第93話 リリアナ、姉のいない場所で立つ
その日の王妃宮は、朝から少しだけ騒がしかった。
理由は、慈善会である。
冬期支援の追加配分、療養所への布と薬草、孤児院への保存食、退役兵家族への薪券。
名目だけを並べれば、美しい。
けれど、美しい名目の裏側には、いつも数える手が必要だった。
布を何反。
薬草を何束。
保存食を何箱。
薪券を何枚。
どの家から、どの名義で、いつ届いたか。
足りないものは何か。
重複しているものは何か。
礼状を出す相手は誰か。
今までなら、その帳簿の端に、誰かがこう書いたかもしれない。
『セレスティア様へ確認』
あるいは、
『セレスティア様なら分かる』
でも、今日その名前は使えない。
使ってはいけない。
リリアナは、小会議室の中央に座っていた。
目の前には、慈善会実行係の女官たち、寄付品管理担当、礼状係、そして古参の貴族夫人が二人。
マルタは少し離れた場所に立っている。
座らない。
あくまで見守る立場だ。
その距離が、リリアナにはやけに遠く感じられた。
「では、始めます」
リリアナはそう言った。
声は、思ったより小さかった。
自分で分かった。
それでも、誰も代わりに言い直してはくれない。
リリアナは喉を整え、もう一度、少し強く言った。
「本日の議題は、次回慈善会の作業量調整です。王妃宮では、名誉労働と実務労働の区分、夜間作業の制限、食事と休息の確保について暫定基準を出しました。その基準に合わせて、作業手順を組み直します」
そこまでは、用意してきた文だ。
問題は、その後だった。
最初に口を開いたのは、ロセッタ子爵夫人だった。
年配の貴婦人で、慈善会には長く関わっている。
柔らかく笑うが、その笑みの下に固いものがある人だった。
「リリアナ様。お気持ちは立派ですわ。若い方の休息を守ることも、もちろん大切です。ただ、慈善会というものは時期を逃せませんの。療養所の布も、孤児院の保存食も、冬が深まる前に届けねばなりませんでしょう?」
「はい」
「それなのに夜間作業を制限するとなると、仕分けが終わりません。礼状も遅れます。寄付者への礼が遅れれば、来年以降の寄付にも響きます」
もう一人、メイベル伯爵夫人が頷いた。
「昔は、多少遅くなっても皆で仕上げたものですわ。名誉で動く人々の善意に、水を差してしまうのではありませんか」
名誉。
また、その言葉。
リリアナは、壁に貼られた紙をちらりと見た。
『名誉では、夜食は出ません』
今日もそこにある。
助け舟のようで、同時に試験のようでもあった。
「名誉を否定するつもりはありません」
リリアナは言った。
「ですが、作業が午後三時から夜十時まで続き、茶と菓子のみで済まされていた記録があります。これは改める必要があります」
ロセッタ子爵夫人は、困ったように眉を下げた。
「それは言い方の問題ではありませんか。若い令嬢たちは喜んで参加しておりましたわ。王妃宮の慈善会で働けることは、社交上も大きな経験ですもの」
リリアナは、少し詰まった。
喜んで参加していた。
確かに、そう見えたのかもしれない。
昔の自分なら、そう思っただろう。
王妃宮に呼ばれる。
慈善会に参加する。
寄付品を仕分ける。
礼状の封をする。
特別なことに見える。
自分が役に立っている気がする。
だから、疲れたとは言いにくい。
「喜んでいたことと、負担がなかったことは別です」
リリアナは言った。
その瞬間、マルタがわずかに目を細めた。
たぶん、悪くない返答だったのだろう。
けれど、ロセッタ子爵夫人は引かなかった。
「では、どうなさるのです? 夜間作業をやめれば間に合いません。夕食を出すとなれば費用もかかります。帰路の馬車まで手配するなら、人員も増えます。理想は分かりますけれど、慈善会は理想だけでは回りませんわ」
「それは……」
リリアナは手元の紙を見た。
