずだ。
僕は差し出されたそれを見つめた。
受け取っていいのか。
本当に、これが勝負の結果なのか。
頭では理解しているのに、指先がすぐには動かなかった。
シールがなくなった翠は、両腕だけで胸元を隠している。
隠しているのに、隠しきれていない。
肩をすぼめるたびに褐色の肌が揺れ、腕の隙間から見えてしまう線に、僕の視線は何度も引っかかった。
見ないようにするほど、見てしまう。
それが自分でも分かって、喉が詰まった。
「……なに固まってんの」
翠の声が届く。
いつものように強がっている。
だが、その声には、隠しきれない恥ずかしさと悔しさが滲んでいた。
「勝ったんだから、受け取りなよ」
「……本当に、いいんですか」
口にしてから、馬鹿なことを聞いたと思った。
この部屋では、いいかどうかではなく、規定がすべてだった。
「いいわけないでしょ」
翠は即座に吐き捨てた。
「でも、そういう勝負なんでしょ。だったら早くして」
僕はゆっくりと手を伸ばした。
マックの手袋から、ハート形のニップレスシールを受け取る。
指先に触れた瞬間、それがただの小物ではなく、彼女が身につけていたものなのだと強く実感した。
温かさが、まだ残っている。
そこに貼りついていた時間の名残のような熱が、薄いシールの裏にじんわりと残っていた。
指先には、わずかな湿り気も伝わってくる。
汗。
肌の匂い。
長く貼りついていた場所の、甘く柔らかい体温の名残。
小さなシールから、翠の身体に触れていたものだと分かる匂いが、かすかに立ちのぼった。
鼻を近づけたわけではない。
それでも、その熱と匂いは近すぎた。
僕は無意識に深く息を吸い込んでしまった。
吸い込んだあとで、自分が何をしたのか気づく。
息が詰まった。
翠の肩が、わずかに跳ねた。
「……早く置いて」
翠が小さく言った。
「見ないで。嗅がないでよ……ほんとに、気持ち悪い」
声は怒りと羞恥で震えていた。
「……すみません」
言ってから、また胸が重くなった。
謝れば済むことではない。
僕はシールをテーブル脇にそっと置いた。
サンダル。
トップス。
ショートパンツ。
そして、ハート形のニップレスシール。
そこに並んだものは、勝利の証というより、僕が踏み込んでしまった距離そのものに見えた。
その向こうにいる翠は、もうほとんど身体だけで立っている。
強気な言葉で自分を支えていても、腕で胸を抱きしめる仕草は隠せない。
僕はそれをきれいだと思ってしまい、その直後に、そんなふうに思った自分を恥じた。
「第四段階、ブラジャー相当代替品の処理を完了いたしました。賭け対象の移譲、受領、ならびに処理完了を確認。以後、翠様は第四段階の賭け対象を失った状態として扱われます」
マックの宣言が落ちる。
残るは、最後の一枚だけとなった。
* * *
「そして、衣類を賭け対象とする勝負は、最終段階へ移行いたします」
マックが続ける。
「続いて、第五マッチへの移行確認を行います」
翠はまだ両手で胸を必死に隠し続けていた。
耳の先まで真っ赤で、肩が小刻みに震えている。
「翠様。第五マッチへの参加を継続されますか?」
長い沈黙があった。
もう強がりだけでは足りない。
それでも、翠は逃げなかった。
「……続ける」
掠れた声だった。
「まだ……終わってない」
「承知いたしました。翠様の参加継続を確認しました」
マックは一切揺れない。
「第五段階の賭け対象は、現在身につけているショーツ類でございます。英知様は、引き続き金チップ五枚。翠様は、第五段階、現在身につけているショーツ類。双方の賭け対象は、ここに提示されました」
翠の顔から、わずかに血の気が引いた。
「第一段階、靴類。第二段階、トップス類。第三段階、ボトムス類。第四段階、ブラジャー相当代替品。そして第五段階、ショーツ類。衣類マッチにおける最後の賭け対象でございます」
最後。
その言葉が、黒い部屋の中で重く響いた。
「双方の確認が完了いたしました。勝負は、ついに衣類区分の最終段階へ到達いたしました」
マックの声は、どこまでも平坦だった。
「ここで英知様が勝利されれば、第五段階の処理が実行されます。ここで翠様が勝利されれば、英知様の金チップ五枚は失われ、挑戦は終了いたします」
翠は深く息を吸った。
胸元を隠す腕に力を込めたまま、僕を見る。
「……次で終わらせる」
「翠さん」
「なに」
「無理しなくても」
言った瞬間、自分でも薄い言葉だと思った。
ここまで勝ち続けて、ここまで彼女を追い詰めてきた僕が、今さらそんなことを言うのか。
翠にも同じように聞こえたのだろう。
彼女は、泣きそうな顔で笑った。
「ほんと、そういうとこ腹立つ」
「……すみません」
「条件は公平。判定は厳正。そして選択は、それぞれの参加者に委ねられます」
マックが告げる。
テーブル脇には、サンダル、トップス、ショートパンツ、そしてハート形のニップレスシール。
目の前には、最後の一枚だけを残した翠。
僕の前には、まだ失われていない金チップ五枚。
次に僕が勝てば、翠は衣類と呼べるものをすべて失う。
黒い部屋は、もう沈黙するしかなかった。




