第2話 ドリームチャレンジへ
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小説版ドリームチャレンジ(Web版)
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翌日の夜、見慣れない差出人から短いメールが届いた。
そこには、専用の暗号通信アプリをインストールするよう指示が書かれていた。
正直、その時点でスマホを閉じるべきだったと思う。
怪しさの濃度が一段上がった。
それでも僕は、指示通りにアプリを入れた。
数分後、アプリにメッセージが届いた。
次の金曜日、十七時。
御影坂駅の北ロータリー。
金庫に入っていた五百万円を持参すること。
通信機器の持ち込み制限。
守秘義務に関する長い注意書き。
内容も分からないものに、五百万円もの大金を持っていく。
正気ではない。
何度もそう思った。
それでも、僕はどうしてもドリームチャレンジの正体が気になっていた。
* * *
指定された金曜日の夕方、僕は五百万円の入ったバッグを抱えて駅へ向かった。
数字で考えていた時より、現金はずっと重かった。
手の中にあるだけで、普通の生活から少しずつ離れていくような重さだった。
約束の十七時まで、まだ少し時間があった。
早く着きすぎた。
そう気づいた瞬間、駅前で立ち尽くしている自分が急に目立っているような気がした。
五百万円の入ったバッグを抱えたまま、ロータリーで待ち続ける。
それだけで、通行人の視線が全部このバッグに向いているように思えてくる。
僕は逃げるように、駅前のコンビニへ入った。
店内は明るすぎるくらい明るかった。
レジ横のホットスナックの匂い。
コピー機の機械音。
雑誌棚の前でページをめくるスーツ姿の男。
いつもなら何も感じない光景なのに、その日だけは妙に現実味があった。
僕は適当に飲み物の棚を眺め、それから何となく雑誌コーナーの前で足を止めた。
漫画雑誌、週刊誌、旅行情報誌。
その隣に、普段なら絶対に手に取らないような女性向けのファッション誌が並んでいた。
いや、手に取らないというより、手に取る理由がない。
僕の生活には、そういう雑誌に載っている女の子たちと接点がなかった。
けれど、その一冊だけ、表紙が妙に目に入った。
派手な髪色の女の子が、こちらを見下ろすように笑っていた。
白いトップスに、短いデニム。
長い脚を強調するような厚底のサンダル。
少し生意気そうで、近づいたら絶対にからかわれそうな笑顔だった。
僕はなぜか、その表紙から目を離せなかった。
ゲームやアニメのヒロインとは違う。
画面の向こうにいるはずなのに、妙に近い。
いや、近いというより、こっちの情けなさを一方的に見透かしてきそうな圧があった。
けれど、その時の僕は、五百万円の入ったバッグのことばかり気にしていて、ちゃんと読む余裕はなかった。
ただ、妙に目立つ子だな、と思った。
それだけだった。
僕は雑誌を棚に戻し、何も買わずに店を出た。
約束の十七時より少し早く、僕は駅の北ロータリーに着いた。
夕方の駅前には、仕事帰りの人たちが行き交っている。
いつもなら何とも思わない雑踏が、その日だけはやけに遠く感じた。
黒いリムジンが一台、停まっていた。
その中で、その車だけが明らかに浮いていた。
黒塗りの車体は、夕方の駅前の光を鈍く反射している。
近づくほど、普通の送迎車ではないことが分かった。
バッグの取っ手を握る手に、自然と力が入る。
間違っていたら、かなり恥ずかしい。
いや、それどころではない。
五百万円を持ったまま、駅前で怪しいリムジンへ近づいている。
そう考えた瞬間、今さらながら自分の行動が正気ではないように思えた。
ここで引き返したら、僕はたぶん一生、何も起こらない側の人間のままだ。
その予感の方が、リムジンよりも怖かった。
僕が近づいた瞬間、後部座席のドアが内側から静かに開いた。
中から、黒いスーツの男が降りてきた。
サングラスに、耳元の小さなイヤホン。
姿勢はまっすぐで、無駄な動きがまったくない。
どこかの国の大統領でも警護していそうな、シークレットサービスのような姿だった。
表情は読めない。
僕は心の中で、彼をSPと呼ぶことにした。
もちろん、本物のSPなのかは分からない。
ただ、駅前で五百万円を抱えている僕よりは、明らかに職業欄に説得力があった。
少なくとも今、警察から職務質問を受けたら、怪しいのは間違いなく僕の方だった。
