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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第95話 母の覚書を読む条件、暫定版一

 母の覚書の箱は、今日も開いていなかった。


 机の上にある。


 朝の光を受けて、木箱の角だけが少し明るい。


 鍵はかかっていない。


 封も破られていない。


 ただ、そこにある。


 それだけで、セレスティアの一日は何度も止まりそうになる。


 けれど最近は、その止まり方が少し変わってきた。


 以前は、箱を見るだけで胸の奥が潰れるようだった。


 読まなければならない。

 読んではいけない。

 母を知りたい。

 母を知りたくない。

 父を責めることになるかもしれない。

 リリアナが傷つくかもしれない。

 自分がまた壊れるかもしれない。


 そういう声が一度に押し寄せてきて、息が浅くなった。


 今も、怖い。


 怖さが消えたわけではない。


 ただ、怖さの周りに紙が増えた。


『読む権利は、読む義務ではない』


『読まない権利』


『痛みあり。内容非開示でもよい』


『空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない』


『沈黙は、免罪符ではない』


『答えを急ぐ役割から降りる』


『扉を開けない権利』


『変化を認めることと、受け入れることは別』


『言葉を受け取ることと、人を迎え入れることは別』


 その紙たちは、箱を囲む柵のようだった。


 檻ではない。


 むしろ、外から伸びてくる手を止めるための柵。


 そして今日、セレスティアはその柵の内側で、新しい白紙を一枚出した。


 ノアは、いつものように向かいに座っている。


 午前の茶は、まだ手をつけられていなかった。


「今日は、書きます」


 セレスティアが言うと、ノアは静かに頷いた。


「何を?」


「母の覚書を読む条件です」


 口にした瞬間、部屋の空気がほんの少し変わった気がした。


 箱は開いていない。


 けれど、箱へ近づいた。


 それは間違いなかった。


 ノアは急かさない。


 驚いた顔もしない。


 ただ、少しだけ姿勢を正した。


「読むと決めたのですか」


「いいえ」


 セレスティアはすぐに答えた。


「読むと決めたわけではありません」


「はい」


「でも、もし読むなら、どう読むかを決めておきたいのです」


「はい」


「読むかどうかを考えるたびに、読む瞬間の怖さまで一緒に来ます。だから、怖さを少し分けます」


「条件を作ることで?」


「はい」


 セレスティアは白紙の上に題名を書いた。


『母の覚書を読む条件――暫定版一』


 暫定版一。


 その言葉に、自分で少し笑いそうになった。


 王妃宮の影響を受けすぎている。


 けれど、悪くない。


 完全版ではない。

 後で直してよい。

 今の自分で決められる範囲だけでよい。


 その許しが、暫定という言葉にはある。


「まず、一つ目です」


 セレスティアは言った。


「読む日を、王都に知らせない」


 ノアは即座に頷いた。


「必要ですね」


 セレスティアは書いた。


 一、読む場合、日時は外部へ知らせない。読後も、読んだかどうかを即時共有しない。


「読んだかどうかも?」


「はい。読んだ、という事実だけで騒がれると思います」


「騒がれるでしょう」


「それだけで、読後の私がまた人前に引き出されます」


「はい」


「だから、読み終えても、その事実をすぐに共有しません」


「よいと思います」


 セレスティアは少しだけ息を吐いた。


 二つ目。


 二、読む場所は、北方辺境伯家内の私室または隣室。王宮、公爵家、王妃宮では読まない。


 書いてから、彼女は小さく首を振った。


「私室、だけでは怖いです」


「では、隣室も選択肢に?」


「はい。自分の寝室で読むと、その部屋が覚書の記憶に染まりそうです」


「分かります」


「だから、私室または隣室。どちらかを当日選びます」


 ノアは頷いた。


「部屋にも未読の権利があるかもしれませんね」


 セレスティアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「閣下、たまに変なことを言いますね」


「失礼しました」


「いいえ。少し助かりました」


 部屋にも未読の権利。


 そんな言い方をされると、怖さが少しだけ手のひらに乗る大きさになる。


 三つ目。


 三、同席者は一名まで。候補はノア閣下、または同席者なし。当日変更可。


 ノアが静かに尋ねた。


「私の名を入れてよいのですか」


「はい」


「私を選ばない可能性も書いてありますね」


「はい」


「よい条件です」


