第99話 母を知っている人たちが、また母を作り始める
母を知らない人が、母を語る。
それは、腹が立つ。
けれど、母を知っている人が、母を語る。
それは、もっと厄介だった。
王都では、セレスティアの「条件付き保留」が広まった翌日から、今度はエレナの話が増え始めた。
最初は、小さな慰めのつもりだったのだろう。
「エレナ様は、本当にお優しい方でしたわ」
「セレスティア様のことも、それはそれは大切に思っていらしたのよ」
「病で思うように動けなかっただけで、心はずっと娘たちのそばにあったはずです」
「覚書にも、きっと愛が綴られているに違いありません」
その程度なら、まだ分かる。
だが噂は、すぐに形を変える。
「エレナ様なら、セレスティア様が読む日を待っていらっしゃるでしょうね」
「いいえ、むしろ無理に読ませることは望まれない方でしたわ」
「でも、娘なら母の最期の言葉を受け取るべきでは?」
「エレナ様はそんな義務を課す方ではありません」
「私は昔、エレナ様から聞きましたの。あの方は、セレスティア様に強くあってほしいと願っていたと」
「強く、ではなく、自由にではありませんか? あの方は縛られるのを嫌う方でしたもの」
誰かが母を守ろうとする。
誰かが母を美しくしようとする。
誰かが母を悲劇にする。
誰かが母を優しい人にする。
そして誰かが、母の名を使ってセレスティアへ読むことを勧める。
気づけば、エレナは王都の茶会の上で、何人にも増えていた。
優しい母。
病の母。
悲劇の母。
娘を愛した母。
娘を解放したかった母。
娘に強さを望んだ母。
娘に読まれることを願う母。
読まれないことも許す母。
それぞれが、エレナを語る。
まるで、皆が少しずつ違う肖像画を持ち寄って、一人の女性の顔を塗り直しているようだった。
王妃宮に、その噂の記録が届いたとき、リリアナは思わず顔をしかめた。
「今度は、お母様ですか」
エルンが紙束を机へ置く。
「はい。エレナ様に関する旧友、親族、元侍女、貴族夫人方の証言や発言が増えています」
「証言?」
「正式な証言ではありません。茶会発言、書面、私的手紙、女官経由の伝聞などです」
リリアナは頭を押さえた。
「混ざっていますね」
「かなり」
マルタは、いつものように落ち着いている。
けれど、その目は少し厳しかった。
「母君を語る者が増えれば、次はそれをセレスティア様へ届けようとする者が出ます」
「もう出ていますか」
「はい」
エルンが別の紙を読み上げた。
『エレナ様旧友数名より、セレスティア様へエレナ様の人柄を伝えたいとの意向』
『元侍女より、奥方様のご病状と娘君への愛情について証言したいとの申し出』
『親族筋より、覚書開封前にエレナ様の名誉を守るべきとの意見』
『一部では、セレスティア様が覚書を読まずに母を疑うことは不孝との声』
リリアナの指が机の上で止まった。
「不孝」
その言葉は、古い刃物のようだった。
錆びているのに、まだ切れる。
「お姉様は、まだ何も言っていません」
リリアナは低く言った。
「はい」
「読まないとも、疑っているとも、責めるとも言っていない」
「はい」
「それなのに、もう不孝ですか」
エルンは何も言えなかった。
マルタが静かに言う。
「母を守りたい人たちは、娘の沈黙を脅威と感じることがあります」
「なぜですか」
「母の像が、娘の言葉で崩れるかもしれないからです」
リリアナは、唇を噛んだ。
「お母様は、そんなに崩れやすいものなのでしょうか」
「人の記憶の中の故人は、案外崩れやすいものです」
「だから、固める?」
「はい。美談や証言や思い出で」
リリアナは、紙束を見た。
エレナを語る声。
母を守る声。
だが、その声が集まれば集まるほど、セレスティアはまた囲まれる。
読んでも、読まなくても、どちらでも責められる。
読んで母を責めれば不孝。
読まずに距離を置けば冷たい。
母の愛を受け取れば、父や自分たちを許す方向へ押される。
母の愛を疑えば、母を知らない娘だと言われる。
息苦しい。
リリアナは、自分の胸まで苦しくなった。
「王妃宮として整理します」
リリアナは白紙を出した。
最近、白紙を見ると、少し安心する。
何かを正しく書ける自信があるわけではない。
ただ、混ざったものをそのままにしないで済む。
『エレナ様に関する外部発言の扱い――暫定整理』
一、旧友、親族、侍女等の発言は、本人の証言ではなく、証言者の記憶である。
二、証言者の記憶は尊重するが、エレナ様本人の意思と同一視しない。
