第8話 取り次ぎ
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小説版ドリームチャレンジ(Web版)
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翠が所属事務所の社長に相談したのは、借入の数字がどうにも動かなくなってからだった。
事務所の応接室で、翠は足を組み、いつものように強気な顔を作っていた。
「別に泣きつきに来たわけじゃないから。ちょっと、もっと大きな仕事ないかなって思っただけ」
軽く言ったつもりだった。
けれど、声の端は自分でも分かるくらい硬かった。
社長はすぐには答えなかった。
禿げ上がった頭が、応接室の白い照明を鈍く反射している。
かなり大柄で、太った身体を革張りの椅子に沈めているせいで、ただ黙っているだけでも妙な圧迫感があった。
翠が抱えている売掛金のこと。
消費者金融から借りていること。
毎月の返済が、ほとんど利息を払うだけで終わっていること。
話せば話すほど、自分の弱さを机の上に並べているようで、翠は何度も視線を逸らした。
「……で、何かないの?」
急かすように言ったのは、沈黙に耐えられなかったからだった。
社長は椅子の背にもたれ、しばらく翠を見ていた。
「ないわけじゃない」
その言葉に、翠は顔を上げた。
「あるんじゃん」
「ただ、普通の案件じゃない」
「高いなら普通じゃなくていい」
「そういう意味じゃない」
社長の声が低くなった。
「翠ちゃんに紹介していいか、オレだけでは決められない案件がある」
翠は眉を寄せた。
「何それ。怪しいんだけど」
「怪しいと思うなら、この話はここで終わりにしよう」
突き放すような言い方ではなかった。
むしろ、これ以上踏み込むなら覚悟が要ると、遠回しに告げているようだった。
翠は唇を噛んだ。
帰ったところで、数字は減らない。
返済日は待ってくれない。
ホストクラブからの連絡も、消費者金融の通知も、見ないふりをしたところで消えるわけではない。
「……話だけでも聞かせてよ」
「今日は無理だ」
「は?」
「オレが直接決められる話じゃない。確認を取る」
「確認って、誰に?」
社長はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、相手が普通の依頼主ではないことは分かった。
「今日はもう帰るんだ。連絡する」
「ちょっと、ここまで話してそれ?」
「だから帰れと言っている。今の翠ちゃんに、その場で返事をさせる方が危ない」
その言い方に、翠は少しだけ言葉を失った。
社長が心配しているのか。
それとも、自分がこれ以上面倒なことを言い出さないように止めているだけなのか。
分からなかった。
「……分かった」
翠は立ち上がった。
強気な顔を保ったまま応接室を出た。
けれど、事務所の外へ出た途端、足が重くなった。
高額案件。
普通ではない仕事。
確認を取らなければ紹介できない相手。
怪しい。
そのくらい、翠にも分かっていた。
それでも、胸の奥には小さな期待が残っていた。
これでどうにかなるかもしれない。
そう思ってしまう自分が、嫌だった。
* * *
翠が帰ったあと、社長はしばらく応接室に残っていた。
テーブルの上には、翠のプロフィール資料が置かれている。
読者モデルとしての掲載歴。
撮影実績。
SNSのフォロワー数。
ランキング推移。
そして、社長が個人的に把握している現在の金銭状況。
どれも、普通のモデル案件には必要のない情報だった。
社長は深く息を吐き、スマホを手に取った。
相手は、天城グループ総帥、天城龍一郎の秘書だった。
数コールのあと、女の声が出る。
冷たく透き通った声だった。
「お世話になっております。例の件で、一人、候補になりそうな子がいます」
社長は翠の事情を簡潔に伝えた。
モデルとして伸び悩んでいること。
金銭的に追い詰められていること。
それでも、まだ自分の価値を諦めきれていないこと。
話しながら、社長は画面を操作し、翠のプロフィールをメールに添付した。
「資料をメールでお送りします。ご確認いただけますか」
秘書は短く了承した。
電話はそこで切れた。
折り返しの連絡が来たのは、それから一時間後だった。
社長は着信表示を見て、すぐに電話を取った。
秘書の声は、先ほどと同じように落ち着いていた。
「天城が直接お会いになります」
社長は息を止めた。
「総帥が、直接ですか」
「はい。ご本人をお連れください」
それだけだった。
日時と場所だけが告げられ、電話は終わった。
社長はしばらく、通話の切れたスマホを握ったままだった。
天城龍一郎が直接会う。