 セレスティアはペンを止めた。


「嫌ではありませんか」


「何が?」


「候補に入れられて、同時に選ばない可能性も書かれることです」


「いいえ」


「少し失礼では?」


「あなたが私を選ぶ自由と、選ばない自由の両方を持っていることの方が大切です」


 セレスティアは、胸の奥が少し温かくなった。


「ありがとうございます」


「はい」


「では、書き足します」


 三、同席者は一名まで。候補はノア閣下、または同席者なし。当日変更可。同席者を選ばないことを、信頼不足と扱わない。


 ノアは、その一文を見て静かに頷いた。


 四つ目。


 四、読む時間は一度に半刻まで。途中停止可。停止した場合、再開日は未定としてよい。


「半刻は長いでしょうか」


 セレスティアが尋ねる。


「長いと思えば短くできます」


「では、半刻以内」


 彼女は訂正した。


 四、読む時間は一度に半刻以内。途中停止可。停止した場合、再開日は未定としてよい。


 五つ目。


 五、読中、泣く、怒る、無言になる、部屋を出る、眠る、何もしない、いずれも可。


 書いてから、セレスティアは少し顔を赤くした。


「眠る、は変でしょうか」


「変ではありません」


「覚書を読んでいる途中で眠るなんて、不敬では」


「身体が止めるなら、それは必要な停止です」


「……はい」


 母の言葉を前に眠る。


 それは逃げのようにも思える。


 でも、身体が耐えられなくなれば、眠ってしまうこともあるかもしれない。


 それを失礼だと責め始めたら、また自分を追い込む。


 六つ目。


 六、読後すぐに感想、判断、許し、怒り、返事を求めない。自分自身にも求めない。


 この一文は、書くのに少し時間がかかった。


 自分自身にも求めない。


 それが難しい。


 母をどう思ったか。

 父をどう思うか。

 リリアナをどう思うか。

 自分は許すのか、責めるのか、泣くのか、怒るのか。


 読んだ瞬間、何かの答えを出さなければならない気がする。


 でも、それは違う。


 覚書は、判決文ではない。


 読んだからといって、すぐ何かを決める必要はない。


「ここは、とても大切です」


 セレスティアは言った。


 ノアは頷く。


「はい」


「私は、読むよりも読後が怖いのかもしれません」


「はい」


「読んだあと、自分が母をどう見るのか。それが怖い」


「はい」


「でも、読後すぐに決めなくてよいなら……少しだけ、怖さが減ります」


「はい」


 七つ目。


 七、内容は原則非共有。共有する場合は、相手、範囲、時期を別途決める。要約を求められても応じない。


 書き終えて、セレスティアは少し強く息を吐いた。


「要約を求められそうです」


「求められるでしょう」


「父にも、リリアナにも、王妃宮にも、王都にも」


「はい」


「でも、母の覚書を私が読んだとして、それを誰かに要約する役割は負いたくありません」


「当然です」


「母の言葉を、私がまた報告書にするのは嫌です」


「はい」


 これは、強い嫌悪だった。


 母の覚書を読んだあと、誰かに説明する。


 母はこう書いていました。

 私はこう受け止めました。

 だから父は、リリアナは、王妃宮は。


 そんなふうに、また自分が橋になる。


 それは嫌だった。


 八つ目。


 八、読後三日間は、公的返答、面会、謝罪文受領、追加文書閲覧を行わない。


 ノアが少しだけ目を上げた。


「三日間」


「短いでしょうか」


「あなたにとっては?」


「……分かりません。七日でもいい気がします」


「では、三日以上、としては」


 セレスティアは頷き、書き直した。


 八、読後少なくとも三日間は、公的返答、面会、謝罪文受領、追加文書閲覧を行わない。必要なら延長する。


「追加文書閲覧も?」


「はい。父の謝罪文や、リリアナの謝罪文や、王太子府の報告書を続けて読むと、混ざってしまいます」


「はい」


「母の言葉と、他の人の謝罪を混ぜたくありません」


「それも重要です」


 九つ目。


 九、読後の体調を優先する。食事、睡眠、散歩、入浴、沈黙を予定に入れる。


 セレスティアは、書きながら少し笑った。


「母の覚書を読む条件に、入浴まで入るとは思いませんでした」


「必要なら入れるべきです」


「王妃宮の壁に貼られそうですね」


「“覚書より先に湯を用意”でしょうか」


 セレスティアは、今度は本当に笑ってしまった。


 声は小さい。


 けれど、確かに笑った。


「閣下、それは少し俗っぽいです」


「王妃宮向きかと」


「否定できません」


 笑ったあと、少しだけ目元が熱くなった。


 母の覚書について話しているのに、湯だの食事だの言える。


 それは不謹慎ではなく、たぶん必要なことだった。


 自分は身体を持っている。


 覚書を読む日も、腹は減る。

 冷える。

 疲れる。