用意してきた案がある。
けれど、夫人の言うことも正しい。
作業を減らす。
時間を短くする。
食事を出す。
帰路を確保する。
全部を一度にやれば、今度は王妃宮側の女官が潰れる。
リリアナは焦った。
頭の中に、いつもの言葉が浮かぶ。
お姉様なら。
お姉様なら、どうするのだろう。
セレスティアなら、きっと美しく整理した。
誰も傷つけず、誰も怒らせず、帳簿も整え、夫人たちも納得させ、療養所にも期日通り届けた。
そう思った瞬間、リリアナは指先に力を入れた。
違う。
ここで姉を呼ばない。
心の中でも、姉に会議を押しつけない。
リリアナは、ゆっくり息を吸った。
「すべてを同時に守ることはできません」
部屋が静かになった。
言ってから、自分でも少し驚いた。
以前の自分なら、絶対に言わなかった。
すべて守ります。
そう言いたかった。
でも、それは結局、どこかで誰かに無理を押しつける言葉だ。
「今回の慈善会では、優先順位を決めます」
リリアナは続けた。
「第一に、療養所と孤児院へ届く物資の遅延を最小限にします。第二に、参加者の夜間作業を原則なくします。第三に、礼状は期日を延ばします」
ロセッタ子爵夫人が目を見開く。
「礼状を遅らせるのですか」
「はい」
「寄付者への礼を後回しに?」
「後回しではありません。期日変更です」
リリアナは、自分の声が少し震えているのを感じた。
それでも続ける。
「物資を必要としている方々へ届けることと、寄付者へ美しい礼状を出すことが同日に重なり、どちらかを選ぶ必要があるなら、物資を優先します。礼状には、作業基準見直しにより発送日を変更した旨を明記します」
メイベル伯爵夫人が眉を寄せた。
「寄付者は不快に思うかもしれませんわ」
「そうかもしれません」
「来年の寄付が減るかもしれません」
「その可能性もあります」
認める。
認めた上で、進める。
リリアナは、胸の中でそう繰り返した。
「ただ、参加した若い令嬢や女官たちが夜遅くまで作業し、食事も十分でない状態で礼状を整えたと知った寄付者も、不快に思うのではないでしょうか」
夫人たちは黙った。
リリアナは、ここで少しだけ失敗した。
勢いに乗りすぎて、こう言ってしまったのだ。
「本当に慈善を大切にする方なら、理解してくださるはずです」
言った瞬間、マルタが小さく咳払いをした。
リリアナは、はっとした。
危ない。
今の言い方では、理解しない寄付者は慈善を大切にしていない、という意味になってしまう。
それは余計な敵を作る。
ロセッタ子爵夫人の目が細くなった。
「まあ。理解しなければ、慈善を大切にしていないと?」
リリアナは、すぐに頭を下げた。
「今の言い方は不適切でした。撤回します」
部屋の空気が、少し動いた。
謝った。
しかも、早かった。
リリアナ自身、驚くほど自然に言えた。
「理解してくださるはず、ではなく、理解を求める説明をこちらが用意するべきでした」
マルタが、今度は何も言わなかった。
リリアナは修正する。
「寄付者の中には、不快に思われる方もいるでしょう。その不快を否定せず、こちらの基準変更の理由を説明します。礼状の遅延は、怠慢ではなく、物資配送と作業者保護を優先した結果だと明記します」
エルンが素早く書き留める。
ロセッタ子爵夫人は、少しだけ表情を緩めた。
「……失礼ながら、リリアナ様」
「はい」
「以前より、ずいぶんと率直にお認めになりますのね」
皮肉にも聞こえる。
感心にも聞こえる。
リリアナは、少しだけ微笑んだ。
「認めないと、また誰かに直してもらうことになりますので」
「誰か、とは?」
夫人が少し含みを持たせて尋ねる。
ここで姉の名前を引き出したいのだ。
リリアナは分かった。
以前なら、そこで「お姉様なら」と言ったかもしれない。
でも今日は言わない。
「王妃宮の手順です」
