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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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101/110

第101話 愛していた、だけでは足りなかった

 王妃宮の小会議室に、その言葉が置かれたのは、朝の祈りが終わって間もなくのことだった。


『愛していたことと、守れたことは別』


 最初に紙へ書いたのは、エルンだった。


 リリアナの記録から拾い、王妃宮の共有文として扱うべきかどうかを確認するため、仮紙に写したのである。


 だが、書かれた瞬間、その一文は妙な重さを持った。


 誰もすぐには喋らなかった。


 机の上に置かれた短い紙。


 たった一行。


 なのに、まるで部屋の中央に大きな石が置かれたようだった。


 リリアナは、その文字を見つめていた。


 愛していたことと、守れたことは別。


 昨日までは、姉の言葉として受け止めていた。


 けれど朝になり、王妃宮の文書として目の前に置かれると、急に自分自身へ向けられた刃のように見えた。


 お姉様を慕っていた。


 お姉様が好きだった。


 お姉様に甘えたかった。


 お姉様に見てほしかった。


 それは、嘘ではない。


 でも、その気持ちは姉を守ったか。


 答えは、もう分かっている。


「……私は、お姉様を好きでした」


 リリアナはぽつりと言った。


 エルンが顔を上げる。


 マルタは何も言わない。


「子どもの頃から、ずっと。お姉様が部屋に来てくださると安心しました。お姉様が笑ってくださると、自分が許されたような気がしました。お姉様が隣にいてくだされば、お父様の前でも、王妃宮でも、怖くなかった」