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
流暢な日本語だった。
「あ、あの、ぼ、僕は、え、英知と言いまして……」
名乗りというより、不審者が職務質問に失敗しているみたいだった。
いや、この状況で不審者なのは、たぶん僕の方ではない。
たぶん。
「お待ちしておりました、英知様。車内へお入りください」
僕は反射的にバッグを抱え直した。
「……お邪魔します」
丁寧すぎる声だった。
それが逆に怖かった。
後部座席に乗り込むと、すぐに通信機器の確認を求められた。
「英知様。事前にお伝えした通り、通信機器を含む電子機器をお持ちではございませんか?」
僕はポケットのスマホを意識した。
本当は置いてくるべきだった。
けれど、五百万円を持って見知らぬ場所へ向かうのに、スマホまで置いていく勇気はなかった。
「……すみません、スマホを持ってきてしまいました」
「守秘義務の関係上、スマートフォンをはじめ、通信機能を持つ電子機器の持ち込みは禁止されております」
SPは責めるでもなく、ただ規定を読み上げた。
「お預かりしてもよろしいでしょうか」
ここで拒否すれば帰れるのかもしれない。
一瞬、そう思った。
けれど、帰るための言葉は喉から出てこなかった。
「お願いします」
僕はスマホを差し出した。
SPは僕のスマホを、黒いクッションが詰められたアタッシュケースに丁寧に入れた。
僕のスマホは、まるで国宝級の危険物みたいに収められていく。
誰にも見せたくない検索履歴と、ブックマークと、通知が来ると少し困るゲームアプリくらいしか入っていない。
いや、それはそれで危険物かもしれない。
手元に残ったのは、五百万円の入ったバッグだけだった。
「大変恐縮ですが、念のため金属探知機で確認させていただきます」
身体を調べられるのかと思って身構えたが、SPは特に何もしなかった。
ただ、助手席側のモニターへ視線を落としている。
両手を上げるべきなのか、ポケットを裏返すべきなのか、一瞬だけ真剣に悩んだ。
昔受けた空港の保安検査ですら、僕は少し挙動不審になった。
今の僕を見たら、保安検査員はきっと無言で別室を用意する。
どうやら、この座席自体に金属探知機能が備わっているらしい。
「確認できました。ご協力に感謝いたします」
さらにアイマスクとヘッドホンを渡されたとき、さすがに足が止まった。
ここまで来ると、もはや高級送迎というより拉致のオプションサービスだった。
しかも妙に丁寧な分、余計に怖い。
「移動先の秘匿のためでございます」
「現地までは、およそ一時間から一時間半ほどかかる予定です。どうぞリラックスしておくつろぎください」
僕はアイマスクを受け取り、言われるままにヘッドホンを耳へ当てた。
祖父の手紙が、また頭に浮かんでいた。
後悔しないはずじゃ。
視界を塞がれることよりも、五百万円を抱えたまま行き先の分からない車に乗っていることの方が、よほど現実離れしていた。
リムジンの後部座席は、身体が沈み込むほど柔らかかった。
上等な革張りのシートが背中から腰までを静かに包み込む。
運転席にはもう一人、同じような黒いスーツのSPが座っていた。
ルームミラー越しにこちらを見ているような気がしたが、サングラスのせいで本当に視線が合っているのかは分からない。
アイマスクを下ろすと、視界は完全に暗くなった。
少し遅れて、ヘッドホンから穏やかなクラシック音楽が流れ始める。
外の音はほとんど聞こえない。
駅前のざわめきも、車の外の気配も、すべて柔らかい旋律の向こうへ押し流されていった。
膝の上には、バッグの重みがある。
それだけが、今の僕にとって唯一はっきりした感覚だった。
わずかに車が動き出したような気がした。
けれど、その後はほとんど揺れを感じなかった。
高級シートに包まれ、眠気を誘うクラシックを聞いているうちに、緊張で固まっていたはずの意識が、少しずつ遠のいていった。
* * *
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ヘッドホンの音楽が、突然止まった。
『アイマスクとヘッドホンを外してください』
機械音声がそう告げた。
僕はぼんやりした頭でアイマスクとヘッドホンを外した。
眠っている間も、バッグだけは無意識に抱え込んでいたらしい。
取っ手を握る手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
フロントガラスは真っ暗で、外の様子は何も見えなかった。
ここは地下だろうか?