リリアナは答えた。
「誤った発言は、その場で訂正する。記録に残す。次の文書に反映する。それだけです」
ロセッタ子爵夫人は、一瞬だけ目を瞬いた。
姉の名前は出なかった。
セレスティア様なら、という便利な影は、小会議室に入ってこなかった。
リリアナは、そのまま議事へ戻った。
「作業手順の変更案を出します」
彼女は紙を広げた。
一、寄付品仕分けは、物資種別ごとに優先順位を付ける。
二、療養所向け布・薬草、孤児院向け保存食を第一配送とする。
三、礼状は第一配送完了後、三日以内に発送する。
四、奉仕参加者の作業は午後五時まで。延長する場合は夕食を出し、午後七時まで。
五、午後七時以降の作業は、王妃宮正式職員のみ。ただし人数と休息を確保する。
六、作業が残った場合は、未処理として記録し、次日に回す。
七、未処理を恥として扱わない。
七番で、若い女官が小さく息を呑んだ。
未処理を恥として扱わない。
王宮では、未処理という言葉はほとんど罪のように扱われる。
だが、未処理を隠すから、誰かが夜中に処理する。
リリアナは、そこを変えたかった。
メイベル伯爵夫人が言う。
「未処理と記録すると、王妃宮の不手際に見えるのでは?」
「見えるかもしれません」
リリアナは答えた。
「ですが、処理できなかったものを処理済みに見せる方が危険です」
「それは、そうですが」
「未処理を出さない努力はします。でも、出た場合は隠さず記録します。責任者、原因、翌日の処理予定も添えます」
エルンが書く。
その筆の音が、リリアナを支えた。
ロセッタ子爵夫人は、しばらく黙っていた。
やがて、小さくため息をつく。
「分かりました。では、寄付者向け説明文はどうなさいますの」
リリアナは、一瞬止まった。
そこはまだ、書けていなかった。
頭の中にまた、姉の影が差す。
セレスティアなら、きっともう用意している。
美しく、角が立たず、それでいて筋の通った文を。
でも、いない。
ここにいるのは、リリアナだ。
リリアナは、白紙を出した。
「ここで作ります」
マルタがほんの少しだけ目を上げた。
ロセッタ子爵夫人が驚いたように言う。
「今、ですか?」
「はい。皆様のご意見も入れたいので」
逃げていない。
だが、一人で抱え込むのでもない。
それはリリアナにとって、新しいやり方だった。
「まず、文頭です」
彼女は書きながら声に出した。
『このたび、王妃宮慈善会における物資配送および礼状発送の手順を一部変更いたしました』
「堅いですね」
エルンが小さく言った。
リリアナは少しむっとした。
「堅いですか」
「はい」
「では、代案を」
「“皆様からお預かりした善意を、必要とする場所へ確実に届けるため”ではいかがでしょう」
「善意、は危険では?」
マルタが言った。
「善意を理由に、作業者負担を隠してきた経緯があります」
「では、“寄付品”で」
エルンが即座に直す。
「“皆様からお預かりした寄付品を、必要とする場所へ確実に届けるため”」
「それにしましょう」
リリアナは頷いた。
ロセッタ子爵夫人が、少しだけ身を乗り出した。
「礼状が遅れることは、最初に書くべきですわ。後から出すと言い訳に見えます」
「なるほど」
リリアナは素直に頷く。
「では」
『皆様からお預かりした寄付品を、必要とする場所へ確実に届けるため、今年度より物資配送を礼状発送に先行して行います。これに伴い、礼状の到着が例年より数日遅れる場合がございます』
メイベル伯爵夫人が言った。
「作業者保護についても書くのでしょう?」
「はい」
「そこは、あまり生々しく書きすぎない方がよろしいですわ。夜食がどうこうと書くと、王妃宮の内部事情を晒すようです」
リリアナは一瞬、反論しそうになった。
でも、止まった。
確かに、説明の場所を間違えると、別の問題になる。