 言葉にするほど、自分の幼さが見えてくる。


 それでも、止めなかった。


「でも、私はお姉様を守っていません」


 小さな声だった。


「好きだったのに」


 その言葉のあと、喉が詰まった。


 泣きたい。


 泣けば、少し楽になるかもしれない。


 けれど、今日は泣く前に見なければならない気がした。


 マルタが静かに問いかける。


「リリアナ様にとって、好きだったことは、これまで何の役割を持っていましたか」


「役割……」


「はい」


 リリアナは考えた。


 好きだったこと。


 姉を慕っていたこと。


 それは、自分を少し無罪にしてくれるものだった。


 悪意ではなかった。

 姉を嫌っていたわけではない。

 奪いたかったわけではない。

 ただ、怖くて、寂しくて、甘えたかっただけ。


 そう言える。


 そう言えば、自分が完全な加害者ではないように感じられる。


「私を守る役割です」


 リリアナは言った。


 言ってから、胸がずしりと重くなった。


「お姉様を好きだった、という事実を使って、私は自分を守っていました。悪意ではなかった、と」


 マルタは頷いた。


「はい」


「でも、それはお姉様を守った事実にはなりません」


「はい」


「好きだったなら、なぜ助けなかったのか。お姉様にそう思われても、仕方ありません」


「仕方ない、というより、自然な問いでしょう」


「はい」


 リリアナは、記録帳を開いた。


 まだ王妃宮の公式文ではない。


 まず、自分のために書く。


『私は姉を好きだった。

 慕っていた。安心したかった。許されたかった。

 でも、好きだったことは、姉を守ったことにはならない。

 好きだった、悪意ではなかった、という言葉を、自分を守る盾にしない。

 姉を慕っていたことと、姉に負担をかけなかったことは別』


 書き終えたとき、手が少し震えていた。


 マルタは、それを見てから言った。


「今日、王妃宮で議題にしましょう」


「はい」


「ただし、エレナ様の件だけではなく、広く扱います」


「愛情、敬意、善意、でしょうか」


「はい」


 エルンがすぐに白紙を用意した。


 最近の王妃宮では、誰かが何かを言うと、すぐ白紙が出てくる。


 それを見て、リリアナは少しだけ苦笑した。


「王妃宮、紙の消費量が増えましたね」


 エルンが真顔で答える。


「以前は人の時間を使っていました。今は紙を使っています」


 リリアナは一瞬黙ったあと、思わず笑った。


「それ、壁に貼りますか」


「やめてください。会計係に怒られます」


 マルタが淡々と口を挟む。


「紙の消費量は記録してください」


「はい」


 妙に現実的なやり取りで、重かった部屋の空気が少しだけ動いた。


 けれど、議題の重さは消えない。


 リリアナは改めて白紙へ向かった。


『愛情・敬意・善意と結果の区分――暫定版一』


 一、愛情があったことは、相手を守れたことを意味しない。

 二、敬意があったことは、相手の負担を見ていたことを意味しない。

 三、善意があったことは、結果として傷つけなかったことを意味しない。

 四、悪意がなかったことは、責任がないことを意味しない。

 五、相手を大切に思っていたという説明を、相手の痛みを軽く扱うために使わない。

 六、感情の有無と、行動の結果を分けて記録する。


 書きながら、リリアナは何度も胸の奥が痛くなった。


 愛情。


 敬意。


 善意。


 どれも、悪い言葉ではない。


 むしろ、美しい言葉だ。


 だが、美しい言葉は、時々、傷の上に掛けられる布になる。


 布そのものは柔らかい。


 けれど、下の傷が治ったわけではない。


 マルタが文面を読み、頷いた。


「よろしいと思います。ただ、七番を足しましょう」


「何を?」


「愛情や善意を示すなら、過去の説明ではなく、現在の行動で示すこと」


 リリアナは目を伏せた。


 現在の行動。


 今、何をするか。


 それが最も苦しく、最も必要なところだ。


 彼女は書いた。


 七、愛情・敬意・善意を示す場合、過去にそう思っていた説明ではなく、現在相手の境界を守る行動で示す。


 その一文を書き終えたとき、リリアナは静かに息を吐いた。


「現在の行動」


「はい」


「私は今、お姉様の境界を守ることでしか、姉を好きだったことを示せないのですね」


「示すため、というより、そうするしかありません」


「見返りは」


「求めません」


「はい」


 リリアナは、少しだけ苦笑した。


「厳しいですね」


「愛情という言葉は、便利すぎますので」


「便利すぎるものには、基準が必要」


「その通りです」


 王妃宮の補足は、その日の午後にまとめられた。


 だが、出す前にマルタは言った。


「これは、王太子府にも刺さります」


 リリアナは頷いた。


「はい」


「公爵家にも」


「はい」


「王妃宮にも」


「はい」


「あなたにも」


「いちばん刺さっています」


 リリアナがそう答えると、マルタは少しだけ表情を緩めた。


「なら、出せます」


 王妃宮からの共有文は、すぐに王太子府へ届いた。


 アデルは、執務机でそれを読んだ。


『愛情・敬意・善意と結果の区分』


 その題名を見た瞬間、彼はすでに嫌な予感がしていた。


 読み進める。


『敬意があったことは、相手の負担を見ていたことを意味しない』


 ここで、手が止まった。


 エドが向かいで控えている。


 ラウルも同席していた。


 アデルは紙を置き、額に手を当てた。


「痛いな」


 エドが静かに答える。


「はい」


「お前は痛くなさそうだ」


「痛いです」


「顔に出ないだけか」


「職務です」


 アデルは少し笑いかけたが、すぐに消えた。


 敬意があった。


 セレスティアを軽んじていたつもりはない。


 むしろ、優秀だと思っていた。


 頼れると思っていた。


 王太子妃候補として申し分ないと考えていた。


 敬意。


 その言葉を使えば、当時の自分は少しだけ救われる。


 だが、その敬意は何をした。


 彼女の負担を減らしたか。


 非公式依頼を止めたか。


 彼女の時間を確認したか。


 候補者としての範囲を定めたか。


 何もしていない。


「私は、彼女に敬意があった」


 アデルは言った。


 エドは筆を構えた。


「はい」


「だが、それは彼女の負担を見ていたことにはならない」


「はい」


「敬意という名で、見えているつもりになっていた」


「記録します」


「ああ」


 エドは書く。


『アデル殿下発言:セレスティア様への敬意はあった。しかし、その敬意は負担把握や保護行動を伴っていなかった。敬意という名で、見えているつもりになっていた可能性あり』