三、複数の証言がある場合、それぞれを統合して「真のエレナ様」を作らない。
四、証言を用いて、セレスティア様へ開封、読了、許し、和解を促さない。
五、故人の名誉保護を理由に、存命の者の沈黙や保留を責めない。
書き終えたあと、リリアナは少し考えた。
「六番を入れます」
彼女は、ペンを握り直した。
六、母を守ることと、娘を黙らせることを混同しない。
エルンがその一文を見て、息を呑んだ。
「強いですね」
「強いです」
リリアナは認めた。
「でも、弱く書くと伝わりません」
マルタが頷く。
「よろしい」
リリアナは、少しだけ驚いた。
「マルタ様がすぐに止めないのは珍しいです」
「今日は止める場所ではありません」
「そうですか」
「はい。むしろ、もう一文必要です」
「何でしょう」
マルタは静かに言った。
「エレナ様を語る権利は、セレスティア様の受け取り方を決める権利ではない」
リリアナは、しばらくマルタを見つめた。
それから、ゆっくりと書いた。
七、エレナ様を語る権利は、セレスティア様の受け取り方を決める権利ではない。
その一文を書いたとき、小会議室の空気が少し引き締まった。
エレナを知る人たち。
母を愛した人たち。
母に救われた人たち。
その人たちの記憶は、嘘ではない。
でも、それはセレスティアの痛みを決めるものではない。
北方辺境伯家に、エレナをめぐる発言の要約が届いたのは午後だった。
セレスティアは、ノアとともに読んだ。
最初は淡々としていた。
けれど、三枚目に入ったところで、彼女の指が止まった。
『エレナ様は、セレスティア様に強く生きることを望んでいらしたはず』
はず。
その二文字が、やけに重かった。
次の行。
『エレナ様ほど娘を愛した母はいない』
さらに次。
『セレスティア様が覚書を読まれないのは、母の愛を恐れているからではないか』
セレスティアは、そこで紙を置いた。
「……母が増えていきます」
ノアは、静かに彼女を見た。
「はい」
「私の知らない母が、いろんな人の口から出てきます」
「はい」
「優しい母。強さを望む母。読んでほしい母。読ませたくない母。愛していた母。悲劇の母」
「はい」
「どれも、少しずつ本当かもしれません」
「はい」
「でも、全部が母ではありません」
セレスティアの声は、震えていなかった。
ただ、低かった。
「証言は証言であり、本人ではありません」
ノアが言った。
セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。
「証言は証言であり、本人ではない」
「はい」
「では、母の覚書も?」
「それも、エレナ様の一部であって、全部ではないと思います」
セレスティアは、はっとした。
母の覚書。
それは、母本人の言葉だ。
少なくとも、他人の記憶よりは母に近い。
けれど、それでも全部ではない。
ある日の母。
ある状態の母。
書けた言葉の中の母。
そこに、書けなかったこともあるかもしれない。
書かなかったことも。
書けなかったほど醜い感情も。
逆に、書く必要がないほど当たり前だった愛も。
「私は、覚書を読めば母が分かると思っていたのかもしれません」
セレスティアは言った。
「はい」
「でも、覚書も母の一部」
「はい」
「怖いですね」
「はい」
「母を知ることが、どんどん難しくなります」
「もともと、人を知ることは難しいです」
「母でも?」
「母でも」
その答えが、少し冷たくて、少し優しかった。
母だから分かる。
母だから分からなければいけない。
母だから愛していたはず。
母だから許せるはず。
そういう言葉より、ずっとましだった。
セレスティアは帳面を開いた。
『母を知っている人たちが、母を語り始めた。
優しい母、悲劇の母、愛していた母、読んでほしい母、読ませたくない母。
母が増えていく。
どれも少しずつ本当かもしれない。でも、全部が母ではない。
証言は証言であり、本人ではない。
覚書も、母の一部であって全部ではない。
私は、母を知ることを急がなくていい』
書いている途中で、少しだけ手が止まった。
母を知ることを急がなくていい。
この一文は、怖かった。
母を早く理解したい。
理解して、楽になりたい。
母を愛していたと確認したい。
母も自分を愛していたと信じたい。
あるいは、母を責める理由を見つけたい。
どちらにしても、早く形にしたい。
でも、それを急ぐと、また誰かが作った母を受け取ってしまう。