自分が今どこにいるのか分からない。
それは、僕にとって生まれて初めての感覚だった。
やがて車が止まった。
後部座席のドアが開けられ、僕はバッグを抱えて外へ出た。
車から降りると、そこはコンクリートで覆われた空間だった。
壁も床も天井も、灰色の硬い質感で統一されている。
駅前の光や人の声は、もうどこにもない。
地下なのだろうか。
眠っていたせいで、どこをどう走ってきたのかも分からなかった。
外気はひんやりとしていた。
バッグを持つ手だけが、妙に熱を帯びている。
目の前には、分厚い金属製の扉があった。
重機がぶつかってもびくともしなさそうなくらい重厚な扉で、周囲のコンクリートに埋め込まれるようにして立っている。
「長時間のご移動、お疲れ様でした」
SPが、さっきと変わらない平坦な声で言った。
「そのまま扉の方へお進みください」
てっきり案内してもらえると思っていた僕は、思わずSPを見た。
「申し訳ございません。私どもが中に入ることはできません」
そう言うと、SPはすぐにリムジンへ乗り込んだ。
黒い車体は静かに後退し、暗がりの向こうへ消えていった。
僕はしばらく、その場に立ち尽くした。
戻るための車はもうない。
手元にあるのは、五百万円の入ったバッグと、目の前の分厚い扉だけだった。
仕方なく扉の方へ歩き出す。
すると、分厚い扉が音もなくゆっくりと開いた。
中には、受付のような窓口が見えた。
僕はバッグを抱え直し、そのまま受付へ進んだ。
* * *
受付の前に立つと、奥からスーツ姿の人物が現れた。
黒のタキシード。
黒の手袋。
丁寧すぎるほど整った立ち姿。
だが、何より異様だったのは、顔全体を覆うようにLEDディスプレイが取り付けられていることだった。
人間の顔ではない。
表示面に浮かぶ簡略化された目と口が、こちらへ向けられている。
「ようこそおいでくださいました、英知様」
声は穏やかで、礼儀正しい。
「夢と勝負が交差する特別な舞台、ドリームチャレンジへ、ようこそ」
だが、そこには歓迎の熱も、営業じみた愛想もなかった。
決められた手順を、寸分違わず読み上げているような静けさがあった。
彼は、ドリームチャレンジの司会進行役を務めているのだと言った。
進行、確認、判定、そして執行。
そのすべてを滞りなく務める。
「皆様からは親しみを込めて、マックと呼ばれております」
ファーストフード店かパソコンみたいな名前だと思った。
「ファーストフード店かパソコンのような名前だと、思われましたか?」
僕は思わず顔を上げた。
心が読めるのか。
「ご安心ください。よく、そのように仰られます」
「……そうですか」
安心していいのかどうか、少し分からなかった。
「どうやら、当クラブのご利用は本日が初めてのようでございますね」
マックは僕の反応を読んだのか読んでいないのか、穏やかに続けた。
「開幕前にはいくつか大切なご説明がございます。ここでは少々、舞台が整いません。どうぞ、プライベートラウンジへ」
僕はマックの後ろについて歩いた。
案内されたラウンジは、外の扉からは想像できないほど整っていた。
三人掛けのソファーに座ると、安物の柔らかさとは違う、重みのある弾力が返ってくる。
しっとりとした革が身体に沿い、沈み込むというより、丁寧に支えられる感覚だった。
落ち着くはずの座り心地なのに、逆に緊張した。
「本格的なご案内の前に、念のため確認しておきたい事項がございます」
マックは僕の前に立ったまま言った。
「英知様がお持ちの当クラブ会員証は、どちらで手に入れられたものでしょうか?」
僕は、会員証を祖父から譲り受けたことを伝えた。
「ご祖父様からでございますか。なるほど。継承によるご来場、確かに承りました」
継承。
その言葉が、やけに重く聞こえた。
続いて、参加費の確認が行われた。
僕は膝の上に置いていたバッグを見下ろした。
駅からここまで、ずっと手放せなかった重み。
ファスナーを開けると、札束がぎっしりと詰まっている。
改めて見ると、五百万円という金額は、数字で考えていた時よりずっと生々しかった。
僕はバッグをテーブルの上に置いた。
マックは黒い手袋をはめた手で、丁寧に中身を確認する。
札束を数える動きには、驚きも欲もなかった。
ただ、決められた手順を正確にこなしているだけだった。
「確認いたしました。現金五百万円。規定額と一致しております」
マックが小さく手をかざすと、壁際に控えていたスタッフが銀色のケースを運んできた。
ケースがテーブルの上に置かれ、静かに開かれる。
中には、金色のチップが五枚、等間隔に収められていた。
一枚一枚に「¥1M」の文字と、細かな装飾模様が刻まれている。
玩具のようにも見える。
だが、その一枚が百万円相当だと思うと、冗談のような軽さが逆に恐ろしかった。
「こちらが、当クラブ専用の金チップでございます。一枚につき百万円相当。合計五枚、総額五百万円」
マックは淡々と言った。