 ラウルが苦い顔をした。


「殿下、そこまで書かせますか」


「書かせる」


「王太子府の記録としては、かなり」


「かなり何だ」


「……厳しいです」


「厳しくなかった結果が、今の検証だ」


 ラウルは黙った。


 アデルは、王妃宮の文書へ目を戻した。


『悪意がなかったことは、責任がないことを意味しない』


 この一文も痛い。


 王太子府に悪意はなかった。


 たぶん、本当に。


 誰かを壊そうとしたわけではない。


 ただ、便利だった。


 彼女ならできる。

 彼女なら分かる。

 彼女なら整える。


 そうして、悪意のない仕事が積まれていった。


 悪意のない紙片。


 悪意のない依頼。


 悪意のない期待。


 悪意がないからこそ、誰も止まらなかった。


「エド」


「はい」


「王太子府の検証報告書に、愛情、敬意、善意、悪意なし、という弁明分類を作る」


「弁明分類ですか」


「それらの言葉が出た場合、その横に具体的行動と結果を書く」


 エドの目が少しだけ鋭くなった。


「例としては」


「“敬意があった”――具体的行動なし。負担確認記録なし。非公式依頼停止なし」


「はい」


「“悪意はなかった”――非公式依頼累積あり。休息確認なし。責任者不明」


「はい」


「“大切な候補者だった”――候補者実務区分なし。報酬なし。拒否権明示なし」


 エドは筆を走らせた。


 ラウルは、少し苦しそうに言った。


「それでは、王太子府の弁明がほとんど弁明になりません」


「そうだ」


 アデルは即答した。


「弁明にならないものを、弁明に使ってきた」


 その言葉も、エドは記録した。


 王太子府の空気は重かった。


 だが、その重さは以前の停滞とは違う。


 見ないための沈黙ではなく、見たあとにどう扱うかを考える沈黙だった。


 一方、レイノルド公爵邸では、グレゴールが同じ文書を前に、じっと黙っていた。


 家令は、少し離れた場所に立っている。


『愛情があったことは、相手を守れたことを意味しない』


 グレゴールは、その一文を何度も読んだ。


 エレナは、セレスティアを愛していた。


 自分も、娘を愛していなかったわけではない。


 父として誇りに思っていた。


 優秀な娘だと思っていた。


 家のために頼りにしていた。


 それを、愛情と呼べるのかどうかは分からない。


 だが、少なくとも憎んではいなかった。


 しかし、憎んでいなかったから何だというのか。


 守れなかった。


 見なかった。


 負わせた。


 それが残る。


「家令」


「はい」


「私は、セレスティアを愛していたと思うか」


 家令は、すぐに答えなかった。


 グレゴールは苦笑した。


「即答しないのか」


「難しい問いですので」


「そうか」


「旦那様の中に、娘への愛情がなかったとは思いません」


「では」


「ですが、それがセレスティア様を守る行動として十分に表れていたかと問われれば、否です」


 グレゴールは、目を閉じた。


 分かっていた。


 分かっていたが、言われるとやはり痛い。


「否、か」


「はい」


「私は、愛していたつもりだった」


「はい」


「だが、守れなかった」


「はい」


「それを書け」


 家令は記録した。


『グレゴール公爵発言:セレスティア様への愛情がなかったとは思わない。ただし、守る行動として十分に表れていなかった。愛していたつもりと、守れなかった事実を分ける』


 グレゴールは、その記録を見て、深く息を吐いた。


「私は今まで、“つもり”で家を保っていたのかもしれん」


「その可能性はあります」


「愛しているつもり。見ているつもり。任せているつもり。信じているつもり」


「はい」


「実際は?」


「見ていなかった記録があります」


「容赦がない」


「必要ですので」


 グレゴールは、苦々しく笑った。


「では、今の行動で示すしかないな」


「はい」


「今の行動とは?」


「催促しない。証言を送らない。謝罪文を送らない。内部記録を整える。外部圧力を遮断する」


「すべて、しないことばかりだな」


「今は、しないことが守る行動になる場合が多いかと」


 グレゴールは、その言葉に少し驚いた顔をした。


「しないことが、守る行動」


「はい」


「私は、何かをすることで父親らしくあろうとしていた」


「はい」


「だが、今はしない」


「はい」


「難しいな」


「はい」


 家令の返事は短い。


 グレゴールは、しばらく黙ったあと、小さく頷いた。


「では、今日も何も送らない」


「承知しました」


「だが、内部では動く。十三歳の予定表、姉妹教育記録、エレナの病中対応、来客処理、全部の事実整理を続ける」


「はい」


「愛していたと言う前に、見なかったものを見る」


「記録します」


「ああ」


 その日の夕方、王妃宮では、愛情と結果の区分について小さな意見交換が行われた。


 参加したのは、女官数名、若い令嬢数名、慈善会担当者、そしてリリアナ。


 テーマが重いため、マルタは最初に釘を刺した。


「本日の議題は、誰かの愛情を裁くことではありません」


 全員が静かに頷く。


「愛情、敬意、善意が存在した場合でも、結果や責任を確認する必要がある、という整理です。誰かを悪人にするためではありません。美しい言葉で、事実を見失わないためです」