「では、作業環境の改善、という表現では?」
エルンが提案する。
マルタが首を振る。
「少しぼかしすぎです」
リリアナは考えた。
「作業に携わる者の休息と安全を確保するため、ではどうでしょう」
マルタが頷いた。
「よいと思います」
リリアナは書いた。
『また、作業に携わる者の休息と安全を確保するため、夜間作業を制限し、作業時間を明確化いたします』
ロセッタ子爵夫人が、静かに言った。
「悪くありませんわ」
リリアナは、思わず少し笑った。
「ありがとうございます」
「ただし、最後に寄付者への敬意は入れるべきです」
「はい」
リリアナは最後の文を書いた。
『皆様のご厚意を損なうものではなく、寄付品をより確実に届け、関わる者が継続して慈善活動に携われるようにするための変更です。ご理解賜れますようお願い申し上げます』
書き終えると、部屋に小さな沈黙が落ちた。
エルンが清書し、マルタが確認し、夫人たちが文言を見た。
誰も、セレスティアの名前を出さなかった。
リリアナは、そのことに遅れて気づいた。
会議が、姉の不在のまま終わろうとしている。
それは少し怖く、少し寂しく、そして少しだけ誇らしかった。
だが、最後にもう一つ問題が起きた。
若い女官が、おずおずと手を挙げたのだ。
「あの、リリアナ様」
「はい」
「午後七時以降は正式職員のみ、とありますが……そうしますと、結局、私たち女官が残ることになります」
部屋が止まった。
リリアナも止まった。
確かに。
奉仕参加者を守るために、正式職員へ負担を移しただけではないのか。
マルタは何も言わない。
助けてくれない。
ここは自分で気づくべき場所なのだ。
リリアナは、紙を見た。
午後七時以降の作業は、王妃宮正式職員のみ。
安全そうな文だ。
でも、その「正式職員」の顔を見ていなかった。
「……その通りです」
リリアナは言った。
「今の案では、負担が女官たちに移ります」
若い女官が、ほっとしたような、怯えたような顔をした。
「申し訳ありません。生意気を」
「いいえ。言ってくれてありがとうございます」
リリアナは、すぐに紙へ線を引いた。
『午後七時以降の作業は、王妃宮正式職員のみ』
その行を消す。
「修正します」
彼女は新しく書いた。
『午後七時以降の作業は原則行わない。緊急時のみ、責任者承認、食事、帰路、翌日の休息調整を条件とする。正式職員へ負担を移す場合も、未処理原因として記録する』
マルタが、そこで初めてはっきり頷いた。
「よろしい」
リリアナは、胸をなで下ろした。
危なかった。
姉の代わりに立とうとして、今度は女官たちへ負担を押しつけるところだった。
成長とは、間違えないことではない。
間違えたときに、誰かが声を上げられる場所を作ることなのかもしれない。
会議が終わった頃には、リリアナはぐったりしていた。
議事録は厚くなり、修正案は三枚になり、寄付者向け説明文も暫定版としてまとまった。
ロセッタ子爵夫人は帰り際、リリアナへ小さく頭を下げた。
「リリアナ様」
「はい」
「今日の会議、少し危なっかしいところもございましたけれど」
「はい……」
「悪くありませんでしたわ」
リリアナは目を瞬いた。
「ありがとうございます」
「セレスティア様とは違う進め方ですわね」
その名が出た瞬間、リリアナの胸が少し跳ねた。
だが、夫人の声に悪意はなかった。
比べてはいる。
でも、ただ貶めているわけではない。
リリアナは、ゆっくり答えた。
「はい。私は、お姉様とは違います」
言えた。
逃げずに。
劣等感だけでもなく。
誇張でもなく。
「違うので、間違えることも多いと思います」
「今日も間違えましたわね」
「はい」
リリアナは苦笑した。
「でも、修正します」
ロセッタ子爵夫人は少しだけ笑った。
「そのようですわね」
夫人たちが去ったあと、リリアナは椅子に沈み込んだ。
