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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第90話 謝罪文の下書きは、まだ送らない

 アデルが謝罪文を書き始めたのは、王太子府の記録室から戻った夜だった。


 机の上には、まだ整理しきれていない紙が積まれている。


『彼女へ』


『セレスティア嬢なら分かる』


『茶会後、非公式確認』


『候補者実習兼、招待名簿修正確認』


 その紙片たちは、どれも小さい。


 小さいのに、重かった。


 正式な命令書ではない。

 だからこそ、責任の所在が薄い。


 けれど、セレスティアの時間は確かに削られていた。


 王太子府の誰かが「彼女へ」と書き、誰かが彼女へ渡し、誰かが処理済みとして扱った。


 アデル自身も、その流れの中にいた。


 知らなかった、とは言えない。


 全てを把握していなかったとしても、知らないで済ませていた。


 それもまた、責任だった。


 彼は白紙を前にして、長くペンを持ったまま動けずにいた。


 エドは少し離れた机で、今日の検証記録を整理している。


 ラウルは退室していた。


 部屋には、紙をめくる音と、燭台の火がかすかに揺れる音だけがあった。


 アデルは、ようやく一行目を書いた。


『セレスティアへ』


 そこで止まった。


 セレスティア様、と書くべきか。


 セレスティア・レイノルド嬢、と書くべきか。


 かつて婚約者だった距離で書くのか、王太子として書くのか、加害側の一人として書くのか。


 最初の呼びかけだけで、もう詰まる。


 彼はしばらくその文字を見つめ、線を引いた。


 新しい紙を出す。


『セレスティア・レイノルド嬢へ』


 固い。


 だが、今の距離としてはその方がよいのかもしれない。


 次を書く。


『私は、王太子府の過去記録を確認し、あなたへ多くの非公式実務が流れていたことを知りました。』


 知りました。


 そこでまた止まる。


 知りました、ではない。


 知ってしまった、でもない。


 自分が知らないでいたことを、今確認した。


 その方が正しい。


 彼は線を引く。


『私は、王太子府の過去記録を確認し、あなたへ多くの非公式実務が流れていたことを、今になって確認しました。』


 今になって。


 痛い。


 だが、そこは消せなかった。


 続ける。


『王太子妃候補という名目で、あなたに教育ではなく実務を担わせていたことを、深く反省しています。』


 反省しています。


 軽い。


 アデルは眉を寄せた。


 反省しています、という言葉は便利だ。


 書いた瞬間、少しだけ自分がまともな人間になった気がする。


 だが、その気がすること自体が危険だった。


 彼はまた線を引いた。


『王太子妃候補という名目で、あなたに教育ではなく実務を担わせていた記録が確認されました。これは王太子府の責任であり、当時それを止めなかった私の責任でもあります。』


