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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第100話 母の友人は、娘の涙を知らない

 マリアンヌ・ヴェルディ侯爵夫人は、エレナの親友だった。


 少なくとも、王都ではそう言われている。


 若い頃から茶会で隣り合い、舞踏会では互いの髪飾りを褒め合い、結婚後も季節の贈り物を欠かさなかった。


 エレナが病を得てからも、何度かレイノルド公爵邸を訪ねていたという。


 だから、彼女が「エレナ様のことをセレスティア様へお伝えしたい」と願い出たと聞いても、王都の人々は驚かなかった。


 むしろ、待っていた者さえいた。


「マリアンヌ様なら、本当のエレナ様をご存じですもの」


「セレスティア様も、母君の愛を知れば少し心が和らぐのでは」


「亡き方の親友からの言葉なら、拒むのも難しいでしょう」


「そういう言い方が、もう難しくしているのでは?」


 最後の一言は、若い令嬢のものだった。


 しかし、その声はすぐに年配の夫人たちの会話に飲み込まれた。


 母の親友。


 美しい響きだ。


 懐かしく、温かく、正しい場所から届く言葉のように聞こえる。


 けれど、温かい手ほど、断ると冷たい人間に見える。


 それが厄介だった。


 北方辺境伯家に、ヴェルディ侯爵家から正式な面会願いが届いたのは、午後のことだった。


 ノアはまず自分で文面を確認し、その後、セレスティアへ見せるかどうかを尋ねた。


「ヴェルディ侯爵夫人からです」


 セレスティアは、手元の本から顔を上げた。


「母のご友人ですね」


「はい」


「面会願いですか」


「そのようです」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


 マリアンヌ。


 その名は覚えている。


 母の部屋で、柔らかな薄紫の扇を持っていた女性。


 幼い頃、一度だけ菓子をもらったことがある。


 その菓子が甘すぎて、セレスティアは半分しか食べられなかった。


 母が笑っていた。


『セレスティアは、甘すぎるものが苦手なのね』


 その声を思い出した瞬間、胸の奥がふいに痛んだ。


 大きな記憶ではない。


 ただの菓子。


 ただの笑い声。


 けれど、そういう小さな記憶ほど、不意打ちで刺さる。


「読みます」


 セレスティアは言った。


「無理に今でなくても」


「いいえ。面会願いなら、早めに状態を決めた方がいいです。放っておくと、向こうで意味が増えます」


「確かに」


 ノアは文書を渡した。


 セレスティアは、ゆっくり目を通した。


『亡きエレナ様と長年親しくさせていただいた者として、セレスティア様へ一言だけでもお伝えしたく存じます。

 エレナ様がどれほどセレスティア様を愛しておられたか。

 どれほど、あなた様の幸せを願っておられたか。

 覚書を読まれるかどうかは、もちろんセレスティア様のご判断でございます。

 ただ、どうかエレナ様を誤解なさらないでくださいませ。』


 どうかエレナ様を誤解なさらないでくださいませ。


 その一文で、セレスティアの指が止まった。


 母を誤解する。


 まだ読んでいない。


 まだ何も言っていない。


 それなのに、もう誤解するかもしれない者として見られている。


 セレスティアは、文書を机へ置いた。


「会いません」


 返答は早かった。


 ノアは頷く。


「はい」


「今、会えば、私は夫人の記憶を母の顔に貼ってしまいます」


「はい」


「それに……」


 セレスティアは、文書の最後の一文を見た。


「誤解しないで、と言われると、私の受け取り方がもう決められているように感じます」


「はい」


「母を悪く思わないで、という意味でしょう」


「おそらく」


「夫人には、そのつもりはないのかもしれません」


「はい」


「でも、私にはそう届きました」


 ノアは、それを否定しなかった。


 セレスティアは、少しだけ息を整えた。


「返答は、面会不可。書面も今は不要。ヴェルディ侯爵夫人の記憶は尊重するが、現時点で受領しない」


「そのまま書きますか」


「はい。冷たいでしょうか」


「必要な冷たさです」


「また、熱い鍋ですね」


「はい」


 セレスティアは少しだけ笑った。


 だが、その笑いはすぐに消えた。


「ただ……」


「はい」


「夫人に悪意はないのだと思います」


「そうでしょうね」


「だから、つらいです」


「はい」


 悪意があれば、拒みやすい。


 けれど善意は、拒む側を悪者にする。


 母を愛していた人。

 母の幸せを願ってくれた人。