それが何を意味するのか、社長にも完全には分からなかった。
翠はまだ、天城龍一郎という名前が自分の人生にどう関わるのかを知らなかった。
ただ、戻れない道の先で、次の扉だけが静かに開こうとしていた。
* * *
黒い部屋では、第五マッチの判定がすでに下されていた。
勝者、英知。
敗者、翠。
僕は見えるカードから目を逸らせず、衣類マッチ最後の勝利を選んでしまった。
五度目の勝利。
これにより、翠は最後に残された衣類さえ失うことになった。
「翠様」
マックが静かに呼びかけていた。
しかし、翠はすぐには反応しなかった。
まるで自分の名前を呼ばれたことすら、理解するまでに時間がかかっているようだった。
「第五マッチ開始前に提示された賭け対象は、第五段階。現在着用されているショーツ類でございます」
その言葉が告げられても、翠は動かなかった。
ただ、抱きしめた腕に少しだけ力がこもる。
肩が小さく震え、喉の奥で、音にならない息が引っかかった。
「翠様?」
翠はびくっと反応した。
ようやく意識が戻ったように、ゆっくりと顔を上げる。
けれど、その目にはいつもの反抗的な光がほとんど残っていなかった。
「マッチ敗北に伴い、賭け対象の処理へ移行いたします。処理前確認を行います。ギブアップを申請されますか?」
問いかけは、あくまで事務的だった。
だが、その一文が落ちた瞬間、翠の指先がぴくりと震えた。
彼女は何かを言おうとして、唇を噛んだ。
視線が一度、テーブルの端へ逃げる。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……しない」
声は小さかった。
いつものような挑発も、余裕も、そこにはない。
それでも、その言葉だけは、かろうじて彼女自身の意地で支えられていた。
「するわけ……ない」
言い切ろうとした声が、途中でわずかに掠れる。
翠はそれを誤魔化すように、さらに腕に力を込めた。
「ここまで来て……そんなの、選べるわけないじゃん」
強がりの形をしていた。
けれど、その奥には、負けを受け入れきれない茫然とした空白が残っていた。
「承知いたしました。翠様のギブアップ不申請を確認しました。これより、第五段階、ショーツ類の賭け対象処理へ移行いたします」
翠はゆっくりと立ち上がった。
片手で胸を必死に隠しながら、背中を向ける。
すべてを隠しきれないことを悟ったように見えた。
僕には、彼女が身体を小さく丸め、こちらへ直接向き合わない姿勢で耐えているように見えた。
震える手が、最後に残された黒い布へ触れる。
指先は明らかに迷っていた。
けれど、マックの視線も、黒い壁の向こうにいるはずの観客も、そこにある。
翠は小さく息を吸った。
そして、最後の一枚をゆっくりと下ろした。
黒い布が足元に落ちる。
マックが静かに歩み寄り、それを拾い上げる。
完全に衣類を失った翠は、後ろを向いたまま小さく全身を震わせていた。
「確認いたしました。第五段階、ショーツ類。翠様より提示済み賭け対象を受領いたします」
やがて、丁寧に畳まれた黒い下着が、僕の前へ差し出された。
「英知様。こちらは、第五マッチの勝利により英知様へ移譲された賭け対象でございます。規定に基づき、所有権は英知様へ移ります。お受け取りくださいませ」
「……はい」
声に出すと、胸の奥が重く沈んだ。
自分で選んでいる。
その事実だけは、もう誤魔化せなかった。
僕はそれを受け取った。
布はまだ熱を帯びていた。
特に内側には、翠の体温が強く残っている。
指に伝わる温かさは、さっきまで彼女の身体に密着していたものだと嫌でも分からせる。
湿り気もあった。
汗。
蒸れた熱。
長く肌に触れていた布の、濃く甘酸っぱい匂い。
鼻を近づけたわけではない。
それでも、受け取った瞬間に、むっとした熱気が鼻先へ上がってくる。
肌と汗と、身体の奥から滲んだような甘い匂いが混ざり、鼻の奥に張りついた。
僕は無意識に深く息を吸い込んでしまった。
「……っ!?」
その瞬間、翠が激しく振り向いた。
片手で胸を、もう片方の手で下腹部を隠したまま、目を見開いている。
「今、嗅いだよね!? また嗅いだよね!?」
声が震えていた。
怒りと羞恥と、どうしようもない屈辱が、一気に噴き出している。
「あたしの下着の……汗とか、匂いとか、全部嗅いで興奮してんの!?」
「違います!」
反射的に言った。
けれど、何が違うのか、自分でも分からなかった。
「……違います。でも、最低なのは分かっています」
言い訳にしかならない声だった。
「すみません」
翠は泣きそうな顔で睨みつける。
「返してよ!! それ、あたしのなんだよ!!」
彼女は一歩踏み出した。
