第4話 見えてしまうカード
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小説版ドリームチャレンジ(Web版)
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目を開けた瞬間、僕はまた黒い部屋にいた。
緑のフェルトが張られたテーブル。
黒い壁。
四隅に立つ無言の警備員。
向こう側に座る翠。
テーブルの中央に置かれた未開封のカード。
そして、僕の前に並ぶ金チップ五枚。
失ったはずの五枚だった。
僕は思わず息を止めた。
指先が震えている。
さっきまで、僕は全部失っていた。
三ラウンドで五百万円を失い、翠に笑われ、マックに丁寧な終了宣告を受け、視界が暗くなった。
そのあと、死んだはずの祖父に会った。
SAVE&LOAD。
X-RAY。
カードを透かして見られる能力。
馬鹿げている。
馬鹿げているのに、僕の目の前には、失ったはずのチップが戻っていた。
「……あんた、大丈夫?」
翠の声で我に返った。
彼女はテーブルの向こうで、少し怪訝そうに僕を見ていた。
「急に固まってるけど」
「いや……なんでもないです」
僕は喉を鳴らした。
どう説明すればいいのか分からない。
僕は今、負けた未来から戻ってきた。
そう言ったところで、信じられるわけがない。
そもそも、自分でもまだ信じきれていない。
けれど、記憶はある。
第一ラウンド。
僕は二十を出して負けた。
第二ラウンド。
十七で止まり、翠の十九に負けた。
第三ラウンド。
十九で負けた。
すべて覚えている。
ただし、同じカードが出るとは限らない。
時間を戻したのだとしても、カードの並びまで同じなのか。
シャッフルの一瞬、マックの指先、翠の呼吸。
何かが少しでも違えば、結果は変わるかもしれない。
それでも、僕にはもう一つの力がある。
X-RAY。
カードを透かして見る力。
「英知様」
マックが静かに告げた。
「第一ラウンドの基本ベットは金チップ二枚でございます」
さっきと同じ言葉だった。
僕は金チップ二枚を押し出した。
その音も、やはり同じように聞こえた。
翠が目を細める。
「やっぱり手、震えてない?」
「……今度は、震えてるかもしれない」
「なにそれ。認めるんだ」
翠は笑った。
その笑顔に、さっきとは違う感覚が走った。
僕は一度、この笑顔に負けている。
何もできずに。
彼女のサンダルにすら届かずに。
だからこそ、今度は負けられなかった。
翠がカードを配る。
僕の前に二枚。
翠の前に二枚。
僕のカードは、どちらも表向きだった。
六。
五。
合計十一。
翠の手元では、一枚が表向きで置かれ、もう一枚は伏せられている。
カードの裏面に描かれた悪趣味なシルエットは、翠の伏せカードと山札の上で静かに並んでいる。
祖父の声が、頭の奥で響いた気がした。
カードを透かして見ることができる能力じゃ。
けれど、だから気楽に使えるわけでもなかった。
見るたびに、自分が相手の手の内を勝手に覗き込んでいる事実を突きつけられる。
でも、最初で負ければ意味がない。
僕は息を詰め、翠の手元にある伏せカードを見た。
目の奥に力を込める。
その瞬間、カードの裏面が薄く滲んだ。
白黒の模様が、水に溶けるみたいに揺れる。
中央のシルエットがぼやけ、その下にある数字とマークが、うっすらと浮かび上がった。
見えた。
翠の表向きカードは、六。
伏せカードは、二。
合計八。
心臓が速くなる。
これは、ただ運を見ているだけではない。
相手の手の内を覗き込んでいる。
しかも翠の反応を見る限り、そのことには気づいていない。
胸の奥に、勝ちたい気持ちと、後ろめたさが同時に湧いた。
「英知様。手札をご確認くださいませ」
マックに促され、僕はあらためて表向きのカードを見下ろした。
六。
五。
知っていた数字なのに、目の前に現実として並んでいるのを見ると、指先が少し震えた。