 眠くなる。


 母の言葉の前でも、自分は人間でいていい。


 十、読まない選択を最後まで残す。条件を作ったことを、読む決定と扱わない。


 最後にそれを書いた。


 これがないと、全部が怖くなる。


 条件を作ると、読まなければならない気がしてしまう。


 でも違う。


 読むための条件は、読まない自由を守るためにも必要だ。


「できました」


 セレスティアは言った。


 紙は一枚では足りず、二枚になっていた。


 題名は、相変わらずこうだ。


『母の覚書を読む条件――暫定版一』


 ノアは、最初から最後まで目を通した。


 読み終えたあと、静かに言った。


「とてもよいと思います」


 セレスティアは、少し緊張した顔で尋ねた。


「重すぎませんか」


「重いものを読む条件です」


「細かすぎませんか」


「細かくしなければ、外から入り込まれます」


「わがままでは?」


「違います」


 ノアの返事は早かった。


 その早さに、セレスティアは少しだけ息を呑んだ。


「これは、わがままではありません。境界です」


「境界」


「はい」


 セレスティアは、その言葉を胸の中でゆっくり繰り返した。


 境界。


 自分と母の間の境界。

 自分と父の間の境界。

 自分とリリアナの間の境界。

 自分と王都の間の境界。

 そして、自分自身の中にも境界がいる。


 読む自分と、判断する自分。

 娘である自分と、一人の人間である自分。

 知りたい自分と、知りたくない自分。


 全部を一つにしないための線。


「これを、誰かに共有しますか」


 ノアが尋ねた。


 セレスティアは、しばらく考えた。


「全部は共有しません」


「はい」


「ただ、条件を作ったことだけは、父に伝えてもよいかもしれません」


「なぜ?」


「三十日の期限が近づいています。父は、私が何も考えていないと思うかもしれません」


「それを気にする必要はありますか」


「必要は……ないと思います」


 セレスティアは言いながら、少し考え込んだ。


「でも、父のためではなく、私の状態を誤解されないためには、最低限の共有があってもいいかもしれません」


「どのように?」


「読むかどうかは未決定。ただし、読む場合の条件を本人が作成中。条件内容は非共有。条件作成は受領決定ではない」


 ノアが頷いた。


「よいと思います」


「短くします」


 セレスティアは別紙に書いた。


『エレナ様覚書に関する現在状態。

 受領意思未決定。

 読む場合の条件を本人が作成中。

 条件内容は非共有。

 条件作成は受領決定ではない。

 回答不要』


 それを見て、ノアが言った。


「王妃宮にも共有しますか」


「父にだけ送ると、また公爵家内の話になります。王妃宮には、制度参考として必要かもしれません。ただし、同じ文面で」


「王太子府は?」


 セレスティアは少し悩んだ。


「王太子府にも……いいえ、直接ではなく、王妃宮経由の共有にします。母の覚書は、王太子府の案件ではありません」


「はい」


「父と王妃宮へ。ノア閣下からではなく、私の状態報告として」


「承知しました」


 その日の午後、短い状態報告がレイノルド公爵家と王妃宮へ送られた。


 文面は淡々としていた。


 けれど、受け取った側には大きな意味を持った。


 レイノルド公爵邸では、グレゴールがその報告を読み、椅子に座ったまま長く動かなかった。


『受領意思未決定』


『読む場合の条件を本人が作成中』


『条件内容は非共有』


『条件作成は受領決定ではない』


 家令が控えている。


 グレゴールは、紙を机に置いた。


「条件を作っている」


「はい」


「読むと決めたわけではない」


「はい」


「内容は教えられない」


「はい」


「……当然だな」


 声は低かった。


 落胆はある。


 それは隠せない。


 父として、母の覚書を娘が読むのかどうか知りたい。


 いつ読むのか知りたい。

 読んだらどう思ったのか知りたい。

 自分はどう扱われるのか知りたい。


 だが、それを求める権利はない。


「私は、条件内容を知りたいと思っている」


 グレゴールは言った。


 家令が頷く。


「はい」


「知りたい理由は、自分が安心したいからだ」


「その可能性が高いです」


「書け」


 家令は、もう驚かなかった。


『グレゴール公爵発言:条件内容を知りたい欲求あり。理由、自身の安心欲求の可能性高。請求不可』


 グレゴールは、その記録を見て苦い顔をした。


「請求不可か」


「はい」


「最近、お前の記録は遠慮がない」


「必要ですので」


「分かっている」


 グレゴールは、状態報告をもう一度見た。


「条件を作れるようになったのだな」


 家令は静かに言った。


「はい」


「昔のあれは、条件など作らなかった。いや、作らせなかったのか」


