第1話 夢の残り香
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小説版ドリームチャレンジ(Web版)
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僕は白い虚空の中に仰向けで寝ていた。
床も壁もなく、ただぼんやりと白い霧のようなものが視界の端で揺れている。
その中に、黒い影のような女性のシルエットがあった。
顔は見えない。
けれど、こちらへ近づいてくる輪郭だけは妙に鮮明だった。
現実の記憶というより、僕の頭の中に溜まっていた都合のいい憧れや欲望だけで作られた幻みたいだった。
影の女は、僕を見ているのか見ていないのか分からないまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
近い。
あまりにも近い。
現実なら絶対にありえない距離だった。
僕は何か言おうとした。
けれど、声は出なかった。
代わりに、胸の奥だけが妙に熱を持っていく。
これは夢だ。
そう思った。
思ったのに、夢だからこそ止まらなかった。
理性も遠慮も、現実で積み重ねてきた臆病さも、白い霧の向こうへ溶けていく。
影の女が、かすかに笑った気がした。
次の瞬間、視界が白くほどけた。
目が覚めた。
* * *
跳ね起きるように上体を起こして、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れた天井。
散らかった机。
出しっぱなしのゲーム機。
床に脱ぎ捨てた服。
枕元に転がったスマホ。
そこはいつもの僕の部屋だった。
なのに、身体だけはまだ夢の中に置き去りにされたように熱を持っていた。
嫌な予感とともに布団をめくり、ズボンの中を確認する。
「……最悪だ」
一気に血の気が引いた。
よりにもよって、こんな目覚め方をするとは思わなかった。
いや、初めてというわけではない。
けれど、慣れるものでもない。
朝の光が差し込む自分の部屋で、誰にも見られていないのに、僕は妙にいたたまれない気分になった。
彼女なんて、今まで一度もできたことがない。
手を繋ぐどころか、女の子とまともに距離を詰めた経験すらほとんどない。
それなのに、頭の中だけは一人前だった。
いや、一人前どころか、持て余していると言った方が近い。
ゲームやアニメのヒロイン。
深夜、誰にも見られていないと思って開いたページ。
そういうものに興味がないふりをするには、もう無理があった。
現実の女の子を前にすると、何を話せばいいのかも分からない。
目が合うだけで妙に緊張する。
少し距離が近いだけで、頭の中がうるさくなる。
なのに、興味だけはある。
情けないくらい、ある。
僕は布団を見下ろしたまま、深くため息をついた。
朝から、最悪の気分だった。
身体は妙に重い。
頭はぼんやりしている。
そして何より、自分自身がどうしようもなく情けなかった。
僕の名前は英知。
ゲームとアニメをこよなく愛する、ごく普通の大学生である。
講義に出て、帰って、ゲームをして、動画を見て、たまに自分の欲望に負けて、そのまま寝る。
夢も目標もない。
彼女もいない。
それで困ったこともなかった。
少なくとも、今朝までは。
そんな退屈で、少しだけ惨めな日常は、一本の電話で終わりを告げた。
スマホの画面には、母親からの着信が表示されていた。
祖父が死んだ、という知らせだった。
* * *
その言葉を聞いたとき、僕の中に最初に湧いたのは、悲しみというより空白だった。
小学生の頃に親の都合で祖父の家に預けられることが多く、よく遊んでもらった。
山の中にある古い家で、虫取りをしたり、川で水遊びをしたり、縁側で冷えた麦茶を飲んだりした。
けれど、ここ数年はほとんど会っていなかった。
会わなくなった理由があるわけではない。
単純に僕も大きくなり、一人で家にいても大丈夫な年頃になったからだ。
祖父から連絡が来ることもなく、僕もそれを気にすることは全くなかった。
だから母に「葬儀はもう終わってしまったけど、来られるなら、向こうで片付けをしている叔母さんを手伝ってあげて」と言われたとき、特に断る理由はなかった。
何より懐かしさが煩わしさを上回っていた。