「英知様。選択をお願いいたします」
合計十一。
普通なら、HITでいい。
前の僕も、そう考えて引いた。
その結果、九を引いて二十になった。
強い手だと思った。
なのに翠は、そのあと二十一まで届いた。
あの負け方を、僕は覚えている。
時間は戻った。
だが、山札まで僕に都合よく作り変わるわけではない。
僕は山札の上を見た。
九。
やはり同じだった。
X-RAYで見えるのは、一番上だけだ。
二枚目以降までは、まだ分からない。
それでも、前回の記憶はある。
まず、本当に九が出るかどうか。
そこを確かめなければ、前回と同じ負け筋に入っているのかさえ判断できない。
「HIT」
翠がカードを滑らせる。
追加カードは、僕の手元に表向きで置かれた。
九。
合計二十。
前回と同じだった。
強い手だ。
でも、僕はこの二十で負けている。
僕は山札の上を見た。
今、新しく一番上になったカード。
八。
それも同じだった。
前回、翠はこの八を引いた。
そして、二十一に届いた。
ここまで一致しているなら、次も同じ流れになる可能性が高い。
喉の奥が冷たくなる。
見えてしまうとは、こういうことなのか。
勝てるカードが見えるだけではない。
負ける未来まで、見えてしまう気がした。
「……FOLD」
自分で言った声が、ひどく遠く聞こえた。
翠が目を丸くする。
「二十で降りるの?」
「はい」
「本気で?」
翠は笑う前に、僕の顔をじっと見た。
冗談だと思ったのかもしれない。
あるいは、何かを知っているのではないかと疑ったのかもしれない。
「二十って、普通は勝負するところでしょ。今の手で降りる理由、ある?」
「……あります」
「へえ。どんな?」
答えられるはずがなかった。
山札の一番上が、また前回と同じだったから。
前回と同じ負け筋に入ると分かったから。
そんなことを言えば、勝負どころではなくなる。
僕は視線を落とした。
「言えません」
翠の眉が、わずかに寄った。
「なにそれ。意味分かんない」
僕も翠の立場ならそう思う。
けれど、今はその先にある負けを知っている。
マックが静かに手を動かした。
「英知様、FOLDでございます」
場には、僕の金チップ二枚と、翠側の仮想チップ二枚が出ている。
その四枚のうち、僕が賭けた二枚の半分、一枚だけが僕の側へ返還された。
残る三枚は、翠側が獲得する。
勝ってはいない。
だが、前回のように二枚を丸ごと失ってもいない。
翠は少しだけ肩をすくめた。
「ビビりすぎじゃない?」
「そうかもしれません」
「否定しないんだ」
僕は返事をしなかった。
勝つために降りた。
そんな選択があることを、僕はこの黒い部屋で初めて実感した。
X-RAYはまだ使える。
しかし一度FOLDを選んだことで、ここから先の山札の流れは前回と違う枝へ入った。
もう、記憶だけでは進めない。
見て、判断するしかなかった。
* * *
第二ラウンド。
僕は金チップ二枚を押し出した。
翠はさっきよりも少しだけ姿勢を正していた。
「あんた、何考えてるの?」
「……何がですか」
「二十で降りるなんて、普通じゃないでしょ」
翠の声から、さっきまでの軽い調子が少し消えていた。
ただ馬鹿にしているのではない。
本当に、僕の選択の意味を測ろうとしている。
「……普通じゃないのは、分かっています」
「分かっててやったんだ」
「はい」
翠は唇を結んだ。
その沈黙が、さっきのFOLDよりも重く感じられた。
翠がカードを配る。
僕の手札は、九と七。
合計十六。
嫌な数字だった。
引けばバーストの危険がある。
止まれば弱い。
翠の表向きカードは八。
もう一枚は伏せられている。
さっきまでなら、十六という数字だけで固まっていたと思う。
今は違う。
僕は伏せカードを見た。
六。
翠の合計は十四。
山札の次のカードを見る。
五。
僕が引けば、二十一。
そこまでは分かる。
そのあとの山札までは、まだ見えない。
それでも、二十一を作れるなら引くしかない。
