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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第98話 返事にならない返事を、誰が責めるのか

 未定は、私の返事。


 セレスティアがそう帳面に書いた翌日、王都では、その返事が返事かどうかで朝から揉めていた。


 揉める、というより、好き勝手に煮立っていた。


 茶会の席で。


 馬車寄せで。


 王宮の回廊で。


 商会の応接室で。


 人々は、まるで自分の家の金庫の鍵でも預けられているかのように、セレスティアの未定を語った。


「未定という返事が認められるなら、何でも先延ばしにできますわ」


「三十日もあったのですもの。読むか読まないかくらい、決められるはずでは?」


「ですが、亡き母君の覚書でしょう。急げと言う方が酷ではありませんか」


「酷? 公爵家も待っているのですよ」


「待つのがそんなに悪いことかしら」


「家族の問題を公的に引き延ばすのは、見苦しいですわ」


「公的に騒いでいるのは周囲では?」


 最後の一言を言った若い令嬢は、その場の空気が一瞬で冷えたことに気づき、紅茶へ視線を落とした。


 だが、言葉は戻らない。


 公的に騒いでいるのは周囲。


 その通りだった。


 セレスティアは、未定と返しただけだ。


 箱を開けない。

 読了日も決めない。

 返答日も決めない。


 それを勝手に大騒ぎへ育てているのは、外側の人間である。


 しかし、人は外側にいるときほど、自分が外側にいることを忘れる。


 その日、ローヴェル伯爵は、王宮近くの貴族控室で声を荒らげていた。


「未定など、返事ではありません」


 集まっていた保守派の貴族たちが頷く。


 ローヴェル伯爵は、手元の杖を床に軽く打った。


「三十日待った。公爵家は待った。王都も待った。王妃宮も王太子府も、あの娘の状態を尊重してきた。それで返ってきたのが未定とは。これでは、待った側が愚か者のようではありませんか」