 少しはましだ。


 だが、まだ足りない。


 続ける。


『あなたがどれほど苦しかったか、今の私には想像することしかできません。』


 ここで、アデルはペンを置いた。


 想像することしかできません。


 これも、危うい。


 想像した気になって、彼女の痛みを分かったことにしてしまう。


 セレスティアの痛みは、彼の想像の中に納まるものではない。


 彼は、その一文にも線を引いた。


『あなたがどのように感じていたかを、私は決めることができません。』


 これは必要だと思った。


 続ける。


『ただ、記録から、あなたの時間と労力が正式な責任の外側で使われていた事実は確認できます。』


 事実。


 感情ではなく、事実。


 まずそこだ。


 アデルは、少し息を吐いた。


 しかし、そこから先が書けない。


 謝罪文なら、謝らなければならない。


 申し訳なかった。


 許してほしい。


 いや、許してほしいは違う。


 それは自分の願いだ。


 彼女に求めることではない。


 なら、何を書く。


 謝るだけでいいのか。


 いや、謝ることすら、相手に負担を渡す行為になる。


 読ませる。

 受け取らせる。

 返事を考えさせる。

 許すか許さないかを選ばせる。


 謝罪文は、こちらの罪悪感を紙にして相手の机へ置くことにもなる。


 アデルは、ペンを握り直した。


『この文を、あなたにすぐ送るべきではないと分かっています。』


 書いてから、苦笑した。


 謝罪文の中に、送らない理由を書いている。


 おかしな文だ。


 だが、今の自分にはその方が正直だった。


 エドが、少し離れた場所から声をかけた。


「殿下」


「何だ」


「筆が止まっています」


「見ていたのか」


「音が止まりましたので」


「嫌な観察力だな」


「職務です」


 アデルは苦く笑った。


「読んでくれるか」


 エドは一瞬だけ迷った。


「下書きを、ですか」


「ああ」


「よろしいのですか」


「まだ送らない。だからこそ、今のうちに見てほしい」


「承知しました」


 エドは席を立ち、アデルの机の横に来た。


 下書きを読む。


 表情は変わらない。


 読み終えて、しばらく黙った。


 アデルは言った。


「悪いか」


「悪くはありません」


「その言い方は、良くもないということだな」


「はい」


 アデルは椅子にもたれた。


「言え」


 エドは、文面を机に戻した。


「この文は、殿下がご自身を許さないために書いている部分と、セレスティア様に謝るために書いている部分が混ざっています」


 アデルは黙った。


 エドは続ける。


「特に後半です。“すぐ送るべきではないと分かっています”という一文は正しいと思います。ただ、その前の部分が、殿下ご自身の反省の整理としての色が強い」


「謝罪文ではなく、反省文か」


「はい。かなり」


 容赦がない。


 だが、必要だった。


 アデルは下書きを見た。


 確かに、これはセレスティアのためというより、自分が自分を直視するための文だった。


 もちろん、それも必要だ。


 だが、それを彼女へ送るのは違う。


「私は、謝りたいのだと思っていた」


「はい」


「だが、書いているうちに、自分が楽になりたいのだと分かってきた」


「その要素はあります」


「あるか」


「あります」


 エドは即答した。


 アデルは少しだけ笑った。


「本当に遠慮がない」


「遠慮する場面ではありません」


「そうだな」


 彼は下書きを見つめた。


 捨てるべきか。


 いや、捨てればまたなかったことになる。


 送るべきではない。


 だが、消すべきでもない。


「状態区分だな」


 アデルが言うと、エドが頷いた。


「はい」


「未送付。自己反省要素多。謝罪文としては未整理」


「その通りです」


「書くな、今のは」


「もう覚えました」


「なら書け」


 エドは、別紙に記録した。


『アデル殿下作成・セレスティア様宛謝罪文下書き第一。未送付。自己反省要素多。謝罪文としては未整理。送付不可。王太子府内検証報告書完成後、再検討』


 アデルは、その記録を見て息を吐いた。


「送付不可、か」


「はい」


「厳しいな」


「必要です」


「分かっている」


 彼は下書きを封筒には入れなかった。


 折りもしなかった。


 そのまま、未送付綴じへ入れる。


 自分のために書いた言葉を、彼女の机へ置かないために。


「先に検証報告書だ」


 アデルは言った。


「はい」


「謝罪は、その後だ。王太子府が何をしたのか、何を見落としたのか、何を変えるのか。それを整理しないまま謝っても、ただの感情の投げ込みになる」


「その通りかと」


「エド」


「はい」


「私は、謝罪すら彼女に仕事として渡そうとしていたのかもしれない」


 エドはすぐには答えなかった。


 アデルも、答えを求めていなかった。


 ただ、その言葉も記録させた。


 同じころ、王妃宮では、リリアナが便箋の前で固まっていた。


 彼女もまた、謝罪文を書こうとしていた。


 宛先は、セレスティア。


 だが、一行目から進まない。


『お姉様へ』


 そう書いて、止まった。


 お姉様。


 その呼び方には、甘えがある。


 でも、セレスティア様、と書くと距離がありすぎる。


 姉上、でもない。