「重みある現金は、今この瞬間、勝負の象徴へと姿を変えました。以後、英知様の賭け対象は、こちらの金チップとして処理されます」
バッグの中から現金が消え、代わりに五枚のチップが目の前に並ぶ。
重かったはずの五百万円が、急に軽く、小さく、頼りないものに変わってしまった。
僕はその変化に、妙な寒気を覚えた。
ここからが、本番前の手続きだとマックは言った。
初回利用にあたり、契約書へ署名すれば参加手続きは完了する。
規定の説明は必須ではない。
契約内容に同意できるなら、そのまま署名して問題ない。
「もちろん、ご希望でしたら、当クラブの概要、賭けの対象、勝敗条件、禁止事項について、簡単にご説明いたします」
「……お願いします」
僕は即答した。
ここまで来て、何も知らずに名前を書くほどには、まだ壊れていなかった。
マックの説明によれば、ドリームチャレンジは男女の参加者同士が一対一で勝負を行う特殊なカジノらしい。
僕は金チップを賭ける。
対戦相手となる女性は、自分の衣服、または罰則権利を賭ける。
金チップ、衣服、罰則権利。
形は異なるが、すべてクラブ規定により金チップ換算で価値が設定される。
その説明を聞いただけで、喉が少し詰まった。
さらに勝負は外部の観衆に公開されるという。
ただし、勝負室の内側から観衆の姿は見えない。
観覧席との境界にはマジックミラーを使用しているらしい。
一対一の勝負。
だが、完全な二人きりではない。
見えない場所から誰かに見られているという事実が、胸をざわつかせた。
勝負はブラックジャックで行われる。
手札の合計を二十一に近づける。
二十一を超えればバースト。
HITで引く。
STANDで止まる。
FOLDで降りる。
ただし降りるにも返還規定があり、掛け金が少ないと使えない。
FOLDした側へ返還されるのは、自分がそのラウンドで賭けたチップの半分だけ。
基本ベット二枚なら、一枚だけが返還される。
残るチップは、相手側が獲得する。
残額が一枚しかない場合は、半額返還が成立しないためFOLDできない。
ルール自体は知っている。
けれど、マックの口から説明されると、ただのカードゲームには聞こえなかった。
引くか。
止まるか。
損失を抑えて降りるか。
どれも、目の前のテーブルで自分が選ぶことになる。
続いて、女性側の衣服区分について説明された。
第一段階は靴類。
第二段階はトップス類。
第三段階はボトムス類。
第四段階はブラジャー類。
第五段階はショーツ類。
靴類。
そこまでは、聞き流せた。
だが、トップス、ボトムスと続いたところで、僕の思考はわずかに引っかかった。
女性が身につけている服を一枚ずつ勝負の対象として数えられているのだと思うと、否応なく想像が働いてしまう。
まず、靴を失う。
次に、上に着ている服を失う。
その次に、下に穿いているものを失う。
そして、その先。
僕は慌てて視線を落とした。
まだ誰の姿も見ていない。
相手がどんな女性かも知らない。
それなのに、ルールを聞いただけでそんな想像をしてしまった自分が、ひどく後ろめたかった。
恐ろしいルールだと思っている。
異常な勝負だとも分かっている。
それでも、その異常さを理解した瞬間、胸の奥に熱のようなものが生まれた。
それが嫌だった。
けれど、否定しきれなかった。
マックはさらに続けた。
衣服マッチで勝っても、僕の金チップは増えない。
勝利によって確定するのは、提示された衣服の処理だけ。
僕が敗北すれば、提示した金チップを失う。
そして女性側が五段階すべての衣服を失った場合、以降のマッチでは罰則権利が賭け対象となる。
罰則権利。
その言葉だけで、空気が一段重くなった気がした。
最初の罰則権利は金チップ五枚相当。
次は十枚相当。
以降は段階が上がるごとに価値が倍増していく。
罰則権利を賭けるマッチでは負債チップが設定され、それは最終的に金チップ一枚につき百万円として精算される。
勝てば、相手に罰則が近づく。
そのうえ、自分の報酬も増えていく。
だが、負ければ積み上げたものは相殺され、最後に残る金チップさえ奪われる。
目の前の五枚の金チップが、ただの五枚ではなくなった。
この先へ進むための鍵であり、相手を追い込むための刃でもあった。
最後に、ギブアップについて説明された。
女性側はマッチ開始前、または賭け対象の処理前にギブアップを申請できる。
ただし承認された場合は、該当する賭け対象に相当する金額を補填しなければならない。
敗北後、処理前にギブアップするなら、通常補填額に加え、同額のペナルティが発生する。
補填できなければ、管理手続きへ移行する。
逃げ道はある。
だが、無料ではない。
支払えなければ、その逃げ道さえ別の檻に変わる。
降りることすら、ここでは別の賭けになる。
説明が終わると、マックは分厚い契約書をテーブルに置いた。
表紙には、ただ大きく「契約書」とだけ書かれている。
読めば細かい規定が延々と続いているのだろう。