セレスティアは、もう一行書いた。
『誰かの母を、私の母にしない』
書き終えると、胸が少し痛んだ。
「閣下」
「はい」
「母を語ってくださる方々を、拒むのは冷たいでしょうか」
「冷たい場合もあるかもしれません」
ノアは珍しく、すぐに否定しなかった。
セレスティアは少し驚いて彼を見る。
ノアは続けた。
「ですが、冷たさが必要な場合もあります」
「必要な冷たさ」
「はい。火傷しないために、熱い鍋から手を離すようなものです」
「それは冷たいというより、普通です」
「では、普通でよいのでは」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「閣下は、言葉の逃げ道を作るのが上手です」
「逃げ道ではなく、通路です」
「通路」
「はい。閉じ込められないための」
セレスティアは、その言葉を気に入った。
逃げ道ではなく、通路。
自分を閉じ込めないための道。
そのころ、レイノルド公爵邸にも、エレナをめぐる証言の申し出が相次いでいた。
グレゴールは、家令が整理した一覧を見ていた。
『エレナ様旧友、マリアンヌ侯爵夫人。面会または書面希望』
『元侍女リゼット。奥方様の晩年の様子について証言希望』
『親族筋、エレナ様名誉保護のため覚書開封前に公爵家見解を出すべきとの意見』
『ローヴェル伯爵夫人、故人への不敬を避けるため、覚書を早期に読ませるべきとの意見』
グレゴールは最後の行で顔をしかめた。
「早期に読ませるべき、か」
「はい」
「誰が誰に読ませるのだ」
「おそらく、公爵家がセレスティア様へ、という意味でしょう」
「却下だ」
即答だった。
家令は頷く。
「承知しました」
グレゴールは、一覧をもう一度見た。
エレナの名誉。
妻の名誉。
守りたい。
その気持ちは確かにある。
彼にとって、エレナは妻だった。
病に苦しみ、それでも娘たちを気にかけていた女性だった。
彼女の弱さも、優しさも、苛立ちも、諦めも、少なくとも一部は見ていた。
だが、それを公爵家がまとめればどうなる。
エレナはこういう人でした。
だから覚書も、そういう心で読んでください。
そんな枠を作ることになる。
それは、セレスティアにまた読み方を渡す行為ではないのか。
「私は、エレナを守りたい」
グレゴールは言った。
家令は黙って聞く。
「悪く語られたくない。誤解されたくない。病だけの人間にされたくない。娘を愛していなかった母にされたくない」
「はい」
「だが、そのために私がエレナの説明を出せば、セレスティアはそれを読まされる」
「可能性があります」
「そして、エレナをどう受け取るべきか、また私が枠を作る」
「はい」
グレゴールは、深く息を吐いた。
「却下だ」
「エレナ様に関する公爵家見解を、ですか」
「出さない。少なくとも、今は出さない」
「はい」
「証言の申し出は記録する。だが、セレスティアへは送らない。王妃宮にも、証言一覧の存在のみ共有。内容は本人に届けない」
「理由は」
「母を守るための証言が、娘を囲む壁になる危険がある」
家令は、その言葉を記録した。
グレゴールは続ける。
「それから、旧友や元侍女には返答を出す。証言の意向には感謝するが、現時点ではセレスティアへ送らない。証言は公爵家内に未使用資料として保管する。本人が求めた場合のみ、範囲を確認して扱う」
「承知しました」
家令は書き終え、ふと顔を上げた。
「旦那様」
「何だ」
「よく止まりました」
グレゴールは、しばらく家令を見た。
「それは褒めているのか」
「はい」
「……お前に褒められると、本当に不安になる」
「記録しますか」
「するな」
そう言いながら、グレゴールはわずかに笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「エレナを守ることも、難しいのだな」
「はい」
「死者は話せない。だから、皆が代わりに話したくなる」
「はい」
「私もだ」
「はい」
「だが、代わりに話しすぎると、死者もまた道具になる」
家令は、静かに頷いた。
「その発言は記録すべきかと」
「書け」
『グレゴール公爵発言:死者は話せないため、周囲が代わりに話したくなる。代わりに話しすぎると、死者もまた道具になる』
その記録は、後に王妃宮へ共有された。
リリアナはそれを読んで、しばらく黙った。
「父が、そんなことを」
「はい」
マルタが頷く。
「死者もまた道具になる……」