勝てるかどうかは、翠がカードを引く直前まで分からない。
だからこそ、胸が痛んだ。
これは勘ではない。
度胸でもない。
相手が知らないものを、僕だけが盗み見たうえでの選択だった。
「英知様。選択をお願いいたします」
「……HIT」
言った瞬間、翠の眉がわずかに上がった。
翠がカードを滑らせる。
追加カードは、僕の手元に表向きで置かれた。
五。
合計二十一。
肺の奥に溜まっていた空気が、一気に抜けそうになった。
けれど、顔には出さない。
出すな。
そう自分に言い聞かせた。
「あれ」
翠が目を細める。
「今の、引く前から分かってたみたい」
「……まさか」
翠の伏せカードが開かれる。
翠は公開された手札を確認した。
十四。
そこから翠が引く。
僕は山札の一番上を見た。
十。
翠が引けば、二十四。
バーストだ。
ディーラーとして山札からカードを一枚引く。
追加カードは表向きで置かれた。
その数字を見た瞬間、翠はほんの少しだけ肩を落とした。
そこで翠の手は止まった。
マックが判定する。
「英知様、二十一」
翠の顔が固まる。
「翠様、二十四。バーストでございます」
「第二ラウンド、勝者、英知様」
初めて、勝った。
翠側の仮想チップが削られる。
黒い壁の向こうから音は届かない。
けれど、観客がどう反応しているのか、勝手に想像してしまう。
誰かが笑っているのか。
誰かが翠の表情を見ているのか。
誰かが僕の手の震えを見抜いているのか。
翠は髪をかき上げた。
「……流れ、悪すぎ」
それは独り言のようだった。
「別に、まだ終わってないし」
彼女はそう言って、足を組み直した。
厚底サンダルの金具が、小さく鳴る。
その音が、次に失われるものを示しているように聞こえた。
第三ラウンド。
翠側の仮想チップは、まだ残っている。
ここで勝っても、第一マッチは終わらない。
それでも、翠のサンダルへ一歩近づく。
そう理解した瞬間、胸の奥がまた熱くなった。
勝ちたい。
でも、勝てば彼女から何かを奪うことになる。
その二つが、同じ場所で絡み合っていた。
カードが配られる。
僕の手札は、十と八。
合計十八。
悪くはない。
だが、絶対ではない。
翠は自分の表向きのカードを確認し、伏せられた一枚へ一瞬だけ視線を落とした。
ほんの少しだけ表情が明るくなる。
嫌な予感がした。
僕はその予感を、能力で確かめた。
翠の伏せカードは六。
表向きの十と合わせて十六。
ディーラーとして、彼女は引かなければならない。
山札の次は九。
引けば二十五。
バーストだ。
「英知様。選択をお願いいたします」
十八で九を引く手はない。
「STAND」
翠の伏せカードが開かれる。
翠が公開された手札を見る。
彼女は一瞬だけ息を止めた。
さっきまでの軽い挑発が消え、真剣な勝負師の顔になっていた。
ディーラーとして、翠は山札からカードを一枚引く。
追加カードは表向きで置かれた。
唇が動く。
それだけで、彼女の手は止まった。
マックが双方の手札を確認する。
僕の心臓が、うるさいくらい鳴っていた。
「英知様、十八」
翠はまっすぐ前を見ている。
「翠様、二十二。バーストでございます」
その言葉が、黒い部屋に落ちた。
「第三ラウンド、勝者、英知様」
二勝目。
だが、まだ終わっていない。
翠は小さく舌打ちした。
「……今のは、ないでしょ」
マックが次の処理を告げる。
「翠様側の仮想チップは、残り二枚でございます」
第一ラウンドでFOLDしたとき、僕には賭けた二枚の半分、一枚だけが返還された。
残る三枚は翠側が獲得し、翠側の仮想チップは一度、六枚分になっている。
そこから第二、第三ラウンドで二枚ずつ削られた。
だから、残り二枚。
第四ラウンド。
最後のラウンド。
翠側の残額二枚が賭けられる。
僕は金チップ二枚を押し出した。
第一ラウンドでFOLDしていなければ、ここまで辿り着けなかった。
その事実が、指先に重く乗る。
翠がカードを配る。
僕の手札は、八と三。
合計十一。
前回、最後に見た手札と同じだった。