そう思うと、紙の束がただの書類ではなく、逃げ道を塞ぐ壁のように見えた。
「ご署名をもって、当クラブ規定への同意が確認されたものとして扱われます」
差し出されたペンを受け取る。
契約書の最後には、細い線で引かれた署名欄があった。
たったそこに名前を書くだけで、この異常な勝負への参加が確定する。
指先に、妙な重さがあった。
だが、ここまで来て引き返すという選択肢は、なぜか浮かばなかった。
僕は署名欄に、自分の名前を書き込んだ。
「確かに、確認いたしました。これをもちまして、英知様のドリームチャレンジ参加手続きは完了でございます」
マックはそう言って、一礼した。
舞台の準備が整うまでラウンジで待つよう告げられた。
* * *
マックが部屋を出てから、十数分が過ぎた。
僕はソファーに座ったまま、金チップの重さと契約書の厚みを思い出していた。
もう帰れない。
そう思った。
そして、そのことに完全な後悔だけを感じていない自分が、少し怖かった。
やがてマックが戻ってきた。
「大変お待たせいたしました。第一マッチの舞台、すべて整っております」
僕は立ち上がった。
「さあ、参りましょう。夢と勝負が交差するステージが、英知様をお待ちでございます」
* * *
静かな通路を、マックの背中について歩いていく。
地下にあるとは思えないほど、この施設は広いらしい。
目的の部屋に辿り着くまで、数分ほどかかった。
マックが足を止めた先には、豪奢な装飾が施された重厚な扉があった。
「こちらでございます。この扉の向こうが、本日のステージとなります」
彼は黒い手袋をはめた手で取っ手に触れ、音もなく扉を開いた。
僕が足を踏み入れた瞬間、真っ先に目に入ったのは、部屋の中央に立つ女性だった。
派手な髪。
小麦色の肌。
挑発するような笑顔。
白いチューブトップに、デニムのショートパンツ。
足元には、少し高めの厚底サンダルを履いている。
さっきコンビニで見た、あの雑誌の女の子だ。
そう気づいた瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
誌面の中でこちらを見下ろすように笑っていた女の子が、今は数メートル先で、僕を直接見ている。
写真ではない。
紙の上でもない。
目の前にいる。
その事実だけで、妙に息が詰まった。
「へえ。あんたが、あたしの相手?」
彼女は僕を見て、軽く笑った。
「もっとギラついた金持ちのおっさんとか来ると思ってた。あんたみたいなオタクっぽいのが相手なんて、ちょっと予想外。……いや、悪い意味じゃないけど」
声まである。
当たり前なのに、その当たり前が変に生々しかった。
「あたしは翠。せいぜい退屈させないでよね」
翠。
名前を聞いた瞬間、コンビニの雑誌棚が頭の中でちらついた。
読者モデル特集。
派手な髪色。
白いトップスと短いデニム。
名前も載っていた気がする。
けれど、その時の僕は五百万円の入ったバッグのことで頭がいっぱいで、ちゃんと覚えていなかった。
それでも、目の前の彼女があの誌面にいた女の子だということだけは分かった。
「……なに、その顔。もしかして、あたしのこと知ってる系?」
図星だった。
僕は返事をしようとして、言葉に詰まった。
「あー、やっぱり。雑誌かなんかで見た?」
翠は楽しそうに笑った。
「ふふっ、そっか。あたしのことは知ってるんだ」
「……いえ、その」
何か言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。
知っている、と言うほど知っているわけではない。
さっきコンビニで雑誌の表紙を見ただけだ。
でも、知らないと言えるほど、目の前の彼女を初めて見た感じもしない。
その中途半端さが、余計に気まずかった。
「でも、ごめんね? あたしは、あんたのこと全然知らない」
軽く笑っているだけなのに、その言葉は妙に刺さった。
一方的に見覚えがある相手から、当然のように知らないと言われる。
当たり前のことなのに、僕は少しだけ居心地の悪さを覚えた。
僕の視線が、無意識のうちに彼女の身体を追ってしまう。
白いチューブトップ。
短いデニム。
厚底サンダルから伸びる脚。
見てはいけない。
そう思った時点で、もう見てしまっている。
どこを見ても正解ではない気がした。
そのことに、翠はすぐ気づいたようだった。
僕は慌てて視線を逸らした。
そこでようやく、自分が彼女だけを見ていたことに気づく。
逃げるように、周囲を見る。
部屋は、扉の外で想像していた豪華なカジノとは少し違っていた。
黒を基調にした、広い勝負室だった。
壁も床も、光を吸い込むような暗い色で統一されている。
余計な装飾はほとんどない。
豪奢な扉の向こうにある場所だというのに、そこだけは妙に削ぎ落とされていた。
中央には、大きな木製のテーブルが一つだけ置かれている。
表面には緑のフェルトが張られ、カードを扱うための場所だけが、照明の下で静かに浮かび上がっていた。