「勝ったからって、なんでそんな変態みたいなことすんの!? 気持ち悪い!! 最悪!!」
次の瞬間、部屋の四隅から警備員の一人が動いた。
大きな手が肩を掴むことはない。
ただ、壁のように翠の前へ立ちはだかり、進路を塞いだ。
「どいて! 邪魔しないでよ!!」
「翠様」
マックの声は淡々としていたが、冷たい重みがあった。
「すでに当該賭け対象の所有権は、規定に基づき英知様へ正式に移行しております。返還要求、奪取、または回収を試みる行為は、クラブ規定違反に該当いたします。ただちにお下がりください」
翠の表情が歪んだ。
「……っ……最低」
声が、かすれる。
「ほんとに……最低……」
彼女は悔しそうに唇を噛み、肩を落として後退した。
目が潤み、怒りと屈辱と心細さが入り混じった表情で、床を睨みつけていた。
完全に衣類を失い、両手だけで自分の身体を隠している。
僕から見ても、その姿は今まで以上に惨めで心細いものだった。
僕は下着をテーブル脇にそっと置いた。
だが、鼻の奥にはまだ、翠の体温と匂いが強く残っていた。
完全に裸になった翠を、正面から見る勇気はなかった。
けれど、見ないこともできなかった。
両手で隠している場所よりも、隠しきれない肩の震えや、膝の内側に入る力、呼吸のたびに揺れる身体の輪郭の方が、かえって生々しかった。
「……すみません」
小さく言った。
謝るくらいなら見るな、と自分で思った。
それでも、視線はすぐに彼女へ戻ってしまった。
「第五段階、ショーツ類の処理を完了いたしました。賭け対象の移譲、受領、ならびに処理完了を確認。以後、翠様は五段階すべての衣類賭け対象を失った状態として扱われます」
マックの宣言が冷たく響く。
翠は今、衣類と呼べるものを何ひとつ身に着けていない。
ただ両手だけで、自分の身体を守っている。
衣類マッチは、終わった。
けれど、ドリームチャレンジは、まだ終わらなかった。
* * *
「これにより、衣類を賭け対象とする全五段階のマッチは終了いたしました」
マックが告げる。
「第一段階、靴類。第二段階、トップス類。第三段階、ボトムス類。第四段階、ブラジャー相当代替品。第五段階、ショーツ類。すべての処理完了を確認しております」
翠は何も言わない。
肩を震わせ、両腕で身体を隠したまま立っている。
「そして、英知様、翠様。ドリームチャレンジは、ここで閉幕ではございません」
その言葉に、翠の目がわずかに揺れた。
「ここより先は、衣類ではなく、罰則権利を賭けたマッチへ移行いたします。続いて、罰則権利を賭けたマッチへの移行確認を行います」
罰則権利。
衣類ではない。
もう奪われる服はない。
それでも、次がある。
その事実だけで、黒い部屋の空気がまた形を変えた。
「翠様。第一の罰則権利マッチへの参加を継続されますか?」
翠はすぐには答えられなかった。
もう、服は何ひとつ残っていない。
ここで降りれば、これ以上は奪われずに済む。
そう考えたのか、彼女の表情にほんのわずかな逃げ道を見つけたような迷いが浮かんだ。
けれど、その逃げ道の先にあるものも分かっている。
彼女は、そういう顔をしていた。
ホストクラブの売掛金。
スマホの画面に並んでいた、笑えない額の数字。
見ないふりをしても、消えてくれなかった現実。
この勝負に出たのは、それを終わらせるためだった。
派手に笑って、余裕ぶって、あたしが選んだんだからと言い張って。
本当は、選べるふりをしていただけかもしれない。
けれど、それでもここまで来た。
今降りれば、どうなる。
失ったものは戻らない。
僕の側へ渡った衣類も戻らない。
観客の前で晒された屈辱も、なかったことにはならない。
そのうえ、補填だけが残る。
借金を消すどころか、ただ増やして帰るだけになる。
そんなの、何のためにここまで耐えたのか分からない。
翠は震える指で、自分の腕を強く掴んだ。
逃げたいのだろう。
今すぐこの場から消えたい。
けれど、逃げた先に待っているのは自由ではない。
もっと惨めな請求と、取り返しのつかない現実だけだった。
だから、降りられない。
怖くないからではない。
平気だからでもない。
もう、降りても助からないところまで来てしまったからだ。
長い沈黙の後、翠は震える声で答えた。
「……続ける」
「ここで……止めるわけには、いかない……」
「承知いたしました。翠様の参加継続を確認しました」
マックが頷く。
「それでは、第一の罰則権利を賭けた第六マッチの条件を確認いたします。英知様は、引き続き金チップ五枚。翠様は、第一の罰則権利を賭け対象として提示されます」
第一の罰則権利。
その言葉が、僕の背筋を冷やした。
「補足いたします。第六マッチ以降は、これまでの衣類マッチとは処理方式が異なります」
