第96話 箱を開ける日を、まだ決めない
条件を作った。
それだけだった。
箱は開いていない。
母の覚書は、まだ読んでいない。
読む日も決めていない。
読むと決めたわけでもない。
ただ、もし読むなら、自分をどう守るかを紙にした。
それだけのはずだった。
けれど王都は、いつも「それだけ」を嫌う。
翌朝、セレスティアが朝食の席につく前に、北方辺境伯家には王都からの報告が届いていた。
ノアは先に目を通し、少しだけ眉を動かした。
セレスティアは、その変化を見逃さなかった。
「また、何かありましたか」
「はい」
「母の覚書のことですね」
「はい」
予想していた。
していたのに、胸の奥が重くなる。
セレスティアは、椅子に座る前に小さく息を吐いた。
「読みます」
「朝食後でも」
「いいえ。朝食の前に少しだけ読みます。気になったまま食べると、きっと味が分からなくなります」
「では、少しだけ」
ノアは報告書を渡した。
セレスティアは受け取り、目を落とした。
『エレナ様覚書について、セレスティア様が読む条件を作成中との情報が広まる』
『一部茶会では、いよいよ受領決定かとの見方』
『三十日期限が近づいていることもあり、読了後の公爵家再会、王妃宮への影響、リリアナ様との和解について憶測多数』
『“条件を作ったということは、覚悟が決まったのだろう”との声』
『“読まないなら条件など作らないはず”との意見』
読まないなら条件など作らないはず。
セレスティアは、その一文で手を止めた。
まただ。
また、誰かが勝手に道を一本にしている。
条件を作る。
だから読む。
読む。
だから感想を持つ。
感想を持つ。
だから父に返事をする。
父に返事をする。
だから家族が動く。
誰かの頭の中で、そういう一本道が引かれている。
だが、セレスティアの足元はそんなにまっすぐではない。
条件を作ることは、読む準備でもあり、読まない自由を守る柵でもある。
その違いが、王都には伝わらない。
いや、伝えたくない人たちもいるのだろう。
「……朝食前に読んで正解でした」
セレスティアは静かに言った。
ノアが尋ねる。
「どうしますか」
「まず、朝食を食べます」
ノアは一瞬だけ目を瞬いた。
セレスティアは、報告書を畳んで机の横に置いた。
「条件を作ったのに、朝食を抜いたら、私が私の条件を破ります」
「その通りですね」
「はい。今は腹が立っています。腹が立っているときほど、食べます」
「よい判断です」
そう言われると、少し笑えた。
セレスティアは朝食を食べた。
パン。
卵。
温かいスープ。
薄く切った果物。
味は分かった。
少なくとも、分かろうとした。
王都の憶測に、自分の朝食まで奪わせない。
それも、小さな抵抗だった。
食後、彼女は改めて机に戻った。
母の覚書の箱は、いつもの場所にある。
その横には昨日書いた条件表。
『母の覚書を読む条件――暫定版一』
セレスティアは、その表題を見つめた。
暫定版一。
読む決定ではない。
それを、もう一度自分の中で確認する。
「閣下」
「はい」
「私は、日付を決めません」
「はい」
「今日も、明日も、三十日目も、まだ決めないかもしれません」
「はい」
「三十日後に受領意思を決める、としていましたが……今は、読むかどうかではなく、受領状態をどう扱うかを決める段階なのかもしれません」
ノアは少し考えた。
「箱を受け取ることと、箱を開けることを分ける、ということですか」
「はい」
セレスティアは、白紙を出した。
「また分けます」
「はい」
彼女は書いた。
『覚書の受領状態について』
一、箱の存在を認めること。
二、箱を自分の管理下に置くこと。
三、箱を開封すること。
四、内容を読むこと。
五、内容を解釈すること。
六、内容を誰かに共有すること。
七、内容をもとに返答すること。
そこまで書き、セレスティアはペンを置いた。
「全部、別です」
「はい」
「私は今、箱の存在を認めています。管理下にも置いています。でも、開封はしていない。読むこともしていない。解釈も、共有も、返答もしていない」
「はい」
「王都は、全部を一つにしています」
「そうですね」
「父も、どこかでそう思っているかもしれません。箱を受け取れば、いつか読まれる。読まれれば、いつか返事が来る、と」
「可能性はあります」
「でも、違います」
セレスティアは、自分の声が少し強くなったことに気づいた。
怖さより、怒りが先に立っていた。
それは悪くない。
最近、そう思えるようになってきた。
「箱を持つことと、開けることは別。開けることと、読むことも別。読むことと、答えることも別」
ノアは頷いた。
「この整理は、必要ですね」
「はい」
セレスティアは、別紙に短い状態報告を書いた。
『エレナ様覚書に関する現在状態。
箱はセレスティア本人の管理下にある。
開封日、読了日、返答日は未定。
読む条件を作成したことは、開封決定、受領決定、読了予定を意味しない。
箱を管理すること、開封すること、読むこと、解釈すること、共有すること、返答することは別である。