テーブルの周囲には、僕と翠が向かい合うための椅子。
その脇に、マックが立つためのわずかな空間。
それ以外のものは、必要最低限しかない。
すべてが、中央のテーブルへ視線を集めるために作られているようだった。
部屋の四隅には、屈強な警備員が一人ずつ立っていた。
黒いスーツ。
無表情な顔。
体格の良さだけで、こちらが余計なことを考える気力を削いでくる。
彼らは何も言わない。
動きもしない。
それでも、四隅から注がれる無言の圧力が、僕の足取りを自然と慎重なものにさせた。
すべてが削ぎ落とされ、中央のテーブルと、そこへ向かう者だけが存在を許されている。
そういう部屋だった。
それでも、どれだけ周囲を見ても、意識は結局、部屋の中央にいる彼女へ引き戻されてしまう。
「ねえ」
不意に声をかけられ、僕は肩を揺らした。
「今、胸とか脚とか見てたでしょ」
「いや、その」
「違うの?」
「違わない、というわけでは……」
「認めるの早すぎ」
終わった。
僕の防御力は、チュートリアルのスライムより低かった。
母親以外の女性にまともに詰められた経験がほとんどない人間が、こういう相手に勝てるはずがない。
翠は挑発するように笑い、腰に手を当てた。
「別に、見るなとは言ってないけどさ。そんな顔されると、こっちまで変な感じになるじゃん」
さすがはモデルというべきか、腰に手を当てるだけで、なぜか妙に絵になっていた。
僕が同じことをしたら、たぶん腹痛を我慢している人にしか見えない。
その仕草だけで、白いチューブトップの輪郭と、ショートパンツから伸びる脚線が否応なく目に入る。
僕は完全にペースを崩されていた。
「ただし、見るだけで満足してたらつまらないでしょ? ここはそういう場所じゃないもの」
「翠様」
マックの声が静かに割って入った。
「大変魅力的な開幕前口上ではございますが、ここで一度、進行をお預かりいたします」
翠は肩をすくめた。
「はいはい」
マックが中央のテーブルへ手を差し向ける。
「英知様もこちらへ」
僕は促されるままテーブルの片側に座った。
向かい側には翠が腰を下ろす。
二人の間には、未開封のトランプと、金色のチップが整然と並べられていた。
「へえ、英知っていうんだ」
翠はテーブルに肘をつき、僕を見た。
「名前だけ見ると賢そうなのにね。中身はさっきから挙動不審だけど」
「街で見たら、通報するか二度見で済ませるか迷うレベル」
「……二度見で許してください」
「考えとくね」
僕の社会的安全は、初対面のギャルの裁量に委ねられてしまった。
翠は余裕たっぷりに笑った。
しかし、その目だけは真剣だった。
「お待たせいたしました」
マックが、中央のテーブル脇で静かに姿勢を正した。
「ただいまより、第一マッチ開始前確認を執り行います」
その声は、さっきまでの案内よりもさらに硬く、規定を読み上げるためのものに変わっていた。
「英知様、翠様。これよりお二人は、同一の規定、同一のテーブルのもとで勝負を行っていただきます」
同一の規定。
同一のテーブル。
わざわざそう言われると、目の前のチップと翠の存在が、同じ天秤に載せられているように感じた。
「また、本勝負は外部の観衆に向けて公開されております」
僕は思わず顔を上げた。
公開。
その言葉が、黒い部屋の空気を一段冷たくする。
「通常、勝負室の内側から観覧席を視認することはできません」
マックは続けた。
「これは参加者の集中を妨げないための措置でございます。ただし、初回マッチ開始前に限り、観覧状況の確認を行います」
「これにより、本勝負が公開形式で行われていることを、参加者双方に明示いたします」
マックが軽く指を鳴らした。
その瞬間、黒い壁面の一部が、すっと色を失った。
ただの黒い壁にしか見えなかった面が、薄い膜を剥がされるように透けていく。
向こう側に広がっていたのは、まるで別世界のようなホールだった。
柔らかな黄金色の照明。
白いクロスのかかった円卓。
磨き込まれた床に、静かに反射するシャンデリアの光。
その豪奢な空間の中に、人影が並んでいた。
黒いタキシードの男たち。
赤いドレスに身を包んだ女。
誰もが顔の半分を仮面で隠している。
そして、その全員が。
こちらを見ていた。
食事をしている者はいない。
グラスを傾ける者も、談笑する者も、皆どこか控えめだった。
ただ、視線だけがこちらへ向けられている。
見えないと思っていた壁の向こうに、確かに観客がいた。
この部屋で交わした言葉も、視線も、沈黙も。
すべて、あちら側から見られていたのだ。
僕は思わず、さっきまでの自分の姿勢を意識した。
翠へ向けた視線。
何気なく沈黙した、その間合いまで。
すべてが、こちらの知らない客席へ晒されていた。
「……うわ」
翠の声から、ほんの少しだけ余裕が消えた。
「ほんとに見てるじゃん。趣味悪すぎ」
「観覧席の皆様には、当クラブ規定に基づき、勝負の進行を静粛にご覧いただいております」