リリアナは、母の肖像画を思い出した。
美しい母。
優しい母。
病の母。
自分が泣くと、手を伸ばしてくれた母。
姉を見ると、少し申し訳なさそうに笑った母。
その全部を、自分も都合よく使っていなかったか。
母は病だったから。
母は優しかったから。
母は姉を愛していたから。
そう言えば、姉の痛みを少し薄められる気がしていなかったか。
「私も、お母様を使っていました」
リリアナは小さく言った。
マルタは否定しなかった。
「はい」
「お母様は悪くない。お母様は病だった。お母様はお姉様を愛していた。そう思うことで、私は少し安心していました」
「はい」
「でも、それはお姉様の痛みを減らす言葉ではありませんね」
「はい」
「むしろ、お姉様が母を責めにくくなる」
「そうですね」
リリアナは記録帳を開いた。
『私も母を使っていた。
母は病だった、母は優しかった、母は姉を愛していた。
それは私を安心させる言葉だった。
でも、姉が母をどう受け取るかを狭める言葉にもなる。
母を守ることと、姉を黙らせることを混ぜない』
書き終えると、目の奥が熱くなった。
でも、泣かなかった。
今日は泣くよりも、書く日だった。
夜、北方辺境伯家に各所の整理が届いた。
王妃宮の暫定整理。
公爵家がエレナに関する証言をセレスティアへ送らない方針を決めたこと。
グレゴールの発言。
『死者もまた道具になる』
リリアナの記録要約。
『母を守ることと、姉を黙らせることを混ぜない』
セレスティアは、それらをゆっくり読んだ。
途中で何度も手が止まった。
母のことは、どの角度から触れても痛い。
でも、今日の痛みは少し違った。
以前なら、母を語る人々の声に押し潰されていたかもしれない。
今は、その声を「証言」として机の上に置ける。
母そのものではなく、証言として。
「父は、証言を送らないことにしたのですね」
「はい」
「母を守りたいでしょうに」
「そうでしょうね」
「それでも、送らなかった」
「はい」
「少し……助かりました」
セレスティアは、自分でそう言ってから、胸に手を当てた。
助かった。
本当に。
母を知る人々の手紙が、もし束になって届いていたら。
読まなくても、存在だけで苦しくなっただろう。
読めば、母をどう受け取るべきか、また誰かの声が自分の中に入り込んだだろう。
父は、それを止めた。
遅すぎるかもしれない。
不完全かもしれない。
それでも、今回は止めた。
「閣下」
「はい」
「父が母を守るために、私へ証言を送ることもできたのに、送らなかった」
「はい」
「これは、変化です」
「はい」
「私は、その変化を認めます」
「はい」
「でも、父を許したわけではありません」
「はい」
「母をどう思うかも、まだ決めません」
「はい」
ノアの返事が、静かに積み重なる。
セレスティアは帳面を開いた。
『母を知る人たちが、母を作り始めた。
王妃宮は、証言は証言であり本人ではない、と整理した。
父は、母の名誉を守るための証言を私へ送らないことにした。
死者もまた道具になる、と父が言った。
リリアナは、母を守ることと姉を黙らせることを混ぜない、と記録した。
少し助かった。
母を語る声を、母そのものとして受け取らなくていい。
私はまだ、母をどう思うか決めない』
書き終えたあと、セレスティアは母の覚書の箱を見た。
箱は静かだった。
外では、母について多くの人が語っている。
でも、この箱は何も言わない。
急かさない。
弁明しない。
美化もしない。
ただ、閉じている。
セレスティアは、箱の横に新しい紙を置いた。
『誰かの母を、私の母にしない』
そして、もう一枚。
『証言は、母ではない』
その二枚を置いたとき、箱の周りの空気が少しだけ整った気がした。
母を知る人々の声は、これからも来るだろう。
優しさの形で。
善意の形で。
母を守るために。
娘を励ますために。
でも、セレスティアはその声すべてを、自分の胸に入れなくていい。
受け取る前に、机の上へ置いていい。
これは証言。
これは記憶。
これは願望。
これは美化。
これは不安。
そして、そのどれもが母の全部ではない。
灯りを落とす前に、セレスティアは小さく呟いた。
「お母様は、一人だったはずなのに」
王都では、何人もの母が生まれている。
だからこそ、セレスティアはまだ箱を開けない。
誰かが作った母たちが静かになるまで。
自分の中で、母を一人の人間として迎える準備ができるまで。
今夜も、箱は閉じたままだった。




