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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第97話 まだ決めないという返事

 三十日目の朝は、思っていたより普通に来た。


 空が割れるわけでもない。


 鐘が特別な音を鳴らすわけでもない。


 王都中の人間が一斉にセレスティアの部屋の方を見るわけでも、もちろんない。


 ただ、朝の光がいつものように窓から入り、机の上の木箱を静かに照らした。


 母の覚書の箱。


 閉じたままの箱。


 その横には、今まで書いてきた紙が積まれている。


『読む権利は、読む義務ではない』


『読まない選択を最後まで残す』


『条件作成は、開封決定ではない』


『箱を管理すること、開封すること、読むこと、解釈すること、共有すること、返答することは別』


『決めないことも、状態である』


『日付は、まだ私のもの』


 セレスティアは、最後の一枚をしばらく見つめていた。


 日付は、まだ私のもの。


 今日は、その日付に王都が名前をつけた日だ。


 三十日目。


 父が、受領意思の確認を待っている日。


 王妃宮が、状態報告を待っている日。


 王太子府も、表向きは関係ないと言いながら、どうせ報告を受ける日。


 王都の茶会では、朝食のパンより先にこの話を切り出す者もいるだろう。


 今日、セレスティア様は母君の覚書を読むのかしら。

 読んだら、公爵家へ戻るのかしら。

 リリアナ様と和解するのかしら。

 王太子殿下の謝罪文も、そろそろかしら。

 ノア閣下はどう出るのかしら。


 人の人生を茶に溶かして飲むのが、王都の一部の人々は本当に上手だ。


 セレスティアは、そんなことを思って、少しだけ苦笑した。


 以前なら、そんな皮肉を自分の中に置くことすら怖かった。


 今は、少しだけ置ける。


 怒りも、呆れも、皮肉も、自分の中にあってよい。


 部屋の扉が軽く叩かれた。


「入ってください」


 ノアが入ってきた。


 朝の執務服姿で、手には薄い書類を持っている。


 セレスティアは彼を見て、先に言った。


「今日は、普通の朝ですね」


「はい」


「もっと、胸が潰れるような朝になるかと思っていました」


「今は?」


「潰れてはいません。重いですが」


「重さを測れるなら、少し距離があるということです」


 ノアらしい返しだった。


 セレスティアは小さく笑う。


「閣下は、時々、医師のようなことをおっしゃいますね」


「北方では、雪崩と怪我人の前では大体の人間が医師の真似をします」


「雪崩と比べられるとは思いませんでした」


「王都の噂も、似たようなものです」


「飲み込まれる、という意味では?」


「はい」


 軽いやり取りのあと、セレスティアは机の上の白紙を見た。


 今日の返答。


 もう、昨夜から文面は決めてある。


 ただ、清書していない。


 清書してしまえば、本当に送ることになるからだ。


 送れば、三十日目の答えになる。


 それが怖くないわけではない。


 けれど、不思議と迷いは少なかった。


「書きます」


 セレスティアは言った。


「はい」


「短くします」


「その方がよいと思います」


「短いと、冷たいと言われるでしょうか」


「言う人は長くても言います」


「それもそうですね」


 彼女はペンを取った。


 王都向けではない。


 父へ。


 そして王妃宮へ。


 必要最低限の状態報告。


 セレスティアは、ゆっくりと書いた。


『エレナ様覚書に関する現在状態。

 受領状態継続。

 開封日未定。

 読了日未定。

 返答日未定。

 箱は本人管理下に置く。

 条件作成は、開封決定・読了予定・返答予定を意味しない。

 回答不要』


 それだけ。


 便箋一枚にも満たない。


 けれど、その数行を書くのに、セレスティアは長い時間を使った気がした。


 開封日未定。


 読了日未定。


 返答日未定。


 未定が三つ並んでいる。


 昔の自分なら、許せなかっただろう。


 未定を並べるくらいなら、無理にでも日付を入れた。


 来週までに。


 十日以内に。


 体調が戻り次第。


 誰かが安心できるように、誰かが予定を立てられるように、自分の未整理を無理やり予定表へ押し込んだ。


 でも今日は違う。


 未定は、未定のまま置く。


 セレスティアは文面を読み返した。


「冷たいでしょうか」


 また同じことを聞いてしまった。


 ノアは、同じように答えなかった。


 彼は紙を読み、静かに言った。


「正確です」


「温かくはないですね」


「状態報告ですから」


「父は、落胆するでしょうね」