マックの声が、こちらへ向けられているのか、壁の向こうへ向けられているのか、一瞬分からなくなった。
「参加者への接触、声掛け、合図、その他一切の干渉は禁止されております」
観客たちは動かない。
それでも、こちらを見ている。
「また、この部屋には防音処理が施されております。観覧席の音声が、参加者側へ届くことはございません」
確かに、観客たちは何かを話しているようだった。
隣同士で顔を寄せ、唇だけが静かに動く。
誰かが短く笑ったように肩を揺らし、別の誰かがこちらを指さすような仕草を見せた。
だが、声は届かない。
その無音が、かえって視線の重さを際立たせていた。
「……ふーん」
翠は笑った。
「まあ、見たいなら見れば? でも、こっちが勝つところまでちゃんと見てなさいよね」
強がりだと分かった。
けれど、その強がり方が妙に眩しかった。
再び黒い壁面がゆっくりと濃さを取り戻していく。
黄金色のホール。
仮面の観客たち。
こちらへ向けられた無数の視線。
それらは黒い膜の向こうへ沈むように見えなくなった。
壁は、また何も映さない黒へ戻った。
だが、一度見てしまった以上、もうただの壁には見えない。
見えない。
けれど、見られている。
その事実だけが、テーブルの上に重く残った。
マックが、第一マッチの条件を確認した。
ゲームはブラックジャック。
今回のマッチにおける僕の賭け対象は、所持している金チップ五枚すべて。
対する翠の賭け対象は、現在着用しているサンダル。
規定上、そのサンダルには金チップ五枚相当の価値が設定されるらしい。
ただし、五枚を一度に賭けるわけではない。
マッチ内では、僕の金チップ五枚と、翠側に設定された仮想チップ五枚を使って、ラウンドごとに勝敗を処理する。
基本ベットは、一ラウンドにつき双方二枚。
勝った側が、そのラウンドに出されたチップを獲得する。
FOLDが行われた場合は、返還規定により、降りた側へ自分が賭けたチップの半分だけが返還され、残るチップは相手側が獲得する。
基本ベット二枚なら、返還は一枚。
残額が一枚しかない場合は、半額返還が成立しないためFOLDできない。
ただし、これはあくまでマッチ内の勝敗判定用の処理であり、僕が最終的に得られる金チップが増えるわけではない。
どちらか一方の持ちチップが尽きるか、次の基本ベットを支払えなくなった時点で、マッチ終了。
僕が勝てば、翠のサンダルは規定に従って処理される。
翠が勝てば、僕の金チップ五枚はすべて失われる。
つまり、サンダルそのものを一回の勝負で奪うわけではない。
サンダルを五枚分のチップに変換して、その五枚を削り合う。
そういう仕組みなのだと、僕はようやく理解した。
理解したところで、まともなルールだとは少しも思えなかった。
「サンダル……」
マックの言葉に、僕の視線が思わず翠の足元へ向かった。
厚底のサンダルは、彼女の長い脚をさらに強調しているように見えた。
「ちょっと」
翠が呆れたように言った。
「今度は足元? ほんと分かりやすいんだけど」
「いや、今のは説明で」
「はいはい。ま、いいけど」
翠は口元に余裕の笑みを浮かべた。
「このマッチであたしが勝ったら、そのチップは全部いただくから。後悔しても、返してあげないよ?」
言葉は軽いが、翠の声にはわずかな緊張が混じっていた。
彼女にも、ここで負けられない理由があるのだろう。
マックは翠へ、マッチ開始前であればギブアップを申請できると確認した。
承認された場合、提示賭け対象に相当する金額を補填する必要がある。
「サンダルを賭けてマッチね。ふーん、最初はずいぶん優しいじゃん」
翠は軽く足を組み、厚底サンダルのつま先を小さく揺らした。
余裕ぶった仕草だったが、テーブルの縁を叩く指先だけは、ほんの少し落ち着きがない。
「ギブアップなんてするわけないでしょ。そんなの、始まる前から負けたって言ってるようなものじゃん」
翠はまっすぐ僕を見た。
「いいよ。続ける。その五枚、こっちが全部もらうから」
マックは参加継続を確認し、第一マッチの成立条件がすべて満たされたと告げた。
部屋の四隅に立つ警備員たちは、微動だにしない。
その存在だけで、この部屋の空気がただの遊びではないことを物語っていた。
「安心っていうより、逃げられないって感じだけどね」
翠はそう言って笑った。
「まあ、あたしは逃げるつもりなんてないけど」
彼女は背筋を伸ばし、まっすぐに僕を見た。
「ねえ、あんた。言っとくけど、あたし、こういう空気でビビるタイプじゃないから」
そう言うわりに、翠の指先は、テーブルの縁を小さく叩き続けていた。
「だから変に気を遣わないで。本気で来て」
軽薄そうに見えた笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
その表情には、勝負に挑む者だけが持つ鋭さがあった。
マックは未開封のトランプを確認し、それを翠の前へ差し出した。
彼女がこの勝負のディーラーを務めるらしい。