背筋が冷える。
同じ数字が戻ってきたわけではない。
僕が降りたせいで流れは変わっている。
それでも、黒い部屋はわざと同じ場面を突きつけてきたように見えた。
翠の表向きカードは九。
伏せカードは七。
合計十六。
山札の次は十。
僕が引けば二十一。
分かってしまった。
分かっているのに、心臓はうるさかった。
「英知様。選択をお願いいたします」
「HIT」
今度は迷わなかった。
翠が一枚を僕の手元へ滑らせる。
追加カードは表向きで止まった。
十。
合計二十一。
翠の目が細くなる。
「……また?」
僕は何も言えなかった。
翠の伏せカードが開かれる。
九と七。
十六。
翠は公開された手札を見て、唇を結んだ。
そして山札へ手を伸ばす。
僕は、その瞬間になって初めて、山札の一番上を見た。
六。
翠が引けば、二十二になる。
追加カードは表向きで置かれた。
六。
合計二十二。
マックが判定する。
「英知様、二十一」
翠はまっすぐ前を見ている。
「翠様、二十二。バーストでございます」
その言葉が、黒い部屋に落ちた。
「第四ラウンド、勝者、英知様」
終わった。
「以上をもちまして、第一マッチ終了でございます」
翠はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……っ」
小さな声が漏れる。
「あー、もう。最後の一枚、ほんと最悪」
彼女は悔しそうに唇を尖らせた。
余裕の笑みは残っているが、その端には隠しきれない苦さが滲んでいた。
「ま、今回はちょっと流れが悪かっただけだし。別に、実力で負けたって認めたわけじゃないから」
僕はようやく息を吐いた。
勝った。
五百万円を失うかもしれなかった勝負に、勝った。
けれど、手放しで喜べるわけではなかった。
勝っても、金は増えない。
ただ、失わずに済んだだけ。
それでも、勝負は確かに一段階進んでしまっていた。
黒い壁は、今はただ静かに光を吸っている。
観覧席は見えない。
声も届かない。
けれど、初回確認のときに見た仮面の群れだけは、頭から離れなかった。
厚底サンダルの金具が鳴った音が、まだ耳に残っていた。
それは彼女にとって特別な品というわけではないのだろう。
少なくとも、サンダルそのものに未練があるようには見えなかった。
けれど、その足元は、翠が人前で自分をどう見せてきたのかをよく表していた。
背を高く見せ、脚を長く見せ、堂々と歩くためのもの。
強気な笑顔を支える、彼女の見せ方の一部。
僕に分かるのは、そこまでだった。
彼女がその足でどんな場所に立ってきたのか、僕は知らない。
* * *
東京へ出て間もない頃、翠はまだドリームチャレンジという名前を知るよしもなかった。
知っていたのは、田舎で「かわいい」と言われていた自分が、東京ではいくらでもいる女の子の一人でしかないということだけだった。
上京してすぐ、翠は小さな部屋を借りた。
駅から少し歩く、古いワンルーム。
窓を開けても見えるのは隣の建物の壁で、夜になっても外の音は消えなかった。
救急車のサイレン、酔った人の笑い声、どこかの部屋から漏れるテレビの音。
田舎の夜とは違って、東京は眠らないのではなく、眠れない街なのだと思った。
モデルの仕事は、すぐには見つからなかった。
オーディション情報を探し、プロフィール用の写真を用意し、SNSに自撮りを上げた。
けれど、反応は思ったほど増えない。
何件か応募しても、返事すら来ないことの方が多かった。
生活費は、待ってくれない。
翠は駅前のカフェでバイトを始めた。
朝から昼まではレジに立ち、夕方からは別の店で短時間のシフトに入る日もあった。
笑顔で注文を取り、紙コップに名前を書き、床を拭き、帰宅してからスマホでモデル募集を探す。
鏡の前でポーズを確認する頃には、脚が棒みたいに重くなっていた。
それでも、やめるわけにはいかなかった。
父に言われた言葉が、何度も頭に戻ってくる。
バイトしながらモデル?