「するでしょう」


「リリアナも」


「するかもしれません。ですが、別の受け止め方もあるかと」


「別の?」


「あなたが自分の時間を守った、と」


 セレスティアは、ペンを置いた。


「リリアナなら、そう言うでしょうか」


「最近のリリアナ様なら」


「そうですか」


 胸の奥が少しだけ柔らかくなった。


 会いたいわけではない。


 許したわけでもない。


 けれど、リリアナがそう受け止めるかもしれないと思うと、ほんの少し呼吸がしやすくなる。


「送ります」


 セレスティアは言った。


「はい」


「これ以上、言葉を足すと、言い訳になります」


「では、このまま」


 ノアは封筒を用意した。


 セレスティアは、封をする前にもう一度だけ文面を見た。


 受領状態継続。


 開封日未定。


 読了日未定。


 返答日未定。


 まだ決めない。


 それは、逃げではない。


 今日の彼女が出せる、最も正直な返事だった。


 レイノルド公爵邸にその文書が届いたのは、昼前だった。


 グレゴールは執務室で待っていた。


 待つ、と自分で決めた。


 催促しない。


 問い合わせない。


 条件内容を探らない。


 そう家令に記録させた。


 それなのに、朝から落ち着かなかった。


 書類を読もうとしても、同じ行ばかり目が滑る。


 茶を飲んでも味がしない。


 窓の外を見ても、庭師の動きがやけに遅く感じる。


 これまで、娘を待たせてきた。


 返事を待たせ、判断を待たせ、家の都合を待たせ、母の体調を待たせ、妹の落ち着きを待たせた。


 その自分が、半日待つだけでこれほど落ち着かない。


 情けない。


 そう思うだけの冷静さはある。


 しかし、冷静さがあっても、胸はざわつく。


 家令が入ってきたとき、グレゴールは顔を上げた。


「来たか」


「はい」


 家令は封筒を差し出した。


 グレゴールは受け取り、しばらく開けられなかった。


 薄い。


 薄い返答だ。


 それだけで、何かを察した。


 彼は封を切り、中の紙を読んだ。


『受領状態継続。

 開封日未定。

 読了日未定。

 返答日未定。』


 そこで、指が止まった。


 未定。


 未定。


 未定。


 期待していたわけではない、と言いたかった。


 だが、嘘だ。


 期待していた。


 今日、何かが動くのではないかと。


 読まなくても、読む日くらいは決まるのではないかと。


 少なくとも、拒否か受領か、何らかの判断があるのではないかと。


 だが、返ってきたのは継続だった。


 開封日未定。


 読了日未定。


 返答日未定。


 何も終わっていない。


 何も始まっていないようにも見える。


 けれど、娘の側では、確かに何かを守っている文だった。


 グレゴールは、紙を机に置いた。


「……まだ決めない、か」


 家令は静かに頷いた。


「はい」


「返事になっていない、と言う者が出るな」


「出るでしょう」


「私も、心のどこかでそう思っている」


 家令は筆を取った。


 グレゴールは苦い顔をする。


「すぐ書くな」


「重要な発言かと」


「……書け」


 家令は書く。


『グレゴール公爵発言:セレスティア様返答について、心の一部で“返事になっていない”と感じる。自覚あり』


 グレゴールは、その文字を見て目を閉じた。


「だが、これは返事なのだろう」


「はい」


「未定という状態を返した」


「はい」


「私が望んだ返事ではない」


「はい」


「それでも、返事だ」


「はい」


 家令の返事は短い。


 その短さが、今はありがたかった。


「落胆している」


 グレゴールは言った。


「はい」


「それも書け」


「承知しました」


『グレゴール公爵、落胆あり。ただし催促不可。追加質問不可。待機継続』


 グレゴールは少し笑った。


「待機継続、か」


「はい」


「まるで軍の命令だな」


「今の旦那様には、それくらい明確な方がよろしいかと」


「否定できん」


 彼は返答書を丁寧に折り直した。


 そして、家令へ渡す。


「未読関連綴じへ入れろ」


「はい」


「こちらからの返答は」


「回答不要とあります」


「そうだ。出さない」


「はい」


 グレゴールは、窓の外を見た。


 庭師が、落ち葉を集めている。


 その動きは、相変わらず遅い。


 だが、さっきよりは少し見ていられる。


 待つ。


 娘が未定と言ったなら、父は未定の前に立つしかない。


 王妃宮に同じ文書が届いたとき、リリアナは小会議室にいた。


 今日は、慈善会の礼状文の確認である。


 昨日の会議の修正がまだ続いている。