* * *
祖父の家は、都市部から一時間ほど離れた山間の集落にあった。
電車を乗り継ぎ、バスに揺られて、山道を進んだ。
それほど遠くなかったが、週末の予定を丸ごと潰すには十分すぎる距離だった。
久しぶりに見る祖父の家は、記憶よりもずっと小さく、古びて見えた。
玄関先には、見知らぬ中年の女性が立っていた。
彼女は僕の叔母だと名乗った。
顔を合わせたことはあるのかもしれない。
けれど、少なくとも僕の記憶の中に、彼女の姿はなかった。
会ったことのない親族というものは、どう接すればいいのかよくわからない。
「ごめんなさいね~、急に来てもらって」
「いえ、大丈夫です。僕でできることなら何でも言ってください」
そう答えながら、自分の声が妙によそよそしく聞こえた。
叔母から、一部の遺品整理を頼まれた。
気乗りはしなかったが、ここまで来て断るのも変な話だった。
祖父の部屋に入ると、古い紙と埃、そして何か生臭いような妙な臭いが漂ってきた。
その臭いには、覚えがあった。
子供の頃、僕は一度だけこの部屋に忍び込んだことがある。
大人たちが居間で話している隙に、祖父の部屋の襖を少しだけ開けた。
そこには、古いビデオテープやDVD、女の人の写真集がぎっしり詰まっていた。
当時の僕には、何が置かれているのか正確には分からなかった。
ただ、見てはいけないものだということだけは分かった。
それでも、一冊だけ開いてしまった。
大人向けの写真に写っていた女の人。
白い肌。
柔らかそうな身体の線。
子供の僕には意味の分からないポーズ。
それなのに、その写真だけは妙に鮮明に頭へ焼きついた。
たぶん、僕の中にある強い好奇心と衝動は、あの時に少し形を持ってしまったのだと思う。
それ以来、そういうものに目を奪われるたび、どこかでこの部屋の薄暗さと、あの写真の女の人の顔が重なっていた。
本棚には、あの頃と同じように、古いビデオテープやDVDがぎっしり詰まっていた。
背表紙を見て、僕はすぐに目を逸らした。
叔母が僕に片付けを頼んだ理由が、少しだけ分かった。
いや、少しだけ、ではない。
かなり分かった。
親戚のおばさんがこの棚を開けて、知らない男優と知らない女優がやたら情熱的に絡み合っているパッケージと対面する光景を想像して、僕はそっと目を閉じた。
じいちゃん。
死んだあとに孫へ残す試練としては、方向性がだいぶ間違っている。
もちろん、声には出さなかった。
台所の方には叔母がいる。
こんな感想を聞かれたら、遺品整理どころか、僕自身の社会的な整理まで始まりかねない。
僕は咳払いをひとつして、何事もなかったように棚の中身へ目を戻した。
片付けを手伝うつもりで来たはずなのに、気づけば僕は、あの一冊を探していた。
子供の頃に開いてしまった写真集。
ページの中の女の人の顔も、身体の線も、もう細部までは覚えていない。
覚えていないはずなのに、忘れたと言い切ることもできなかった。
胸の奥に残っている熱だけが、今も妙に生々しい。
本棚の端から背表紙を追う。
古い映画のタイトル。
見慣れない英字。
色あせた写真集。
段ボール箱の蓋を開けると、湿った紙の匂いがふわりと上がった。
自分でも何をしているのかと思った。
祖父はもういない。
その部屋で、僕は遺品整理のふりをしながら、子供の頃に焼きついた欲望の残り香を探している。
そのとき、部屋の隅に置かれた古い金庫が目に入った。
黒ずんだ金属の扉。
重そうなダイヤル。
僕は、その金庫を見た瞬間、子供の頃の記憶を思い出した。
祖父は一度だけ、真剣な顔で番号を教えてくれたことがある。
「ワシに何かあったら、お前が開けろ」
『0724545』
意味の分からない数字だった。
子供の頃の僕は、祖父から託された大事な暗号みたいに、その数字を何度も口の中で繰り返した。
けれど、今なら意味が分かってしまう。
よりによって、なんて数字を孫に覚えさせていたんだ。
じいちゃん。
死後に発覚するタイプの最低さにも、限度というものがある。
祖父はもういない。
それでも、その最低な数字だけは、僕の中に妙にはっきり残っていた。
ダイヤルに指をかける。
古い金属が、かすかに冷たかった。
祖父に教えられた番号に合わせて、ダイヤルを右へ、左へ、また右へと回していく。