 誰かが同意した。


「まったくです」


「家族の情を何だと思っているのか」


「最近の王妃宮は、未定だの非開示だの、返答不要だの、何でもかんでも曖昧にする」


 ローヴェル伯爵は、そこで満足げに頷いた。


「そう、曖昧なのです。貴族社会は、約束と返答で成り立っている。婚約、寄付、叙任、同盟、謝罪。全てに返答がある。未定などという返事を認めれば、秩序が崩れる」


 その言葉は、もっともらしく響いた。


 実際、半分は正しい。


 返答は社会を動かす。


 約束は人をつなぐ。


 いつまでも決めないことで迷惑をかける場合もある。


 けれど、半分だけ正しい言葉ほど扱いにくいものはない。


 だからこそ、王妃宮にはその日のうちに苦情と問い合わせが山のように届いた。


『未定と無回答の違いを明確にされたい』


『家族間で未定を長期化させることの弊害について見解を求める』


『婚約返答へ未定を適用する場合の期限はあるのか』


『寄付承諾に未定を用いられると実務が滞るのでは』


『謝罪文受領について、未定を選ばれた場合、謝罪側はどのように待つべきか』


 リリアナは、その束を見て一瞬だけ目を閉じた。


「増えましたね」


 エルンが乾いた声で言う。


「はい。昨日の三倍です」


「三倍」


 リリアナは、思わず壁を見た。


『未処理を恥として扱わない』


 壁の紙が、妙に偉そうに見える。


「未処理が増えた場合は?」


 リリアナが尋ねると、エルンは淡々と答えた。


「原因、処理予定、優先順位を記録します」


「よろしい」


 マルタが横から言った。


「まず、茶を飲みます」


 リリアナは目を瞬いた。


「今ですか」


「今です。空腹と疲労で文書を書くと、不要な敵を増やします」


「経験則ですか」


「はい」


 即答だった。


 リリアナは少し笑って、茶を受け取った。


 温かい。


 少し落ち着く。


 王妃宮の小会議室は、最近いつも紙で埋まっている。


 だが、紙の前に座る人間にも喉がある。


 これも学んだことの一つだった。


 茶を半分ほど飲んでから、リリアナは問い合わせの束へ目を戻した。


「未定と無回答の違い。これは、整理が必要です」


「はい」


「ただ、お姉様の件だけで返すと、またお姉様が中心になります」


「制度として整理しましょう」


 マルタが言った。


「返答の種類を作るのです」


「種類……」


 リリアナは白紙を引き寄せた。


 ペンを持つ。


 少し考えてから、表題を書いた。


『返答状態の分類――暫定版一』


 エルンが小さく呟く。


「また暫定版一ですね」


「完全版を書く自信がありません」


「正直でよろしいかと」


 リリアナは少しだけ口元を緩めた。


 そして、書き始めた。


 一、受諾。

 求められた内容を受け入れる返答。


 二、拒否。

 求められた内容を受け入れない返答。


 三、保留。

 現時点では決定しないが、対象への回答意思を保持する返答。


 四、条件付き保留。

 決定のための条件、範囲、準備、期限再設定などが必要な返答。


 五、期限延長。

 回答期限そのものを変更する返答。


 六、回答不能。

 現在または今後、回答できない状態を示す返答。


 七、回答不要通知。

 相手に返答を求めない通知。


 書き終えると、リリアナはペンを置いた。


「お姉様の返答は、どれでしょう」


 エルンが尋ねる。


 リリアナは、少し考える。


「条件付き保留、でしょうか」


 マルタが頷く。


「受領状態は継続し、開封日、読了日、返答日を未定にしている。条件作成もあります。条件付き保留でよいと思います」


「では、そう書きます」


 リリアナは続けた。


『エレナ様覚書に関するセレスティア様の現在状態は、王妃宮分類上、条件付き保留に該当する。無回答ではない』


 無回答ではない。


 その一文に、自然と力が入った。


 姉の返事を、無かったことにされたくなかった。


 未定と言うのに、どれだけの力が必要だったか。


 それを知らない人たちに、軽く「返事ではない」と切り捨てられたくなかった。


 だが、リリアナはそこで感情を少し脇に置いた。


 制度にするなら、姉だけを守る文では足りない。


「婚約、寄付、謝罪文にも使えますね」


 リリアナが言うと、マルタが頷いた。


「はい」


「婚約の返答なら、受諾、拒否、保留、期限延長」


「条件付き保留もあります。持参金条件、居住地、家名、相続、本人同意の確認など」


「寄付なら、受諾、拒否、用途条件付き保留」


「謝罪文なら、受領保留、未読保留、返答不能、回答不要通知」


 エルンが楽しそうに書き始めている。


 リリアナは少しだけ呆れた。


「エルン、楽しんでいますか」


「分類は楽しいです」


「そうですか」


「人間関係は楽しくありませんが、分類は楽しいです」


 マルタが珍しく小さく笑った。


「正直でよろしい」


 その軽さで、部屋の緊張が少しほどけた。


 しかし、すぐにローヴェル伯爵からの意見書が読み上げられ、空気はまた硬くなった。


『未定を返答と認めることは、家族間の秩序を損なう。親族間で必要な和解を引き延ばし、家名を傷つける危険がある。特に娘側が父親への返答を未定とする場合、家長権威の低下につながる』