 母の思い出を大切にしている人。


 その人の手を払うことは、母の一部を払うことのように感じてしまう。


 それでも、今は受け取れない。


 セレスティアは返答文を書いた。


『ヴェルディ侯爵夫人のご記憶とお気持ちに感謝いたします。

 現時点で、セレスティアは面会およびエレナ様に関する私的証言の受領を保留いたします。

 これはヴェルディ侯爵夫人のご記憶を否定するものではありません。

 ただし、エレナ様覚書の開封・読了・解釈に先立ち、第三者の記憶を受け取ることは控えます。

 回答不要』


 書き終えたあと、セレスティアはしばらく文面を見ていた。


「第三者、という言い方は失礼でしょうか」


「正確です」


「母の親友でも?」


「あなたとエレナ様の間においては、第三者です」


 セレスティアは、小さく頷いた。


 その返答は、すぐに送られた。


 これで終わればよかった。


 だが、終わらなかった。


 翌日、ヴェルディ侯爵夫人から、今度は短い書面が届いた。


 面会願いではない。


 証言でもない。


 ただ、一文だけ。


『エレナ様は、あなたを愛しておられました。これだけは、どうか覚えていてくださいませ。』


 その一文は、丁寧な封筒に入っていた。


 押し花が添えられていた。


 薄紫の小さな花。


 セレスティアは、封筒を見た瞬間に分かった。


 マリアンヌ夫人の扇と同じ色だ。


 ノアは、書面を開く前に言った。


「読まずに保管することもできます」


「いえ」


 セレスティアは、花を見つめたまま言った。


「一文だけなら、読みます」


 それは失敗だったのかもしれない。


 あるいは、必要な痛みだったのかもしれない。


 セレスティアは紙を開き、一文を読んだ。


 エレナ様は、あなたを愛しておられました。


 これだけは、どうか覚えていてくださいませ。


 文字は美しかった。


 震えもなく、乱れもない。


 マリアンヌ夫人は、きっと祈るような気持ちで書いたのだろう。


 それは分かる。


 分かるから、苦しかった。


 セレスティアは、紙を置いた。


 しばらく、何も言わなかった。


 ノアも何も言わない。


 部屋の中の音が、遠くなる。


 愛していた。


 母は、自分を愛していた。


 きっと、そうなのだろう。


 セレスティアにも、母の優しい記憶はある。


 髪を撫でられたこと。

 熱を出した夜、冷たい布を額に置いてくれたこと。

 刺繍の端を褒めてくれたこと。

 甘すぎる菓子を残した自分を笑ったこと。


 母は、愛していたのだろう。


 でも。


「愛していたなら」


 セレスティアは、声を出した。


 その声は、自分でも驚くほど乾いていた。


「なぜ、助けてくれなかったのでしょう」


 ノアは黙っていた。


「愛していたなら、なぜ私が十三歳で休息のない予定表を持っていたことを止めてくれなかったのでしょう」


「はい」


「愛していたなら、なぜリリアナの夜泣きのあと、私が書類を整えていたことを知らなかったのでしょう」


「はい」


「愛していたなら、なぜ私が母の寝室前で来客をさばいていたことを、当然のようにしていたのでしょう」


「はい」


「愛していたなら……」


 そこで声が詰まった。


 涙は出ない。


 まだ出ない。


 ただ、胸の奥で何かが硬く割れるような感じがした。


「愛していた、だけでは、足りませんでした」


 言った瞬間、セレスティアは目を閉じた。


 言ってしまった。


 母に向かって。


 母を愛していた人から届いた言葉に向かって。


 愛していた、だけでは足りなかった。


 それは、冷たい言葉かもしれない。


 残酷かもしれない。


 でも、本当だった。


 ノアは、静かに言った。


「はい」


 その一音で、セレスティアの肩が少し震えた。


 否定されなかった。


 責められなかった。


 母を悪く言うなとも言われなかった。


 それが、かえって胸に来た。


「閣下」


「はい」


「私は、ひどい娘でしょうか」


「いいえ」


「母は病だったのです」


「はい」


「母にも、できないことがあった」


「はい」


「父が見ていなかった。王妃宮が見ていなかった。周囲が母に頼りすぎた。母だけの責任ではない」


「はい」


「それでも、私は母に対して、助けてほしかったと思っています」


「はい」


「これは、矛盾ですか」


「矛盾ではなく、両方です」


「両方」


「エレナ様に事情があったことと、あなたが助けてほしかったことは、同時に存在します」


 セレスティアは、目を開けた。


 同時に存在する。


 それが、最近いちばん難しい。


 誰かの事情と、自分の痛み。


 誰かの愛と、自分の孤独。


