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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第94話 セレスティアは、報告を読んで泣かなかった

 北方辺境伯家に、王妃宮からの定例報告が届いたのは、夕方の鐘が二つ鳴ったあとだった。


 封は薄い。


 だが、薄い封ほど油断できないことを、セレスティアはこの数週間でよく知っていた。


 厚い報告書は、まだいい。


 量があるぶん、心構えができる。


 けれど薄い封筒は、短い一文で胸の奥を正確に刺してくることがある。


 ノアが机の向かいに座っていた。


 彼は封筒へ視線を向け、すぐには何も言わなかった。


 セレスティアは、封を切る前に小さく息を吐いた。


「王妃宮からですね」


「はい」


「薄いですね」


「はい」


「薄いからといって、軽いとは限りません」


「最近、学ばれましたね」


「できれば学びたくありませんでした」


 そう言うと、ノアがほんの少しだけ笑った。


 セレスティアも、つられて少し笑う。


 その小さなやり取りがなければ、封を開ける手が止まっていたかもしれない。


 彼女は封を開け、中の紙を取り出した。


 まず目に入ったのは、件名だった。


『慈善会作業量調整会議に関する定例共有』


 セレスティアは、目を瞬いた。


 慈善会。


 作業量調整。


 王妃宮の仕事だ。


 自分宛の問いではない。


 自分の判断を求めるものでもない。


 それだけで、まず少し肩の力が抜けた。


 しかし、次の行で指が止まる。


『リリアナ様、セレスティア様の代替としてではなく、王妃宮で判断する者として会議に臨まれた』


 セレスティアは、そこで息を止めた。


 ノアが静かに尋ねる。


「読み進められますか」


「はい」


 彼女はそう答えたが、すぐには次へ進めなかった。


 代替としてではなく。


 その言葉が、胸の中で何度も反響した。


 リリアナが、自分の代わりではなく立った。


 姉の不在を埋めるためではなく。

 姉ならどうするかをなぞるためでもなく。

 王妃宮の中で、自分の判断を持つ者として。


 セレスティアは、ゆっくり続きを読んだ。


 慈善会の作業量調整会議。

 寄付品配送を礼状発送より優先すること。

 夜間作業の原則禁止。

 奉仕参加者への食事と帰路確保。

 未処理を恥として扱わないこと。

 寄付者向け説明文の作成。


 途中、リリアナが寄付者を責めるような言い方をしかけ、その場で撤回したこと。


 正式職員へ負担を移す案になりかけ、若い女官の指摘で修正したこと。


 議事録確認を当日夜に行わず、翌朝へ回したこと。


 そして、最後にマルタの所見。


『リリアナ様は本日、セレスティア様の代替としてではなく、王妃宮で判断する者として会議に臨まれた。判断には未熟さあり。ただし、訂正を受け入れ、他者の指摘を記録へ反映。現時点では暫定成功』