マルタが茶を置く。
「疲れましたか」
「とても」
「限界ですか」
「限界の少し手前です」
「なら、今日はここで止めましょう」
「まだ議事録の確認が」
「エルンが一次確認します。リリアナ様は、明日の午前に確認」
「でも」
言いかけて、リリアナは壁を見た。
『品位で眠れるなら苦労しません』
『名誉では、夜食は出ません』
自分で決めた基準を、自分で破るところだった。
「……明日の午前にします」
「よろしい」
マルタは満足そうに頷いた。
リリアナは茶を飲んだ。
温かい。
少し苦い。
でも、今の彼女にはちょうどよかった。
「マルタ様」
「はい」
「私は今日、お姉様なしで立てましたか」
マルタは、すぐに甘い答えをくれなかった。
「立とうとしていました」
「立てた、ではなく?」
「途中で傾きました」
「はい」
「他の方の声で修正しました」
「はい」
「最後まで倒れませんでした」
リリアナは、その答えをしばらく味わった。
立った、ではない。
立とうとしていた。
傾いた。
修正した。
倒れなかった。
その方が、今日の自分には合っていた。
「では、暫定成功ですね」
「はい。暫定成功です」
リリアナは、少し笑った。
そして、自分の記録帳を開いた。
『慈善会作業量調整会議。
姉の名前を使わず進行。途中で“お姉様なら”と思ったが、言わなかった。
礼状遅延、物資優先、作業者休息を決定。
寄付者を責めるような発言をしかけ、訂正。
正式職員へ負担を移す案になりかけ、若い女官の指摘で修正。
私は立てた、というより、立とうとして、傾いて、支えられて、倒れなかった。
暫定成功』
書き終えると、胸が少し温かくなった。
その日の夕方、王妃宮から北方辺境伯家へ報告が送られた。
セレスティア宛ではない。
定例共有として、ノア経由で届く形だった。
リリアナが、自分の判断で慈善会作業量調整会議を進めたこと。
セレスティアの名前を使わずに進行したこと。
失言を訂正したこと。
負担移転の危険を若い女官の指摘で修正したこと。
議事録を翌日に回し、当日夜の作業を止めたこと。
報告書の最後には、マルタの短い所見があった。
『リリアナ様は本日、セレスティア様の代替としてではなく、王妃宮で判断する者として会議に臨まれた。判断には未熟さあり。ただし、訂正を受け入れ、他者の指摘を記録へ反映。現時点では暫定成功』
その報告がセレスティアの手に届くのは、少し後のことになる。
リリアナは、それを知らない。
知らないまま、王妃宮の小会議室で、冷めかけた茶を飲みながら壁を見上げていた。
紙だらけの壁。
その中に、新しく一枚加えられた。
『未処理を恥として扱わない』
リリアナは、その紙を見て、小さく呟いた。
「私も、未処理ばかりですね」
マルタが答える。
「人はだいたい未処理です」
「マルタ様も?」
「もちろんです」
「本当に?」
「かなり」
「少し安心しました」
「それは何より」
リリアナは笑った。
今日は泣かなかった。
泣きそうにはなった。
失敗もした。
詰まりもした。
でも、姉の名前を呼んで逃げなかった。
それだけで、今日は十分だった。
王妃宮の窓の外で、夕暮れの鐘が鳴る。
リリアナは立ち上がった。
「帰ります」
「はい」
「議事録は明日」
「はい」
「夜食は?」
エルンが横から尋ねた。
リリアナは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「今日は、夜食が必要になる前に帰ります」
「良い判断です」
マルタが言った。
その声に、ほんの少しだけ誇らしさが混じっていた。
リリアナは、それに気づいたけれど、気づかないふりをした。
褒められたことに縋らないために。
でも、胸の奥で小さく灯った温かさだけは、そっと持って帰ることにした。