「……相手が、配るんですか?」
思わず声が出た。
翠が片眉を上げる。
「なに? あたしがズルするって言いたいわけ?」
「いや、そういうわけじゃ」
「ご安心くださいませ」
マックが、僕たちの間に静かに声を置いた。
「カードの配布順、ベット処理、勝敗判定は、すべて当クラブの管理システムによって記録、監視されております。翠様が担うのは、カードを扱う進行上の役割に限られます」
「だってさ」
翠は包装の端をつまみながら、挑発するように笑った。
「それでも怖いなら、今のうちに泣いて帰れば?」
静まり返った部屋に、透明なフィルムの裂ける音だけが小さく響いた。
新品のカードが、緑のフェルトの上へ滑り出す。
その裏面は、一般的なトランプとは明らかに違っていた。
白と黒だけで描かれた、豪奢な飾り枠。
四隅を埋める蔓のような模様と、上下に配置されたハート。
そして中央には、女性の四つん這いになった後ろ姿を思わせる黒いシルエットが大きく描かれていた。
僕は思わずカードを見つめた。
カードの柄だと分かっていても、その意匠は妙に目を引く。
視線を逸らすべきか、そのまま見ていていいのか、判断に迷う絶妙な図柄だった。
「……は?」
翠の声が、そこでぴたりと空気を切った。
「ちょっと待って。なにそのトランプの裏」
「こちらは、当クラブ特製のカードでございます」
マックは、何の含みもない声で答えた。
「ドリームチャレンジ専用に制作された、特注のカードバックでございます」
「勝負の舞台には、勝負にふさわしい意匠を。当クラブの美学でございます」
「いや、言い方だけ急にちゃんとしてるけど、真ん中のこれ、だいぶ攻めてない?」
翠の頬には、ほんの少しだけ気まずそうな色が差していた。
「ご指摘の箇所は、本デザインにおける主題でございます」
マックは、まるで美術館の解説でもするように続けた。
「トランプの裏面を意味するバック」
「そして、女性の後ろ姿を意味するバック」
「二つの意味を一枚の絵柄に重ねた、たいへん意欲的かつウィットな意匠となっております」
「いや、意欲的とかウィットって言えば何でも許されると思ってない?」
さっきまで余裕ぶっていた彼女も、このデザインは予想外だったらしい。
マックはまるで当然のように、カードの束を整えている。
白黒の裏面が揃うたび、中央のシルエットが照明の下でちらついた。
「ていうか、これでブラックジャックやるの? 毎回この柄見せられるわけ?」
「はい。裏面は全カード共通でございます。したがって、カード識別上の偏りは発生いたしません。公平性に問題はございません」
「公平性の話じゃないんだけど。普通にキモいって話してるんだけど」
「カード引くたびにそれ見せられる側の気持ち、考えたことある?」
「当クラブでは、参加者の心理的揺らぎも含めて演出の一部と考えております」
「最悪の返事来た」
そう言いながら、翠はちらりと僕を見た。
その目は、明らかにこちらの反応を探っている。
「……あんたもさ。カード見るたびに変な顔したら、すぐ分かるからね」
急に矛先を向けられ、僕は思わず姿勢を正した。
変な顔をしていない顔、というものが分からない。
「なに、もう動揺してんの? まだ配られてもないんだけど」
「してないです」
「変な敬語」
からかうような口調だった。
だが、彼女の指先もまた、テーブルの縁を小さく叩いている。
強気に見せているだけで、カードの悪趣味な存在感は、翠のペースもわずかに乱しているようだった。
「ご安心くださいませ」
マックは淡々と告げる。
「カードの意匠、参加者の動揺、ならびに視線の乱れは、勝敗判定に一切影響いたしません。勝敗は、手札の合計値と当クラブ規定によってのみ確定いたします」
「だから、そこじゃないってば」
翠はため息をつき、それから小さく笑った。
呆れ半分、挑発半分。
その笑みは、崩れかけた余裕を無理やり元の形に戻すようでもあった。
「ま、いいけど。そういう悪趣味な演出、嫌いじゃないし」
彼女は顎を上げ、まっすぐに僕を見た。
「ただし、柄に見とれて負けたとか言い訳したら、笑うから」
マックが静かに頷いた。
「カード意匠に関するご確認、ならびに心理的影響の申告を受領いたしました。ただし、進行上の支障はなしと判断いたします」
どう考えても支障はあるだろう、と思った。
けれど、もう誰も止めない。
金チップ五枚。
翠のサンダル。
黒い部屋。
見えない観客。
悪趣味なカード。
そして、祖父の手紙。
全部が、僕をこのテーブルに縫いとめていた。
翠が未開封だったカードを揃え直し、緑のフェルトの中央へ置く。
さっきまで文句を言っていたくせに、カードを扱う指先は慣れていて、無駄な動きがなかった。
「それでは、第一マッチを開始いたします」
翠は笑った。
余裕たっぷりに見える笑顔だった。
けれどその指先だけは、まだ完全には落ち着いていなかった。
僕は深く息を吸った。
僕の退屈だった日常は、もう終わっていた。た。