 暫定成功。


 セレスティアは、その四文字を見つめた。


 不思議だった。


 涙は出なかった。


 怒りも湧かなかった。


 胸が痛まないわけではない。


 むしろ、痛い。


 けれど、涙ではなかった。


 空っぽでもない。


 温かいものと、寂しいものと、苦いものが、ゆっくり混ざっているような感覚だった。


「……泣きませんね」


 セレスティアは呟いた。


 ノアが顔を上げる。


「泣きたいのですか」


「分かりません」


「泣かないといけないと思っていますか」


「少し」


「なぜ?」


「分かりやすいからです」


 セレスティアは報告書を机へ置いた。


「泣けば、嬉しかったのだと分かります。悲しかったのだとも分かります。苦しかったのだとも。でも、泣かないと……自分がどう思っているのか、少し分かりません」


 ノアは急かさなかった。


 セレスティアは、自分の胸に手を当てた。


「リリアナが、お姉様ならどうするか、と考えなかった」


「はい」


「よかったと思います」


「はい」


「心から、そう思います」


「はい」


「でも、少し寂しいです」


「はい」


 その言葉を出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 寂しい。


 言ってしまった。


 リリアナが自分なしで立てるようになることを、心から望んでいたはずなのに。


 それが実際に起きたら、寂しい。


 自分は必要なくなる。


 いや、必要なくなってよいのだ。


 リリアナのためにも、自分のためにも。


 それなのに、寂しい。


「私は、勝手ですね」


 セレスティアは言った。


「どうしてそう思いますか」


「リリアナが私にしがみつかないことを望んでいました。でも、いざそうなったと報告されると、寂しいのです」


「それは勝手というより、複雑なのでは」


「複雑」


「はい」


「便利な言葉ですね」


「別、の次に便利です」


 セレスティアは少しだけ笑った。


 笑えた。


 涙は出ない。


 でも、笑えた。


「閣下」


「はい」


「私は、姉でいることから降りたかったのに、姉として必要とされないことを寂しいと思っています」


「はい」


「矛盾しています」


「人はだいたい矛盾しています」


「閣下も?」


「もちろん」


「見えません」


「見せていないだけです」


 その返しが少し意外で、セレスティアはまた小さく笑った。


 ノアは、いつもの静かな顔で茶を注ぎ直す。


「必要とされることと、使われることは別です」


 ノアは言った。


 セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。


「必要とされることと、使われること」


「はい」


「私は、ずっと使われていた。でも、同時に、必要とされたい気持ちもあったのですね」


「そうかもしれません」


「それを認めるのは、少し怖いです」


「はい」


「必要とされたいと言うと、また自分から役割へ戻っていく気がします」


「必要とされたい気持ちを持つことと、そのために自分を差し出すことは別です」


 セレスティアは、目を伏せた。


 また、別。


 けれど今日は、その別に救われた。


 必要とされたい気持ちは、あってもいい。


 ただ、その気持ちを理由に、また自分を誰かの便利な役割へ戻さなくていい。


「書きます」


 彼女は帳面を開いた。


『王妃宮から、リリアナの慈善会議報告。

 リリアナは、私の代替ではなく、王妃宮で判断する者として会議に臨んだ。

 失敗もした。訂正もした。若い女官の指摘で案を修正した。

 暫定成功。

 私は泣かなかった。

 よかったと思った。寂しいとも思った。

 姉から降りたいのに、姉として必要とされないことが寂しい。

 必要とされることと、使われることは別。

 必要とされたい気持ちを持つことと、そのために自分を差し出すことも別』


 書き終えて、彼女はしばらくその文字を見ていた。


 泣かなかった。


 その一文が、少し冷たく見える。


 でも、冷たいわけではない。


 涙以外にも、感情はある。


 そのことを、セレスティアは最近ようやく覚え始めていた。


 そこへ、追加の報告が届いた。


 今度は王都での反応だった。


 ノアの家臣が持ってきた紙を、ノアが受け取り、目を通す。


 彼は少しだけ眉を動かした。


「何かありましたか」


「王都で、今回の会議について噂が出ています」


「どのような?」


 ノアは一瞬だけ迷った。


 セレスティアは察した。


「悪い噂ですか」


「一部、そうです」


「読ませてください」


 ノアは報告書を差し出した。


 セレスティアは読んだ。


『王妃宮のリリアナ様、ついに姉君の影を離れて判断されたとの声』


『セレスティア様が不在でも王妃宮は動くと評価する声あり』


『一方、セレスティア様はもう王妃宮に不要なのではとの揶揄』


『姉の不在こそ妹の成長を促した、という茶会話も確認』


 セレスティアは、手を止めた。


 もう王妃宮に不要。


 分かっていた。


 そういう声は出る。


 リリアナが成長すれば、必ず誰かがそう言う。


 セレスティアがいなくても大丈夫。

 むしろ、いない方がいい。

 妹が伸びる。

 姉はもう役目を終えた。


 役目。


 また、その言葉だ。


「痛いですか」


 ノアが尋ねた。


「はい」


「はい」


「でも、少し違います」


「何が?」


「以前なら、“不要”と言われるのが怖くて、何か役に立たなければと思ったかもしれません」


「はい」


「今は……腹が立ちます」


 セレスティアは、自分で言って少し驚いた。


 腹が立つ。


 悲しいより先に、怒りがある。


「リリアナが自分で立ったことを、なぜ私が不要になった話にされなければならないのでしょう」


「はい」


「私が王妃宮にいないことと、私という人間が不要であることは違います」


「はい」


「役割を降りることと、価値がなくなることも違います」


「はい」


 言葉が出る。


 今日は、涙より先に言葉が出る。


 セレスティアは報告書を机に置いた。


「腹が立ちます」


「二度目ですね」


「はい。腹が立つのです」


「よいことです」


「怒ってよいのですか」


「当然です」


 当然。