 未処理を恥として扱わない、と決めた以上、未処理は堂々と机の上に残っていた。


 山のように。


 エルンはその山を見て、少し疲れた顔をしている。


 マルタは平然としている。


 リリアナは、平然としているふりをしていた。


 そこへ、セレスティアの状態報告が届いた。


 リリアナは封を開け、文面を読んだ。


『受領状態継続。

 開封日未定。

 読了日未定。

 返答日未定。』


 胸の奥に、何かが落ちた。


 落胆ではない。


 いや、落胆もある。


 読まないのだ、と思った。


 まだ読まない。


 まだ母の言葉へ進まない。


 まだ自分たちとの何かも動かない。


 そう思った。


 でも、それ以上に別の感情があった。


「お姉様が、未定と書きました」


 リリアナは言った。


 マルタが頷く。


「はい」


「未定を、未定として」


「はい」


「以前のお姉様なら、きっと日付を入れていました」


「そうかもしれません」


「誰かが安心するように。誰かが予定を立てられるように。自分が苦しくても」


「はい」


 リリアナは、文書をもう一度見た。


「これは、お姉様の返事です」


 声が少し震えた。


 でも、泣いてはいない。


「まだ決めない、という返事です」


 エルンが小さく頷いた。


「王都では反発されるでしょう」


「はい」


「返事ではない、と」


「言わせておけば……いえ、言わせておくとお姉様がまた傷つきますね」


 リリアナは白紙を出した。


 最近、怒ると白紙を出す癖がついてきた。


 マルタが少しだけ目を細める。


「補足を出しますか」


「出します」


「感情だけで書かないように」


「分かっています」


 リリアナは深呼吸し、表題を書いた。


『未決定状態に関する王妃宮補足』


 一、未決定は、無回答ではない。

 二、未定は、意思が存在しない状態ではなく、現時点で決定しないという状態である。

 三、開封日、読了日、返答日の未定は、それぞれ別に扱う。

 四、未定状態を、怠慢、拒絶、侮辱と即断しない。

 五、本人が未定を選ぶことで、自身の時間と境界を守る場合がある。


 五番を書いたところで、リリアナの手が止まった。


 自身の時間と境界を守る。


 これは、姉のためだけではない。


 自分も学ばなければならないことだ。


 アデルへの返答。

 父への向き合い方。

 姉への謝罪文。

 自分の未来。


 全部、すぐに決めなくていいものがある。


「マルタ様」


「はい」


「未定は、怖いですね」


「怖いです」


「周りも怖がりますね」


「はい」


「だから、決めさせようとする」


「その通りです」


 リリアナは頷いた。


「では、書き足します」


 六、周囲が未定を不安に感じることはあり得る。ただし、その不安を理由に本人へ決定を迫らない。


 書き終えた瞬間、リリアナは少しだけ息を吐いた。


「これを出します」


「はい」


「お姉様宛ではなく、王妃宮基準として」


「はい」


「でも、お姉様が読んでくだされば……」


 言いかけて、リリアナは自分で止まった。


 読んでくだされば。


 その期待もまた、扉の前で声を張り上げることになりかねない。


「訂正します」


 リリアナは小さく言った。


「共有される範囲で届けば、それで十分です」


 マルタが頷いた。


「よい訂正です」


 王太子府にも、午後には情報が届いた。


 アデルは、王妃宮経由の状態共有を読んだ。


『開封日未定。読了日未定。返答日未定』


 ラウルは隣で難しい顔をしている。


「殿下。これは……」


「返事だ」


 アデルは先に言った。


 ラウルが口を閉ざす。


「未定という返事だ」


「ですが、王都では納得しない者が多いでしょう」


「納得しないからといって、返事でなくなるわけではない」


 アデルは紙を置いた。


 胸の奥に、何とも言えない感情があった。


 焦りではない。


 落胆でも少し違う。


 セレスティアが、まだ決めない。


 その事実に、彼はどこかで安堵していた。


 なぜなら、彼自身もまだ検証報告書を完成させていない。


 謝罪文も送れない。


 送るべきではない。


 なのに、もしセレスティアの方が母の覚書を読み、何かを進めてしまったら。


 また彼女の方が先に痛みの前へ立つことになる。


 それは嫌だった。


「彼女が未定を選んだ間に、こちらは自分たちの未処理を進める」


 アデルは言った。


 エドが即座に筆を取る。


「はい」


「王太子府の非公式依頼記録の整理、候補者実務区分、謝罪文基準。未処理を残すな」


「残さない、というより、処理予定を明確にする、ですね」


 エドが言う。


 アデルは少し苦笑した。


「王妃宮の言葉が染みているな」