 リリアナは、最後まで聞いてから、静かに言った。


「家長権威」


「はい」


「お姉様の返答の話をしているようで、結局そこなのですね」


 マルタは何も言わない。


 リリアナは続ける。


「父親への返答を未定にできる娘が増えると、困る人がいる」


「はい」


「婚約の返答を保留できる令嬢が増えると、困る家がある」


「はい」


「謝罪文を読まない権利を持つ人が増えると、困る加害側がいる」


「はい」


「だから、未定を返事ではないことにしたい」


「そういう側面はあります」


 リリアナは、少しだけ怒りを感じた。


 だが、今日の怒りは熱く燃えるというより、芯のある冷たさに近かった。


「では、王妃宮補足に入れます」


 彼女は書いた。


『未定を返答と認めないことは、決定権を持つ側に有利に働く場合がある。

 特に家族、婚約、謝罪、寄付等において、返答を急がせる側と、返答を求められる側の力関係を確認すること』


 エルンが目を丸くした。


「強い文ですね」


「強すぎますか」


「強いですが、必要かと」


 マルタも頷いた。


「出しましょう」


「はい」


 王妃宮の補足は、その日の午後に出された。


 王都はまたざわついた。


 特に若い令嬢たちの間で、反響が広がった。


 ある伯爵令嬢は、母から持ち込まれた縁談の返答を迫られていた。


「先方は待ってくださっているのよ。いつまでも保留では失礼でしょう」


 母はそう言った。


 伯爵令嬢は、膝の上で手を握りしめた。


 以前なら、頷いていただろう。


 あるいは、嫌だと言えず、黙って泣いていただろう。


 だが、今朝読んだ王妃宮の補足が頭に残っていた。


 保留。

 条件付き保留。

 期限延長。


 言葉がある。


 言葉があるだけで、少し立てる。


「お母様」


 彼女は震える声で言った。


「私は、受諾でも拒否でもなく、条件付き保留にしたいです」


 母は目を見開いた。


「何ですって?」


「先方のお人柄をもう少し知る機会と、婚後の居住地についての確認が必要です。それが分かるまでは、返答を保留します」


「そんな言葉、どこで」


「王妃宮の補足です」


 母は渋い顔をした。


 けれど、伯爵令嬢は下を向かなかった。


 別の家では、謝罪文が届いていた。


 婚約者からの謝罪文だった。


 以前、社交の場で彼女を侮辱した男だ。


 謝罪文には、美しい言葉が並んでいた。


 後悔している。

 君を大切に思っている。

 許してほしい。

 返事を待っている。


 令嬢は、その封筒を見つめ、父に言った。


「未読保留にします」


 父は困惑した。


「謝罪文だぞ」


「はい」


「読まないのか」


「今は読みません」


「返事は」


「返答日未定です」


「それは、あまりに」


 父は言いかけたが、令嬢は静かに続けた。


「謝罪文を読むことと、許すことと、返事を書くことは別です。王妃宮の補足にもあります」


 父は黙った。


 言葉は、こうして広がっていく。


 ゆっくりと。


 ときに不格好に。


 ときに間違って使われながら。


 それでも、誰かの手元へ届く。


 もちろん、反発も強かった。


 ローヴェル伯爵は、王妃宮の補足を読んで怒り、ついにレイノルド公爵邸へ向かった。


 だが、門前で止められた。


 家令が出てきたのである。


「公爵にお目通りを」


「本日はお受けできません」


「急ぎだ。王妃宮の補足について、貴家にも関わる話で」


「お受けできません」


 ローヴェル伯爵は顔を赤くした。


「私は公爵の旧友だぞ」


「承知しております」


「ならば通せ」


「旦那様より、ローヴェル伯爵がセレスティア様の返答について来訪された場合、面会せずお帰りいただくよう命を受けております」


 伯爵の顔がさらに赤くなる。


「何だと」


 家令は淡々と言った。


「旦那様は、外部意見により返答催促の気持ちを強める危険があるため、面会不可と判断されました」


「そんなことまで言ったのか、あの男は」


「記録にございます」


「記録記録と!」


 伯爵は杖を鳴らした。


「娘一人の未定に、家が振り回されてどうする!」


 家令は、ほんの少しだけ目を細めた。


「娘一人の未定を待てない家の方が、問題かと存じます」


 門前が静まった。


 伯爵は何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。


 家令は丁寧に頭を下げた。


「お引き取りください」


 扉は閉じられた。


 その一件は、もちろん記録された。


 そして要約だけが、公爵家内部記録として残された。