そんな甘い話があるか。
分かってる。
甘くないことくらい、もう嫌というほど分かっていた。
東京の女の子たちは、みんな綺麗だった。
駅のガラスに映る自分を見ても、少し前までのようには胸を張れなかった。
ブロンドの髪も、褐色の肌も、派手な服も、都会の雑踏に紛れると急に薄く見える。
すれ違う女の子たちはみんな細く、綺麗で、歩き方まで慣れていた。
それでも翠は、自分の身体のどこが人目を引くのかを分かっていた。
褐色の肌。
長い脚。
細い腰。
田舎にいた頃から、男子の視線がどこで止まるのかも、女子がどこを見て小さく笑うのかも知っていた。
知らないふりをする方が、むしろ不自然だった。
だから翠は、あえて隠しすぎない服を選んだ。
白いトップスは肌の色を明るく見せる。
短いデニムは脚を長く見せる。
厚底サンダルは背を高くし、歩くたびに自分の存在を音で知らせてくれる。
露出が多いことは分かっている。
軽く見られるかもしれないことも分かっている。
それでも、見られなければ始まらない。
見られることを怖がっていたら、東京で埋もれるだけだ。
翠は、厚底サンダルの金具を鳴らして歩いた。
足元から音がすれば、自分がここにいることだけは分かる。
誰にも見られていなくても、見られているみたいに背筋を伸ばせる。
* * *
バイト帰りの夕方だった。
カフェの制服から私服に着替え、駅へ向かう途中で、翠はショーウィンドウの前に足を止めた。
ガラスに映った自分は、少し疲れていた。
メイクは朝よりも崩れている。
脚も痛い。
バッグの中には、バイト先でもらった余り物のパンと、使い込んだ履歴書と、まだ返事の来ないオーディションの控えが入っている。
それでも、翠は髪を指で整え、口元だけ笑わせた。
負けてない。
まだ、負けてない。
声をかけられたのは、その時だった。
「君、モデルやってみない?」
最初は怪しい勧誘だと思った。
東京には、そういう声が多い。
何度か似たような誘いを受けたこともあった。
撮影モデルと言いながら、内容を聞くと曖昧だったり、やたらと露出を求められたり、事務所登録料の話ばかりされたりした。
翠は警戒して、すぐには返事をしなかった。
「……どういうモデル?」
「読者モデル。雑誌とウェブの企画で、街の子を探してるの」
差し出された名刺には、聞いたことのある雑誌名があった。
声をかけてきた女の人は、翠の髪や脚や肌の色を、ただ派手だとは言わなかった。
「誌面で映えると思う。ちゃんと撮ったら、もっと目立つよ」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さった。
田舎で言われた「かわいい」とは違う。
知り合いだから褒めるのでも、場を持たせるために言うのでもない。
バイト先の客が軽く投げてくる言葉でも、SNSの流れていくハートでもない。
知らない大人が、仕事の目で、自分を見つけた。
翠は笑った。
「まあ、見る目あるじゃん」
強がった言い方だった。
けれど、その日、帰りの電車で何度も名刺を見返した指先は、少し震えていた。
狭い部屋に帰ってからも、翠はすぐに眠れなかった。
バイト先の匂いがまだ髪に残っている。
脚は痛い。
明日も朝からシフトがある。
それでも、名刺を見ていると、胸の奥が熱くなった。
やっとだ。
やっと、誰かが見つけた。
父に笑われた道が、ほんの少しだけ形を持った気がした。
非日常への入口は、眩しい看板や派手な音ではなく、薄い紙切れ一枚の形をしていた。
その紙を、翠は枕元に置いた。
眠る直前まで、何度も見える場所に。
* * *
「翠様」
マックの声が、場を切り替えた。
「第一マッチの敗北に伴い、賭け対象の処理へ移行いたします。本マッチにおける賭け対象は、現在着用されているサンダルでございます」