「便利ですので」


「それも染みている」


 ラウルが、少しだけ疲れたように言った。


「王宮全体が、王妃宮の壁に支配されつつありますね」


「悪くない」


 アデルは静かに言った。


「少なくとも、以前よりはましだ」


 夕方には、王都で案の定、騒ぎが広がった。


「未定、ですって」


「それは返事なの?」


「三十日も待たせて?」


「でも、読むかどうかを他人が急かすものではないでしょう」


「母君の遺した言葉ですのに」


「母君の言葉だからこそ、ではありませんこと?」


「公爵様がお気の毒ですわ」


「娘もお気の毒では?」


「返事にならない返事が認められるなら、婚約の返事もずっと未定にできてしまうのでは?」


「むしろ、その方が助かる令嬢もいるでしょうね」


 最後の言葉に、茶会の空気が変わる。


 婚約の返事。


 縁談の受諾。


 家族からの呼び出し。


 謝罪文への返信。


 王宮行事への参加。


 未定という返事が認められるなら、困る者もいる。


 だが、救われる者もいる。


 王妃宮の補足は、その日のうちに回覧され、若い令嬢たちの間で静かに読まれた。


『未決定は、無回答ではない』


『周囲の不安を理由に本人へ決定を迫らない』


 その一文を、胸にしまった者は少なくなかった。


 北方辺境伯家に、各所の反応が戻ってきたのは夜だった。


 セレスティアは、夕食後にそれを読んだ。


 父が落胆したこと。


 だが催促しなかったこと。


 家令が「請求不可、促迫不可」と記録したこと。


 リリアナが「未決定は無回答ではない」と王妃宮補足を出したこと。


 アデルが、未定の間に王太子府の未処理を進めると述べたこと。


 王都が騒いでいること。


 若い令嬢たちの一部が、未定という返答に救われていること。


 セレスティアは、読み終えてしばらく黙っていた。


 ノアは向かいで茶を飲んでいる。


「私の未定が、他の人の未定にもなっていくのですね」


 セレスティアは言った。


「はい」


「少し怖いです」


「はい」


「でも、少し嬉しいです」


「はい」


「誰かが、すぐに決めなくてよくなるなら」


 彼女は、報告書を机に置いた。


「父は、落胆したのですね」


「はい」


「催促はしなかった」


「はい」


「リリアナは、補足を出した」


「はい」


「アデル殿下は、自分たちの未処理を進めると」


「はい」


「皆、少しずつ違う反応ですね」


「それぞれの場所で受け止めています」


 セレスティアは頷いた。


 昔なら、自分の返答一つで全員を納得させようとした。


 父が落胆しないように。

 リリアナが不安にならないように。

 王太子府が困らないように。

 王妃宮が混乱しないように。

 王都が騒がないように。


 でも、それは無理だった。


 そして、無理をする必要もなかった。


 彼女が自分の状態を出す。


 受け取った側が、それぞれの場所で処理する。


 それでいい。


「私は、返事をしたのですね」


 セレスティアは言った。


「はい」


「まだ決めない、という返事を」


「はい」


「返事になっていないと言われても」


「返事です」


 ノアの声は、いつもより少しだけ強かった。


 セレスティアは彼を見て、静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


「はい」


 彼女は帳面を開いた。


『三十日目。

 受領状態継続。開封日未定。読了日未定。返答日未定、と返答した。

 父は落胆したが催促しなかった。

 リリアナは“未決定は無回答ではない”と補足した。

 アデル殿下は、私の未定の間に王太子府の未処理を進めると言った。

 王都は騒いでいる。

 若い令嬢たちの一部は、未定という返答に救われているらしい。

 私は、返事をした。まだ決めないという返事を。

 今日は、箱を開けない。けれど、逃げたのではない』


 書き終えると、セレスティアはペンを置いた。


 箱は閉じたまま。


 けれど、今日はひとつ、確かに終わった。


 三十日目に答えを出す、という周囲の期待。


 それには応じなかった。


 その代わり、三十日目に「未定」を置いた。


 決めないことを、曖昧な沈黙ではなく、状態として返した。


 それは小さな革命だった。


 少なくとも、セレスティアにとっては。


 灯りを落とす前に、彼女は箱の横に新しい紙を置いた。


『未定は、私の返事』


 その紙を見て、セレスティアは小さく息を吐いた。


 まだ決めない。


 その言葉は、昨日より少しだけ強くなっていた。

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