 若い令嬢の一人が、恐る恐る手を上げた。


「あの……では、相手が本当に善意だった場合でも、傷ついたと言ってよいのでしょうか」


 リリアナは、その質問を聞いて胸が痛んだ。


 王宮には、この問いを飲み込んできた人がどれほどいるのだろう。


 善意だから。


 悪気はなかったから。


 あなたのためを思って。


 家のために。


 将来のために。


 そう言われると、傷ついた側は自分の痛みを引っ込めてしまう。


 リリアナは、ゆっくり答えた。


「言ってよいと思います」


 令嬢は、驚いたように目を上げた。


 リリアナは続ける。


「ただし、言い方や場は選ぶ必要があるかもしれません。でも、善意だったから傷つかなかったことにはなりません」


「相手を責めることになりませんか」


「傷ついた事実を言うことと、相手の人格を否定することは別です」


 また、別。


 もうこの王妃宮は「別」で壁ができそうだ、とリリアナは少しだけ思った。


 けれど、今は必要な言葉だった。


 別の令嬢が、小さく言った。


「私は、婚約者から“君を尊敬しているから、家の帳簿も見てほしい”と言われ続けていました」


 部屋の空気が変わった。


 令嬢は、手元を見つめながら続ける。


「尊敬している、と言われると断れなくて。でも、実際は彼の家の帳簿の不備を私が直していて……疲れたと言うと、“君ほど優秀な人にしか頼めない”と」


 リリアナは、息を呑んだ。


 セレスティアと同じ構造だ。


 場所が違うだけで、同じことが起きている。


 尊敬。


 優秀。


 頼れる。


 美しい言葉で、人の時間が使われる。


 マルタが静かに言った。


「その場合、尊敬の有無と、実務負担の有無を分けて記録できます」


 令嬢が顔を上げる。


「記録……してよいのですか」


「はい。何を頼まれたか。どれくらい時間がかかったか。断る権利があったか。相手の言葉は何だったか」


「でも、婚約者を悪者にするようで」


 リリアナが答えた。


「悪者にするためではなく、自分の時間を見失わないためです」


 令嬢は、唇を震わせた。


「自分の時間……」


「はい」


 その言葉は、部屋の中で静かに広がった。


 愛情も、敬意も、善意も。


 それらは大切かもしれない。


 でも、人の時間を消してよい理由にはならない。


 北方辺境伯家に、王妃宮の議事要約が届いたのは夜だった。


 セレスティアは、ノアとともに読んだ。


 リリアナが自分の「姉を好きだった」という感情を整理したこと。


 王太子府でアデルが「敬意があったが、負担把握を伴っていなかった」と記録させたこと。


 公爵家でグレゴールが「愛していたつもりと、守れなかった事実を分ける」と記録したこと。


 若い令嬢が、尊敬という言葉で帳簿仕事を背負わされていたこと。


 セレスティアは、最後の件で長く手を止めた。


「私だけではないのですね」


 ノアは頷いた。


「はい」


「優秀だから。尊敬しているから。頼れるから」


「はい」


「その言葉で、仕事が渡される」


「はい」


「……嫌ですね」


「はい」


 セレスティアは、素直にそう言った。


 嫌だ。


 その短い言葉が、今日は正しかった。


「でも、その令嬢は記録できるかもしれないのですね」


「はい」


「なら、少しだけよかったです」


「はい」


 セレスティアは、報告書を読み進めた。


 父の記録。


『愛していたつもりと、守れなかった事実を分ける』


 その一文で、胸が少し痛んだ。


 父が、愛していたつもりと言った。


 守れなかった事実も認めた。