最後の数字で手を止めた瞬間、金庫の中で小さな音がした。
鍵が外れた音だった。
喉の奥が乾くのを感じながら、僕は取っ手に手をかけた。
金庫が開いた。
中には、札束が入っていた。
ざっと見ただけでも、五百万円はある。
「……嘘だろ」
僕は一瞬、頭の中で欲しかったものを並べてみた。
高くて手が出なかった美少女フィギュア。
限定版のゲーム。
いつか買おうと思って、ずっと通販サイトのカートに入れっぱなしになっている美少女ゲーム。
そして、やましい用途でしか使うつもりのないVRゴーグル。
そこまで考えて、僕は我に返った。
五百万円を前にして最初に浮かぶものがそれなのか。
自分で自分に少し引いた。
けれど、どれだけ俗っぽい欲望に換算してみても、五百万円という金額は現実味を持たなかった。
欲しかったものを全部買っても、まだ余る。
その事実の方が、かえって怖かった。
札束から目を離せないまま、僕は金庫の中をもう一度見た。
そこで、ようやく気づいた。
現金の上に、一通の茶封筒が置かれている。
まるで、こちらが金に目を奪われるのを待っていたみたいに。
表には、太い赤マジックでこう書かれていた。
『英知へ』
間違いなく、自分の名前だった。
背筋に、冷たいものが走った。
祖父は、こうなることを知っていたのだろうか。
僕はゆっくりと深呼吸し、封筒を破った。
中には、便せんと一枚の会員証が入っていた。
便せんには、お世辞にも綺麗とは言えない、祖父のものと思われる字が並んでいた。
震えたような線。
ところどころ潰れた文字。
『英知へ。ワシは長々と書くのが嫌いじゃ。じゃから、本題から入るぞい。
金庫の金は、すべてお前にやる。
親族と揉めた時は、弁護士の先生に遺言書を預けてある。
困ったら相談するのじゃ。
金は好きに使うといい。
学費でも、生活費でも、ゲームでも、何でも好きに使え。
ただし。
もし今の人生を退屈だと思っているなら、ワシからもうひとつプレゼントがある。
それが、ドリームチャレンジじゃ。
同封した会員証と、この金庫の五百万円を使って、ドリームチャレンジに参加するのじゃ。
内容は、ここでは話さん。
何事も、ネタバレされたらつまらんからのう。
参加するかどうかは、英知。お前自身が決めることじゃ。
ただ、これだけは言っておく。
ワシの孫なら、絶対に後悔しないはずじゃ。』
「……なんだよ、それ」
僕は便せんを握ったまま、しばらく動けなかった。
五百万円。
祖父からの手紙。
ドリームチャレンジ。
怪しいにもほどがある。
同封されていた会員証を手に取る。
カードは白銀に近い光沢を帯びており、表面には細かな装飾模様が施されていた。
中央には、金色の文字で大きく「DreamChallenge」と刻まれている。
その下には「MEMBER'S CARD」の文字。
右側には、長い髪の女性をかたどった黒いシルエットが描かれていた。
背景には淡い唐草模様が浮かび、四隅にも古めかしい装飾が入っている。
左下には、会員番号らしき数字が記されていた。
No. 07245451919。
キャバクラか、風俗店か。
それとも、もっと別の何かなのか。
妙に上品で、妙にいかがわしい。
安っぽい会員証ではない。
むしろ、見ているだけでこちらの現実感が少しずつ薄れていくような、不気味な高級感があった。
普通に考えれば、参加しない方がいい。
五百万円は大金だ。
祖父がくれると言うなら、もっと現実的な使い道はいくらでもある。
学費、生活費、貯金、旅行、機材、ゲーム。
少し考えれば欲しいものなんて山ほど出てくる。
けれど、祖父の手紙が頭から離れなかった。
後悔しないはずじゃ。
僕は、自分がどれだけ退屈していたのかを、そのとき初めてはっきり自覚したのかもしれない。
まともな話ではない。
そう分かっているのに、胸の奥が少しだけ騒いだ。
「……確認するしかない」
僕自身、とても賢明な判断をしているという自覚はない。
ただ、退屈だった日常に降って湧いたこの異物を、見なかったことにはできなかった。
僕は会員証の裏に記されていたメールアドレスへ、一通のメールを送った。
五百万円に関しては、本当なら叔母に確認すべきだった。
けれど、封筒に自分の名前が書かれていたことと、祖父の手紙の強さに押されて、僕はその判断を先延ばしにした。