翠は顔を上げた。
「……処理方式?」
「はい。衣類マッチでは、翠様側には仮想チップが設定されておりました。敗北後、賭け対象の処理前にギブアップを申請された場合、賭け対象の処理は回避されます。ただし、その時点で失われた仮想チップ相当額を補填していただく必要がございます」
「……つまり、脱がない代わりに払えってことでしょ」
「その認識で相違ございません」
マックは淡々と頷いた。
「一方、第六マッチ以降の罰則権利マッチでは、翠様側に負債チップが設定されます。英知様がラウンドに勝利して獲得された負債チップは、清算や返還の対象にはなりません。取得分として確定し、以後の罰則マッチへ持ち越されます」
翠の表情が強張った。
「……負けた時点で、借金が増えるってこと?」
「はい。また、すべてのマッチ終了後、英知様が取得済みの負債チップは、金チップ一枚につき百万円の換算率で現金精算が可能でございます」
ここから先の勝利は、罰則の執行権と、相当額の報酬を伴う。
そう説明されても、実感は追いつかない。
ただ、勝つことの意味がまた変わったのだけは分かった。
「第六マッチ以降にギブアップを申請できる時点は、大きく二つございます」
マックは指を一本立てるように、淡々と説明を続けた。
「ひとつは、各ブラックジャック開始前の確認時でございます。この時点でギブアップを申請された場合、新たな罰則権利マッチは開始されません。ただし、それ以前に確定している負債チップについては、補填対象として残ります」
「……それまでに増えた借金は、消えないってことね」
「その認識で相違ございません」
マックは続けた。
「もうひとつは、ブラックジャック敗北後、罰則権利の処理前確認時でございます。この時点でギブアップを申請された場合、当該罰則の処理は回避されます。ただし、ブラックジャック敗北により確定した負債チップとは別に、同額の補填が必要となります」
「……は?」
翠の声が低くなった。
「ちょっと待って。負けた時点で借金が増える。そのうえ、罰則を避けるなら、同じ額をもう一回払えってこと?」
「その認識で相違ございません」
翠は唇を噛んだ。
「実質、倍じゃん……」
「結果として、当該罰則権利に対応する負担額は倍額となります」
マックの声は変わらない。
「なお、罰則ルーレット開始後、ならびに罰則内容確定後のギブアップ申請はできません」
翠は何も言えなかった。
始まる前に降りれば、それまでに確定した負債だけが残る。
負けたあとに降りれば、罰則を避ける代わりに、さらに同額の補填が発生する。
そして、ルーレットが回り始めたあとは、もう降りることもできない。
負ければ、負債が増える。
罰則を受ければ、身体と尊厳を削られる。
罰則を避けても、負債と同じ額の補填がさらに発生する。
どちらへ転んでも、自分が沈んでいく仕組みだった。
「……ほんと、最悪」
かすれた声で、翠は吐き捨てた。
「やめるなら、始まる前にやめろってこと?」
「正確には、各段階の規定に従い、申請可能な時点でギブアップを申請してください、ということでございます」
「言い方だけ丁寧にすんなよ……」
「条件は公平。判定は厳正。進行は、合意済みの規定に従って行われます」
翠は何も言わなかった。
「……翠さん」
呼びかけると、彼女の肩がわずかに揺れた。
「本当に、続けるんですか」
自分でも、聞く資格があるのか分からなかった。
それでも、黙ったまま次へ進むことだけはできなかった。
翠は唇を噛んだ。
それから、怒ったように僕を睨んだ。
「あんたに何が分かんの?」
鋭い声だった。
けれど、その奥には震えがあった。
「勝ってる側がさ、そんな知ったような顔して聞かないでよ。やめられるなら、とっくにやめてる」
僕は言葉を失った。
翠は視線を逸らし、吐き捨てるように続けた。
「降りるわけないでしょ。ここで退いたら、何のためにここまで耐えてきたのか分かんないじゃん」
その言葉は、強がりに聞こえた。
それでも、ただの強がりではなかった。
逃げ道がある人間の言葉ではなかった。
「双方の確認が完了いたしました。衣類マッチは終わり、勝負は次なる段階へ進みます。失うものの形は変わり、得るものの意味もまた変わります」
マックの声が、黒い部屋に静かに響く。
「それでも、卓上に置かれる原則はただ一つ。勝者が進み、敗者が失う」
翠の肩が、小さく震えた。
テーブル脇には、これまでに移譲された賭け対象が並んでいる。
目の前には、何も身につけていない翠。
そして、僕の前には金チップ五枚。
衣類を賭けた勝負は終わった。
けれど、もっと悪いものが、ここから始まろうとしていた。