回答不要』
書き終えて、セレスティアは少しだけ疲れた顔をした。
「これを、父と王妃宮へ」
「はい」
「王太子府には、王妃宮経由で十分です」
「承知しました」
「それから、王都向けには……王妃宮が補足を出すでしょうか」
「おそらく」
「リリアナが怒りそうです」
「可能性は高いですね」
その言い方に、セレスティアは少しだけ笑った。
「リリアナは最近、よく怒りますね」
「よいことでは?」
「そうですね。昔は、泣くか甘えるか、黙るかでした」
「今は?」
「怒って、分けて、書くようになりました」
「成長ですね」
「はい」
はい、と言った自分に、セレスティアは少し驚いた。
素直に言えた。
リリアナが成長している。
そのことを、今は少しだけ素直に認められる。
会いたいわけではない。
許したわけでもない。
でも、認めることはできる。
レイノルド公爵邸では、その状態報告を受け取ったグレゴールが、しばらく黙っていた。
家令は、いつもの位置に控えている。
「箱を管理すること、開封すること、読むこと、解釈すること、共有すること、返答することは別」
グレゴールは、低く読み上げた。
「はい」
「ここまで分けるのか」
「必要なのでしょう」
「……そうだな」
グレゴールは、報告書を机に置いた。
胸の奥に、落胆がある。
娘が条件を作ったと聞いた時、自分のどこかで「ついに読むのか」と思った。
否定したつもりだった。
求めてはいけないと記録させた。
それでも、心の底では期待していた。
その期待を、今、丁寧に折られた。
箱を持っている。
だから読む。
そんな簡単な話ではないと。
「私は、期待していた」
グレゴールは言った。
家令は筆を取る。
「はい」
「条件を作ったなら、近いうちに読むのではないかと」
「はい」
「読めば、何かが動くのではないかと」
「はい」
「自分の停滞が終わるのではないかと」
家令の筆が止まる。
グレゴールは、苦く笑った。
「書け」
「はい」
『グレゴール公爵発言:条件作成を開封接近と受け取り、自身の停滞が終わることを期待した。請求不可。促迫不可』
グレゴールは、その記録を見て息を吐いた。
「私は、娘の箱に自分の終わりを求めている」
「その危険があります」
「最低だな」
「以前よりは、自覚があります」
「慰めか?」
「事実です」
家令の返しに、グレゴールは少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「返答は不要とある」
「はい」
「こちらからは何も送らない」
「承知しました」
「ただし、内部記録に、この状態区分を採用しろ。エレナの覚書について、公爵家内でも、受領、開封、読了、共有、返答を混同しない」
「はい」
「それから、外部から問い合わせがあっても、答えない」
「はい」
「ローヴェル伯爵あたりがまた来るだろう」
「来るでしょう」
「その時は、追い返せ」
「旦那様がお会いになる前に?」
「そうだ」
家令は、ほんのわずかに眉を上げた。
「よろしいのですか」
「今会うと、私が余計なことを言う」
「賢明です」
「賢明と言われると腹が立つな」
「では、妥当です」
「それも腹が立つ」
「記録しますか」
「するな」
少しだけ、屋敷の空気が緩んだ。
けれど、グレゴールの手元の紙は重いままだった。
娘は、まだ日付を決めない。
父は、待つ。
それだけのことが、こんなにも難しい。
王妃宮では、予想通り、リリアナが怒っていた。
「やっぱり、先走りましたね」
リリアナは王都の噂を読んで、声を低くした。
マルタが向かいで頷く。
「はい」
「条件作成は受領決定ではない、と書いてあったのに」
「読まない人は、書いてあっても読みません」
「ひどいですね」
「よくあります」
リリアナは、少しだけ悔しそうに唇を噛んだ。
その横でエルンが、セレスティアからの最新状態報告を読み上げる。
『箱を管理すること、開封すること、読むこと、解釈すること、共有すること、返答することは別である』
読み終えた瞬間、リリアナは机に手を置いた。
「これです」
「はい」
「これを王妃宮補足にします」
「そのまま使いますか」
「要点はそのまま。お姉様の言葉なので、王妃宮の基準文へ直します」
リリアナは白紙を引き寄せた。
『覚書・私的文書に関する状態区分――王妃宮補足』
一、存在確認。
二、本人管理。
三、開封。
四、読了。
五、解釈。
六、共有。
七、返答。
この七項目は、それぞれ別の状態であり、一つが進んだことをもって、他の状態が進んだとは扱わない。
条件作成は、開封決定ではない。
開封は、読了ではない。
読了は、共有義務ではない。
共有は、返答義務ではない。
書いているうちに、リリアナの怒りが少し整理されていった。
怒っているだけでは、王妃宮の文書にはならない。
怒りを、使える形へ変える。
それを最近、彼女は少しずつ覚えている。
「マルタ様」
「はい」
「王都向けの一文を入れてもいいですか」
「どうぞ」