『外部より、セレスティア様未定返答への介入圧力あり。面会拒否。催促誘導防止』


 グレゴールはその報告を読み、しばらく黙ったあと、家令へ言った。


「お前、随分なことを言ったな」


「申し訳ございません」


「謝る気がないだろう」


「はい」


 グレゴールは、少しだけ笑った。


「よい。私が会っていたら、余計なことを言っていたかもしれん」


「その危険は高かったかと」


「本当に遠慮がない」


「必要ですので」


 北方辺境伯家に、その日の反応がまとめて届いたのは夜だった。


 セレスティアは、王妃宮の補足から読んだ。


『返答状態の分類――暫定版一』


 受諾。

 拒否。

 保留。

 条件付き保留。

 期限延長。

 回答不能。

 回答不要通知。


 その分類の中で、自分の返答は条件付き保留とされていた。


 無回答ではない。


 セレスティアは、その一文を見て、静かに息を吐いた。


「私の未定に、名前がつきました」


 ノアが頷く。


「はい」


「条件付き保留」


「正確ですね」


「少し事務的です」


「状態分類ですから」


「でも、安心します」


 セレスティアは続けて、若い令嬢たちの反応を読んだ。


 縁談に条件付き保留を使った伯爵令嬢。


 謝罪文を未読保留にした令嬢。


 父へ返答日未定を告げた令嬢。


 それから、ローヴェル伯爵がレイノルド公爵邸で門前払いされた記録。


『娘一人の未定を待てない家の方が、問題かと存じます』


 セレスティアは、その一文で思わず口元を押さえた。


「家令……」


「なかなかの発言ですね」


「父ではなく、家令が言ったのですね」


「はい」


「父は会わなかった」


「そのようです」


 セレスティアは、しばらくその事実を考えた。


 父が会わなかった。


 外部から「未定は返事ではない」と吹き込まれる場を避けた。


 それは、積極的な優しさではない。


 立派な謝罪でもない。


 ただ、自分が余計なことを言いそうな場から退いた。


 でも、それもまた、今の父にできる一つの責任の取り方なのかもしれない。


「父は、会わないことで催促しませんでした」


 セレスティアは言った。


「はい」


「以前の父なら、会っていたでしょうね」


「おそらく」


「そして、私のためだ、家のためだと言って、何かを送ってきたかもしれません」


「はい」


「会わないことにも、意味があるのですね」


「あります」


 セレスティアは帳面を開いた。


『王妃宮が返答状態を分類した。

 私の返答は、条件付き保留。無回答ではない。

 若い令嬢たちが、縁談や謝罪文に保留を使い始めている。

 ローヴェル伯爵が父を訪ねたが、父は会わなかった。家令が追い返した。

 会わないことで、催促しない。

 これも一つの責任かもしれない。

 未定は、返事にならない返事ではなく、返事の一種になった』


 書き終えて、セレスティアは少しだけ疲れた顔をした。


「私の未定が、大きくなっています」


「はい」


「怖いです」


「はい」


「でも、誰かが助かっているなら、悪いことだけではないのでしょうか」


「悪いことだけではないと思います」


「ただ、私の未定を“皆のため”にされるのは嫌です」


「それも大切です」


 セレスティアは頷いた。


 自分の未定は、自分を守るためのものだ。


 結果として誰かが救われることはある。


 それは嬉しい。


 でも、皆のために未定を続けているわけではない。


 そこを間違えると、また自分が役割になる。


 彼女は帳面にもう一行足した。


『私の未定が誰かを救うことがあっても、私は誰かを救うために未定を選んだのではない。まず、私のため』


 その一文を書いたあと、胸が少し軽くなった。


 ノアが静かに言う。


「よい一文ですね」


「少し冷たくないですか」


「いいえ」


「自分のため、と書くのは、まだ少し慣れません」


「慣れていけばよいと思います」


「はい」


 母の覚書の箱は、相変わらず開いていない。


 けれど、箱の周りに置かれた言葉は増えていく。


 その中に今日、新しく一枚が加わった。


『条件付き保留』


 そして、もう一枚。


『まず、私のため』


 セレスティアは、その二枚を並べて見た。


 返事にならない返事を、誰が責めるのか。


 責める人はいる。


 これからもいる。


 けれど、その返事に名前をつけ、意味を見つけ、守ろうとする人も少しずつ増えている。


 そのことだけは、今夜の彼女の胸に静かに残った。

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