「後者の可能性が高いかと」


「そうだろうな」


 グレゴールは目を閉じた。


「では、今は待つ」


「はい」


「質問はしない」


「はい」


「読むかどうかを促さない」


「はい」


「条件内容を探らない」


「はい」


「……まるで命令されているようだ」


「ご自身でおっしゃっています」


「そうだったな」


 彼は、少しだけ自嘲した。


 王妃宮では、リリアナが同じ状態報告を読んでいた。


 手元に置かれた茶は、まだ湯気を立てている。


 マルタとエルンが同席していた。


「お姉様が、条件を」


 リリアナは小さく言った。


「はい」


「読むと決めたわけではない」


「はい」


「条件内容は非共有」


「はい」


「当たり前ですね」


 そう言ったのに、胸の奥がざわついた。


 知りたい。


 何を書いたのか知りたい。


 同席者に自分の名はあるのか。


 ないのだろう。


 あってほしいと思う自分がいる。


 あってはならないと思う自分もいる。


 リリアナは、すぐに記録帳を開いた。


『姉が母の覚書を読む条件を作成中。

 内容は非共有。

 私は知りたいと思った。

 同席者に自分の名があるか気になった。

 それは姉を心配する気持ちでもあり、自分が姉の近くに戻りたい気持ちでもある。

 条件内容を求めない』


 書き終えると、少しだけ息が整った。


 マルタが言った。


「よく分けました」


「分けないと、すぐ混ざります」


「はい」


「お姉様が条件を作っていることは、少し安心しました」


「はい」


「でも、少し寂しいです」


「はい」


「私が入れない場所が、増えていくようで」


 マルタは静かに答えた。


「入れない場所があることは、関係が終わることではありません」


「はい」


「むしろ、入らないことで守れる関係もあります」


 リリアナは、その言葉をじっと聞いた。


「入らないことで守る」


「はい」


「難しいです」


「難しいですね」


 リリアナは、状態報告を丁寧に畳んだ。


「王妃宮として、補足を出すべきでしょうか」


「何の補足を?」


「条件作成は受領決定ではない、という点です。王都はきっと先走ります」


「おそらく」


「では、準備だけします。まだ出しません。噂が出たら出します」


「よい判断です」


 リリアナは、少しだけ微笑んだ。


「暫定準備です」


「便利ですね」


「便利ですので」


 マルタが、わずかに笑った。


 その日の夜、北方辺境伯家では、セレスティアが自分の作った条件表をもう一度読み返していた。


 ノアは、少し離れた机で別の書類を見ている。


 部屋には静かな音だけがあった。


 紙をめくる音。


 燭台の火が揺れる音。


 遠くの廊下を歩く足音。


 セレスティアは、条件表の最後を指でなぞった。


『読まない選択を最後まで残す。条件を作ったことを、読む決定と扱わない』


 この一文があるから、息ができる。


 条件を作った。


 でも、まだ読まない。


 読まないかもしれない。


 それでいい。


 ただ、もし読む日が来ても、自分を守る線はある。


「閣下」


「はい」


「条件を作ったら、少しだけ怖さが減りました」


「はい」


「でも、別の怖さが出てきました」


「どんな怖さですか」


「読めるかもしれない、という怖さです」


 ノアは、書類から顔を上げた。


 セレスティアは箱を見ていた。


「今までは、怖すぎて読めないと思っていました。だから、読まない理由がありました」


「はい」


「でも、条件を作ったら、読む道が少しだけ見えてしまいました」


「はい」


「それが怖いです」


「当然だと思います」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「閣下は、当然と言ってくださるのが上手ですね」


「本当に当然だと思っています」


「では、安心して怖がります」


「はい」


 安心して怖がる。


 妙な言葉だ。


 でも、今の彼女には合っていた。


 セレスティアは、条件表を箱の横に置いた。


 開けない。


 今日も開けない。


 けれど、箱の前に座る自分は、昨日とは違っている。


 ただ怯えているだけではない。


 扉の前に、靴を揃え、水を置き、帰り道を確認したような感じだった。


 まだ入らない。


 でも、入るなら戻れるようにしておく。


 灯りを落とす前に、セレスティアは帳面へ一行書いた。


『読むための条件は、読まない自由を守るためにも必要だった』


 その一文を書いて、彼女はようやく寝台へ向かった。


 箱は静かに閉じたまま、机の上にあった。


 その沈黙は、以前ほど冷たくなかった。

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