 セレスティアは、その文字をじっと見つめた。


 何とも言えなかった。


 救われた、とは違う。


 許せた、でもない。


 ただ、少しだけ、父が言い訳の布を一枚外したように感じた。


「閣下」


「はい」


「父が、愛していたつもり、と言いました」


「はい」


「つもり、という言葉は逃げにも見えます」


「はい」


「でも、守れなかった事実と分ける、とも言っています」


「はい」


「……これは、前進なのでしょうか」


「私は、そう思います」


「私も、少しだけそう思います」


 セレスティアは、帳面を開いた。


『王妃宮が、愛情・敬意・善意と結果の区分を作った。

 リリアナは、私を好きだったことと私を守ったことは別だと記録した。

 アデル殿下は、敬意があったが負担を見ていなかったと記録した。

 父は、愛していたつもりと守れなかった事実を分けると記録した。

 若い令嬢が、尊敬という言葉で帳簿仕事を背負わされていた。

 美しい言葉は、ときどき人の時間を消す。

 愛していた、だけでは足りなかった。

 でも、愛していなかったことにもならない。

 ここが、いちばん苦しい』


 書き終えたあと、セレスティアは目を閉じた。


 愛していた、だけでは足りなかった。


 それは母にも、父にも、リリアナにも、アデルにも向かう言葉だった。


 そして、自分にも向かう。


 自分も、誰かを大切に思っていたつもりで、見えていなかったことがあるかもしれない。


 そう考えると、少し怖い。


 でも、その怖さは必要なのかもしれない。


「閣下」


「はい」


「愛情は、何の役に立つのでしょう」


 ノアは少し考えた。


 すぐに美しい答えを出さないところが、彼らしかった。


「行動の理由にはなるかもしれません」


「結果の証明ではなく?」


「はい」


「愛しているから、守ろうとする。けれど、守れたかどうかは別」


「そう思います」


「では、愛情は免罪符ではなく、始まりなのですね」


「はい」


 セレスティアは、その言葉を帳面の余白に書いた。


『愛情は免罪符ではなく、始まり』


 書いてから、少しだけ息が楽になった。


 母の愛があったかどうか。


 それだけで全てを決めなくていい。


 愛があったとしても、足りなかったものは足りなかった。


 守られなかった夜は、消えない。


 でも、愛がなかったと決めつけなくてもいい。


 その中間に、しばらく立っていていい。


 箱は、今日も開かない。


 でも、箱の周りにまた紙が増えた。


『愛していた、だけでは足りなかった』


『美しい言葉で、人の時間を消さない』


『愛情は免罪符ではなく、始まり』


 セレスティアは、その三枚を並べた。


 母の覚書を読む日は、まだ決まっていない。


 けれど、読む前に必要な言葉が、少しずつ集まっている。


 もし読んだとき、そこに母の愛が書かれていたとしても。


 それだけで、自分の夜を消さないために。


 もし母の後悔が書かれていたとしても。


 それだけで、自分が母を許さなければならないと思わないために。


 もし何も書かれていなかったとしても。


 それだけで、愛されていなかったと決めつけないために。


 セレスティアは、灯りを落とす前に箱へ目を向けた。


「お母様」


 久しぶりに、声に出した。


 それだけで胸が痛んだ。


「私は、まだ読みません」


 箱は答えない。


 それでよかった。


 今夜ほしいのは、返事ではない。


 自分の言葉が、自分の部屋にちゃんと残ることだった。

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