リリアナは少し迷ってから、書いた。
『他者が本人の内的日程を推測し、公的予定のように語ることを慎むこと』
エルンが小さく頷いた。
「よいと思います」
「少し硬いですね」
「王都向けには硬い方がよいです」
マルタが言う。
「柔らかいと、勝手に食べられます」
リリアナは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「マルタ様、それは少し怖い表現です」
「柔らかすぎる文は、よく噛まずに飲まれます」
「ますます怖いです」
小会議室に小さな笑いが起きた。
だが、すぐにリリアナは真顔へ戻る。
「出します」
「はい」
「ただし、お姉様宛ではなく王妃宮補足として」
「はい」
「お姉様の扉の前で大声を出さない」
「よいです」
王妃宮補足は、その日のうちに出された。
王都では、また議論が起きた。
「条件を作ったのに、まだ読まないの?」
「慎重すぎるのでは」
「でも、母の遺した文なら、それくらい慎重でもよいでしょう」
「開封と読了が別、というのは少し分かるわ」
「私は手紙を開けても、最後まで読めないことがありますもの」
「返事まで求められたら、なおさら怖いわ」
「王妃宮は最近、面倒なことばかり言うわね」
「面倒だったものを、今まで誰かに押しつけていただけでは?」
その一言で、茶会の空気が少し固まった。
誰かが面倒を引き受けていた。
たぶん、ずっと。
そして今、その面倒に名前がつき始めている。
夜、北方辺境伯家に王妃宮補足と王都の反応が届いた。
セレスティアは、それを静かに読んだ。
リリアナが状態区分を王妃宮基準にしたこと。
条件作成は開封決定ではないと補足したこと。
他者が本人の内的日程を推測し、公的予定のように語ることを慎むよう求めたこと。
そして、茶会で誰かが言ったらしい一言。
『面倒だったものを、今まで誰かに押しつけていただけでは?』
セレスティアは、その一文で小さく息を吐いた。
「鋭いですね」
ノアが言う。
「はい」
「王都にも、変化が?」
「少しずつ、でしょうね」
セレスティアは報告書を置いた。
「私は、面倒な人間になっているのでしょうか」
「なぜそう思いますか」
「条件を作る。分ける。日付を決めない。返答しない。全部、周りから見れば面倒でしょう」
「面倒だと思う人もいるでしょう」
「はい」
「ですが、面倒を省いてきた結果、あなたに負担が集まった」
セレスティアは、静かにノアを見た。
「そうですね」
「あなたが面倒なのではなく、今まで省かれてきた境界が面倒なのです」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
境界が面倒。
でも、必要。
セレスティアは帳面を開いた。
『条件を作ったことで、王都が“読む決定”と騒いだ。
私は日付を決めていない。
箱を管理すること、開封すること、読むこと、解釈すること、共有すること、返答することは別。
リリアナが王妃宮補足にしてくれた。
私は面倒な人間になったのではなく、今まで省かれてきた境界を戻しているのかもしれない。
まだ箱を開ける日は決めない』
書き終えると、彼女はしばらくその最後の一文を見つめた。
まだ箱を開ける日は決めない。
少し前なら、その一文を書くのも怖かった。
先延ばしだと思われる気がして。
逃げだと責められる気がして。
でも今日は違う。
決めないことを、自分で選べている。
それは逃げではなく、保留だった。
保留もまた、立派な状態だ。
「閣下」
「はい」
「私は、三十日目に“まだ決めない”と答えるかもしれません」
「はい」
「それは許されるでしょうか」
「許可を求める必要はありません」
ノアの声は静かだった。
「あなたの覚書です。あなたの状態です。あなたの時間です」
セレスティアは、目を伏せた。
あなたの時間。
その言葉が、胸に深く落ちた。
ずっと、誰かの時間を生きてきた。
父の時間。
母の時間。
リリアナの時間。
王太子府の時間。
王妃宮の時間。
王都の噂の時間。
けれど、この箱の前にいる時間だけは、自分のものにしたい。
「では、まだ決めません」
セレスティアは言った。
「はい」
「決めないことを、決めます」
「はい」
「……変な言い方ですね」
「でも、正確です」
彼女は少し笑った。
母の覚書の箱は、今日も閉じている。
しかし、その沈黙は以前ほど怖くない。
箱は、急かしてこない。
急かしているのは、人だ。
人の声だ。
王都の噂だ。
父の期待だ。
自分の中の「早く答えを出さなければ」という古い役割だ。
箱そのものは、ただそこにある。
セレスティアは、箱の横に新しい紙を置いた。
『決めないことも、状態である』
そして、その下にもう一枚。
『日付は、まだ私のもの』
灯りを落とす前に、彼女はその二枚を見た。
今日も読まなかった。
日付も決めなかった。
けれど、何も進まなかったわけではない。
自分の時間を、少しだけ取り戻した。
それは、箱を開けることより大きな一歩かもしれなかった。