 その一言が、思ったより効いた。


 怒りは、冷静さの敵だと思っていた。


 王太子妃候補は怒りを顔に出してはいけない。

 公爵令嬢は感情的であってはいけない。

 姉は妹の成長を喜ばなければならない。

 娘は父の変化を受け入れなければならない。


 けれど、人を不要扱いする言葉に腹を立てるのは、当然なのかもしれない。


「では、書き足します」


 セレスティアは帳面に戻った。


『リリアナが立ったことを、私が不要になった話にしないでほしい。

 私は王妃宮の役割から降りたい。でも、不要な人間になりたいわけではない。

 役割を降りることと、価値がなくなることは別。

 この噂には腹が立った。怒ってよいことにする』


 書いたあと、ペン先が少し震えた。


 怒ってよいことにする。


 それもまた、新しい許可だった。


 一方、王妃宮でも、その噂は届いていた。


 リリアナは、翌朝の議事録確認をしている最中に報告を受け取った。


 読み終えた瞬間、顔色が変わった。


「……お姉様が不要、ですって?」


 声が低い。


 エルンが少し身構えた。


 マルタは、静かに見ている。


 リリアナは報告書を握りしめかけ、すぐに手を緩めた。


 紙を傷めてはいけない。


 記録は記録。


 怒りで破ってはならない。


「私が昨日、会議を進めたことが、どうしてお姉様を不要と言う話になるのですか」


 リリアナの声は震えていた。


 今度は泣きそうな震えではない。


 怒りだ。


「王妃宮が少し動いただけで、お姉様を役目の終わった道具みたいに……」


「リリアナ様」


 マルタが短く呼んだ。


 リリアナは、はっとした。


「申し訳ありません。今の“道具”という言い方は」


「強いですが、感情としては理解できます。ただ、文書には使いません」


「はい」


 リリアナは深呼吸した。


「王妃宮として補足を出します」


「内容は?」


「リリアナ個人の成長を、セレスティア様の価値低下として扱わないこと。誰かが自立することは、誰かを不要にすることではないこと」


 エルンがすぐに筆を取った。


 リリアナは言葉を探しながら言った。


「それから……セレスティア様は王妃宮の穴を埋めるための人ではなかった。だから、その穴が少し埋まり始めたことをもって、セレスティア様が不要になったとは言えない」


 マルタが頷いた。


「よいです」


「でも、少し長いですね」


「長くて構いません。誤解が少ない方が大事です」


 リリアナは白紙に書いた。


『王妃宮補足』


 一、リリアナ様が会議に臨まれたことを、セレスティア様の価値低下として扱わない。

 二、誰かが自立することは、別の誰かを不要にすることではない。

 三、セレスティア様は王妃宮の不足を埋めるための道具ではなかった。したがって、王妃宮が不足を整理し始めたことをもって、セレスティア様が不要になったとは扱わない。

 四、役割を降りることと、人の価値が失われることを混同しない。


 書き終えると、リリアナは少しだけ唇を噛んだ。


「お姉様に、これを見せたいです」


 ぽつりと漏れた言葉だった。


 マルタは静かに尋ねる。


「なぜ?」


「お姉様が、傷ついているかもしれないからです」


「はい」


「私が、お姉様は不要ではないと伝えたい」


「はい」


「でも、それは私が安心したいだけかもしれません」


「その可能性もあります」


 リリアナは目を伏せた。


「では、定例共有に入れるだけにします。お姉様宛にはしません」


「よい判断です」


「届くかどうかは、向こうが決める」


「はい」


「直接、扉を叩かない」


「はい」


 リリアナは、少し寂しそうに笑った。


「扉の前で大声を出さない、ですね」


「その通りです」


 王妃宮の補足は、その日のうちに共有された。


 北方辺境伯家に届いたのは、夜だった。


 セレスティアは夕食後にそれを読んだ。


『誰かが自立することは、別の誰かを不要にすることではない』


 その一文で、彼女はしばらく動かなかった。


 リリアナの言葉だ。


 たぶん。


 少なくとも、リリアナが必要だと思って出した言葉だ。


 胸の奥が温かくなる。


 同時に、少し苦しくなる。


 セレスティアは、紙をそっと机に置いた。


「リリアナが、怒ったのでしょうね」


 ノアが頷く。


「文面からは、そのように見えます」


「私のために?」


「少なくとも、あなたを不要扱いする言葉に対して」


「……そうですか」


 セレスティアは、目を伏せた。


 泣かない。


 やはり、泣かない。


 でも、胸は動いている。


 涙だけが感情ではない。


「嬉しいです」


 セレスティアは言った。


「はい」


「でも、会いたいとは思いません」


「はい」


「この言葉は嬉しい。でも、リリアナとすぐ話したいわけではありません」


「はい」


「それで、いいのですよね」


「もちろんです」


 セレスティアは、帳面を開いた。


『リリアナが補足を出した。

 誰かが自立することは、別の誰かを不要にすることではない。

 この言葉は嬉しかった。

 リリアナが私を不要扱いされることに怒ったのだと思う。

 嬉しい。でも、会いたいとは思わない。

 言葉を受け取ることと、人を迎え入れることは別』


 書き終えると、セレスティアはペンを置いた。


 今日は、泣かなかった。


 けれど、泣かなかったことを寂しいとは思わなかった。


 泣かなくても、自分は確かに感じていた。


 妹の成長を喜んだ。

 姉として少し寂しかった。

 不要扱いに腹を立てた。

 妹の補足に少し救われた。


 感情は、涙よりずっと面倒だ。


 でも、面倒なまま置いていい。


 セレスティアは、母の覚書の箱を見た。


 箱は今日も閉じている。


 だが、箱の周りに置かれた紙の中に、新しく二枚が加わった。


『役割を降りることと、価値がなくなることは別』


『言葉を受け取ることと、人を迎え入れることは別』


 灯りを落とす前に、セレスティアはもう一度、王妃宮の補足を読んだ。


 誰かが自立することは、別の誰かを不要にすることではない。


 リリアナは、姉のいない場所で立ち始めた。


 セレスティアは、それを読んで泣かなかった。


 泣かなかったけれど。


 その夜、彼女は少しだけ深く眠れた。

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