 誰かの善意と、自分に届いた傷。


 どちらか一つにできれば楽なのに、できない。


「夫人は、母の涙を知っているのでしょうね」


 セレスティアは言った。


「おそらく」


「病で苦しむ母。娘を案じる母。何もできない自分を責める母」


「はい」


「でも、私の夜は知らない」


「はい」


「私が廊下で、誰にも見えないところで泣かなかった夜を知らない」


 泣かなかった夜。


 その言葉は、妙に正確だった。


 泣いた夜ではない。


 泣けなかった夜。


 泣いている暇がなかった夜。


 泣けば目が腫れて翌朝困るから、泣かなかった夜。


 セレスティアは、手元の紙を見た。


 エレナ様は、あなたを愛しておられました。


 愛。


 それは、嘘ではないのだろう。


 でも、嘘ではないからこそ、余計に苦しい。


 愛していたなら、なぜ。


 その問いは、残る。


 セレスティアは帳面を開いた。


『ヴェルディ侯爵夫人より、母は私を愛していたと一文が届いた。

 母が私を愛していたことは、たぶん本当。

 でも、愛していたなら、なぜ助けてくれなかったのか、と思った。

 母には事情があった。病だった。できないことがあった。

 それでも、私は助けてほしかった。

 愛していたことと、守れたことは別。

 母の友人は母の涙を知っていても、私の夜を知らない』


 最後の一文を書いたとき、ペン先が少し紙に沈んだ。


 強く押しすぎていた。


 セレスティアは、息を吐く。


「この書面には、返答しません」


「はい」


「受け取ったことも、返しません」


「はい」


「夫人の善意を否定したいわけではありません。でも、今返答すると、私はきっと“ありがとうございます”と書いてしまいます」


「はい」


「それは違います」


「はい」


「ありがとうございます、と書いた瞬間、私は母の愛を受け入れた娘の役割に戻りそうです」


「なら、返答しない方がよいです」


 セレスティアは頷いた。


「状態区分にします」


 彼女は別紙に書いた。


『ヴェルディ侯爵夫人書面。

 受領済。

 内容確認済。

 返答保留。

 追加受領不可。

 母に関する第三者証言の受領停止を継続』


 その文面は、北方辺境伯家内部記録として保管された。


 だが、王妃宮へは要約だけが共有された。


 リリアナは、それを読んだ。


『エレナ様は、あなたを愛しておられました』


 その一文を見た瞬間、リリアナの胸にも痛みが走った。


「……言いたくなります」


 彼女は小さく言った。


 マルタが向かいにいる。


「何をですか」


「お姉様に。お母様は愛していました、と」


「はい」


「私も言いたかった。何度も。お姉様、お母様はお姉様を愛していました。だから、そんなに苦しまないで、と」


「はい」


「でも、それは……」


 リリアナは言葉を探した。


「お姉様の苦しみを軽くしたかったのではなく、私が苦しみに耐えられなかったのかもしれません」


 マルタは静かに頷く。


「その可能性はあります」


「母が姉を愛していたと信じれば、私も少し楽になります。私たちの家は、完全に壊れていたわけではないと思えるから」


「はい」


「でも、お姉様にとっては、愛していたならなぜ、という問いが残る」


「はい」


 リリアナは、両手を握った。


「愛していたことと、守れたことは別」


 その言葉を、自分で口にする。


 重い。


 とても重い。


「王妃宮で、これを整理すべきです」


 リリアナは言った。


「はい」


「愛情、善意、敬意。そういう言葉が、傷ついた事実を消すように使われていることがあります」


「あります」


「次の基準にします」


 マルタは少しだけ目を細めた。


「急ぎすぎないように」


「はい。今日は、まず記録だけ」


 リリアナは帳面を開いた。


『ヴェルディ侯爵夫人が、母は姉を愛していたと伝えた。

 私も言いたかった言葉。

 でも、姉にとっては、愛していたならなぜ助けてくれなかったのか、という問いが残る。

 愛していたことと、守れたことは別。

 私は、母の愛を使って姉の痛みを軽くしようとしていなかったか。

 それは姉のためではなく、私が耐えられなかったからではないか』


 書いている途中で、涙が落ちた。


 でも、リリアナは手を止めなかった。


 インクが少し滲んだ。


 その滲みも、今日はそのままにした。


 同じ頃、レイノルド公爵邸でも、ヴェルディ侯爵夫人の書面は問題になっていた。


 グレゴールは、夫人から公爵家にも届いた写しを見て、重い息を吐いた。


『エレナ様は、あなたを愛しておられました』


 その言葉は、彼にも刺さった。


 エレナは、セレスティアを愛していた。