翠の足元で、厚底サンダルのつま先が小さく揺れた。
「処理前確認を行います。ギブアップを申請されますか?」
「……サンダルでギブアップ?」
翠は一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐに笑う。
「するわけないじゃん」
彼女は足を組み直した。
強がっているように見えたが、テーブルの縁に置かれた指先だけは落ち着きなく動いていた。
「このくらいでビビってたら、最初からここに来てないっての。それに、あの人たちの前で逃げたみたいになるのも癪だし」
あの人たち。
それが観覧席を指していることは、聞き返すまでもなかった。
翠は顎を上げた。
「続けて」
「承知いたしました。翠様のギブアップ不申請を確認しました。これより、第一段階、靴類の賭け対象処理を実行してください」
翠は椅子に座ったまま、ゆっくりと足元へ手を伸ばした。
片方ずつ、厚底サンダルの留め具を外していく。
金具が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
脱がれたサンダルが、床の上にそっと並べられる。
翠は一瞬だけそれを見下ろした。
ほんの少し前まで、自分の強気な雰囲気を支えていたもの。
背を高く見せ、脚を長く見せ、堂々と歩くためのもの。
それが今は、敗者の賭け対象として足元から切り離されていた。
「……はいはい」
翠は小さく肩をすくめた。
「これでいいんでしょ」
マックが頷く。
「確認いたしました。第一段階、靴類。翠様より提示済み賭け対象を受領いたします」
マックは黒い手袋をはめた手で、サンダルを丁寧に拾い上げた。
単なる履き物ではなく、正式な契約品を扱うような所作だった。
「英知様」
マックが僕へ向き直る。
「こちらは、第一マッチの勝利により英知様へ移譲された賭け対象でございます。規定に基づき、所有権は英知様へ移ります。お受け取りくださいませ」
差し出されたサンダルを前に、僕はすぐには手を伸ばせなかった。
勝ったのだから受け取る権利はある。
それでも、目の前のそれはただの景品には見えなかった。
さっきまで翠の足を支え、彼女の長い脚を少しだけ高く見せていたものだ。
履いている時はただ似合っていると思っていたのに、脱がされて僕の前に差し出されると、急に彼女の身体の一部が切り離されて渡されるように感じた。
見てはいけないものを見ている気がした。
けれど、目を逸らせば逸らすほど、素足になった翠の足首や、床に触れたつま先の細さが頭に残った。
黒い壁に、サンダルを受け取ろうとする自分の姿が薄く映っている。
勝者として、敗者の賭け対象を受け取る姿。
その姿もまた、向こう側から見られている。
僕は恐る恐るサンダルを受け取った。
まだ、ほのかに温かかった。
彼女がさっきまで履いていた体温が、厚底の内側に残っている。
指を滑らせると、わずかに湿った感触があった。
その生々しさに、心臓が跳ねた。
勝負で得たもの。
契約上、僕のものになったもの。
けれど、それは少し前まで翠の身体に触れていたものだった。
「……なに固まってんの」
翠の声が少し尖った。
「勝ったんでしょ。受け取りなよ」
「受け取ってます」
「じゃあ、そんな大事そうに見ないで」
彼女は眉をひそめる。
僕は慌てて視線を外した。
その瞬間、サンダルから立ち上がる体温と汗の匂いを、意識してしまった。
強い匂いではない。
でも、革と汗と、彼女がそこにいた証拠みたいなものが、鼻先をかすめた。
僕は無意識に息を止めようとして、逆に少し吸い込んでしまった。
最低だ、と思った。
そう思ったのに、胸の奥では別の感覚が小さく跳ねた。
勝ったから受け取っただけだと言い訳しても、指先はまだサンダルの温かさを覚えていた。