 それは信じたい。


 いや、信じている。


 だが、その言葉をセレスティアへ届けることが、今の娘を救うとは限らない。


 家令は、向かいで静かに待っていた。


「私は、この言葉にすがりたい」


 グレゴールは言った。


「はい」


「エレナはセレスティアを愛していた。だから、家は完全に間違っていたわけではない。そう思いたい」


「はい」


「だが、それは私の救いだ」


「はい」


「セレスティアの救いかどうかは、分からない」


「その通りです」


 グレゴールは苦々しく笑った。


「お前は本当に、慰めないな」


「慰めが必要ですか」


「必要だと言いたいが、今は邪魔だ」


「では、控えます」


「最初から控えているだろう」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは書面を机へ置いた。


「ヴェルディ夫人へ返答を出す。今後、セレスティアへの直接書面は控えるよう、公爵家からも申し入れる」


「文面は」


「夫人の記憶と友情には感謝する。だが、エレナの愛を証明する言葉が、セレスティアの受け取り方を決めるものになってはならない。今後の書面は公爵家で一度受け、本人へは送らない」


「承知しました」


 家令は記録し、ふと尋ねた。


「旦那様ご自身は、エレナ様がセレスティア様を愛していたと、いつか伝えたいと思われますか」


 グレゴールは目を閉じた。


「思う」


「はい」


「だが、それも今は送らない」


「理由は」


「私が言えば、セレスティアは“父が母を守ろうとしている”と受け取るだろう。実際、その通りだ」


「はい」


「そして私は、エレナを守ることで自分も守ろうとしている」


「はい」


「書け」


 家令は書いた。


『グレゴール公爵発言:エレナ様の愛を伝えたい欲求あり。ただし、妻を守ることで自身を守ろうとする要素あり。送付不可』


 グレゴールは、その記録を見て、深く息を吐いた。


「送付不可ばかりだな」


「送付すべきでないものが多かった、ということかと」


「耳が痛い」


「記録しますか」


「するな」


 夜、北方辺境伯家に王妃宮と公爵家の整理が届いた。


 セレスティアは、どちらも読んだ。


 リリアナの記録要約。


 父の記録要約。


 どちらにも、同じ言葉があった。


 愛していたことと、守れたことは別。


 セレスティアは、長くその一文を見つめた。


「広がりましたね」


 ノアが言う。


「はい」


「苦しいですか」


「はい」


「なぜ?」


「私が言った言葉が、皆に扱われているから」


「はい」


「でも、必要な気もします」


「はい」


「この言葉は、母だけではなく、父にも、リリアナにも、アデル殿下にも、王宮にも刺さるのでしょうね」


「刺さるでしょう」


「私にも刺さっています」


「はい」


 セレスティアは、帳面を開いた。


『愛していたことと、守れたことは別。

 この言葉が、王妃宮と公爵家にも渡った。

 苦しい。けれど、必要かもしれない。

 母を責めたいわけではない。

 ただ、母の愛を理由に、私の夜をなかったことにされたくない。

 母の友人は、母の涙を知っていた。

 私は、私の夜を知っている。

 どちらも消さない』


 書き終えたあと、セレスティアはヴェルディ侯爵夫人の押し花を見た。


 薄紫の花。


 捨てる気にはなれなかった。


 飾る気にもなれなかった。


 彼女は、小さな封筒に戻し、箱の横ではなく、別の引き出しへ入れた。


 母の覚書とは混ぜない。


 母の友人の記憶とも混ぜない。


 それぞれ、別の場所へ置く。


「閣下」


「はい」


「私は、母の愛を否定したいわけではありません」


「はい」


「でも、母の愛で自分の痛みを覆われるのは嫌です」


「はい」


「この二つを、同時に持っていていいのですね」


「もちろんです」


 セレスティアは、静かに頷いた。


 その夜、箱は開かなかった。


 だが、箱の周りに新しい紙が置かれた。


『愛していたことと、守れたことは別』


 そして、もう一枚。


『母の涙と、私の夜を混ぜない』


 灯りを落とす前に、セレスティアはその二枚を見た。


 母の友人は、母の涙を知っていた。


 それは大切な記憶なのだろう。


 でも、その友人は、娘の涙を知らない。


 いや。


 娘が泣けなかった夜を知らない。


 だから、その言葉を全部胸に入れなくていい。


 セレスティアは静かに灯りを消した。


 部屋の中に、閉じた箱と、閉じた引き出しと、閉じたままでも存在してよい記憶が残った。

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