「……は? 待って」
翠の目が見開かれる。
「今、嗅いだ?」
「ち、違」
「マジ? においフェチなの?」
彼女の頬が赤くなった。
「サンダル履いてた足の匂いとか、汗の匂いとか、そういうの好きなわけ?」
「違います。いや、違うっていうか、近かったから」
「近かったから嗅いだってこと?」
「そうじゃなくて」
翠は顔を赤くしたまま、素足の足先を少し後ろに引いた。
からかうような言葉だったが、声には明らかな動揺と羞恥が混じっていた。
自分の足の汗と体温を、目の前で意識されたことに、彼女の強がりが一瞬揺らいでいる。
「勝ったからって、好き勝手しすぎ。変なことしないでよね」
僕は慌ててサンダルを自分の側のテーブル脇に置いた。
音を立てないように、できるだけ静かに。
「……そんな大事そうに置かれると、逆にこっちが困るんだけど」
翠は不機嫌そうに視線を逸らした。
照れているのか、悔しいのか、怒っているのか。
たぶん、その全部だった。
「ただのサンダルじゃん」
そう言いながらも、翠は裸足になった足先を少しだけ内側に寄せた。
床に触れる足元を意識しているのが、はっきりと分かった。
「第一段階、靴類の処理を完了いたしました」
マックが告げる。
「賭け対象の移譲、受領、ならびに処理完了を確認。そして、勝負はここで幕を下ろすわけではございません」
僕はテーブル脇のサンダルを見た。
勝った。
でも、それで終わりではない。
むしろ、始まってしまった。
「続いて、第二マッチへの移行確認を行います」
マックは翠へ向き直った。
「翠様。第二マッチへの参加を継続されますか?」
「するに決まってるじゃん」
即答だった。
だが、その声は少しだけ強すぎた。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「まだ一回取られただけだし」
翠は笑った。
「次はあたしが勝てばいいだけ。そしたら、その五枚、全部こっちのものなんでしょ?」
「はい」
マックは淡々と答える。
「英知様が第二マッチに敗北された場合、提示賭け対象である金チップ五枚は翠様側の報酬として処理されます。その時点で英知様の挑戦は終了となります」
背筋が冷えた。
一度勝っても、安全になったわけではない。
次に負ければ、五百万円はそこで消える。
「ほら」
翠が口元だけで笑った。
「まだ勝った気になるの早いじゃん」
悔しさを飲み込んで、もう一度こちらを挑発してくる。
その強がりは、さっきより少しだけ危うく見えた。
「承知いたしました。翠様の参加継続を確認しました。では、第二マッチの賭け対象を確認いたします」
マックの声が、次の段階を開く。
「英知様は、引き続き金チップ五枚。翠様は、第二段階、現在着用されているトップスでございます」
トップス。
その言葉を聞いた瞬間、僕の視線がわずかに揺れた。
さっきまでただの服だったものが、次の賭け対象として示されている。
「……ちょっと」
翠が呆れたように目を細めた。
「今、露骨に意識したでしょ」
「してない」
「嘘つくの下手すぎ」
翠は笑おうとした。
けれど、すぐには笑いきれなかった。
自分が次に何を賭けているのか、彼女自身も分かっているようだった。
翠が未開封ではなくなったカードの束を整え、テーブルの中央に置いた。
黒い部屋の空気が、また少し重くなる。
テーブル脇には、翠のサンダルがある。
翠は素足で床に触れている。
そして次に賭けられるのは、彼女のトップス。
僕は自分の中に残っている後ろめたさと、勝ちたい気持ちの両方を抱えたまま、次の勝負を見据えた。
「それでは、第二マッチを開始いたします」
マックの声が、再び部屋に響いた。
「第二マッチ、開幕でございます」