 セレスティア姉様、でも何か違う。


 呼びかけだけで、手が震える。


 リリアナは、何とか続きを書いた。


『私は、ずっとお姉様に甘えていました。』


 甘えていました。


 軽い。


 そう思った。


 甘えた、で済むことではない。


 姉の時間を使った。

 姉を安心の道具にした。

 姉なら許してくれると思った。


 それを書こうとして、息が詰まる。


 ペン先が紙の上で止まったまま、インクが小さな黒い点を作った。


「リリアナ様」


 マルタの声がした。


 リリアナは肩を跳ねさせた。


「マルタ様」


「何を書いていますか」


「……謝罪文です」


「送る予定ですか」


「いいえ。まだ、送れません」


「なら、見せてください」


 リリアナは少し迷った。


 だが、紙を差し出した。


 マルタは読んだ。


 短すぎる文を。


 そして言った。


「これは、まだ謝罪文ではありません」


 リリアナは、予想していたのに胸が痛んだ。


「はい」


「これは、謝りたい気持ちの入口です」


「入口……」


「はい。まだ、何に対して謝るのかが書かれていません」


 リリアナは俯いた。


「書こうとすると、怖くなります」


「なぜ?」


「お姉様が、本当に傷ついていたことを認めるからです」


「はい」


「そして、私がその一部だったことも」


「はい」


「でも、書かなければ謝罪になりません」


「はい」


 マルタは、便箋を机へ戻した。


「ただし、今すぐ書き切る必要はありません」


「でも」


「謝罪文を書くことを、自罰に使っていませんか」


 リリアナは、言葉を失った。


 昨日、姉妹教育記録を読み進めようとして止められたときと同じだ。


 自分を罰するように読む。


 今度は、自分を罰するように書こうとしている。


「……使っています」


 リリアナは小さく言った。


「なら、今日は送れません」


「はい」


「書くなら、謝るために書きます。自分を傷つけるためではありません」


「はい」


「それに、セレスティア様はまだ受け取る準備を示していません」


「はい」


「こちらの謝りたい気持ちだけで、扉を叩いてはいけません」


 リリアナは、涙をこらえながら頷いた。


「はい」


 彼女は便箋を見た。


『お姉様へ』


『私は、ずっとお姉様に甘えていました。』


 たった二行。


 でも、その二行ですら重かった。


「これは、どうすれば」


「状態区分です」


 マルタが即答した。


 リリアナは、泣きそうな顔で少し笑った。


「何でも状態区分ですね」


「便利ですので」


「はい」


 リリアナは別紙に書いた。


『セレスティア様宛謝罪文下書き第一。未送付。謝罪内容未整理。自罰的作成の兆候あり。送付不可。姉妹教育記録の確認継続後、再検討』


 書いている途中で涙が落ちた。


 けれど、破らなかった。


 その紙も、便箋も、未送付綴じへ入れた。


 送らない。


 捨てもしない。


 今は、置く。


「マルタ様」


「はい」


「謝りたいのに送らないのは、逃げでしょうか」


「いいえ」


「本当に?」


「はい。相手の受け取る権利を守るためなら、逃げではありません」


 リリアナは、目元を拭った。


「では、今日は送らないことを選びます」


「はい」


「でも、いつか書きます」


「書けるようになったら」


「はい。書けるようになったら」


 その夜、北方辺境伯家には、王太子府と王妃宮から二つの報告が届いた。


 どちらも「回答不要」だった。


 セレスティアは、ノアの向かいで静かに読んだ。


 アデルが謝罪文の下書きを作成したこと。


 未送付であること。


 自己反省要素が多く、謝罪文として未整理であること。


 王太子府内検証報告書完成後に再検討すること。


 次に、リリアナ。


 謝罪文の下書き二行。


 未送付。


 謝罪内容未整理。


 自罰的作成の兆候あり。


 送付不可。


 セレスティアは、二つの報告を読み終えて、しばらく何も言わなかった。


 ノアも待っていた。


「……送られませんでした」


 セレスティアは言った。


「はい」


「二人とも」


「はい」


「少し、安心しました」


「はい」


 その安心は、思ったより大きかった。


 もし今日、謝罪文が届いていたら。


 読むかどうか。

 読まないならどう返すか。

 読んだらどう受け止めるか。

 許さない自分は冷たいのか。


 また考えなければならなかった。


 彼らは、それを送らなかった。


 自分たちの謝りたい気持ちを、セレスティアの机へ置かなかった。


 それは、初めての配慮かもしれない。


「謝罪文が来ないことに、安心する日が来るとは思いませんでした」


 セレスティアは苦笑した。


 ノアは静かに言う。


「謝罪は、受け取る側にも負担を生みます」


「はい」


「今回は、その負担を置かなかった」


「はい」


 セレスティアは、帳面を開いた。


『アデル殿下とリリアナが謝罪文を書き始めた。どちらも未送付。送付不可として保管。

 少し安心した。

 謝罪文が届かないことに安心した。

 謝られたくないわけではない。でも、今はまだ受け取る準備がない。

 彼らが自分の謝りたい気持ちを、私の机へ置かなかったことは、たぶん前進』


 書き終えて、ペンを置く。


 胸の奥が少しだけ熱かった。


 許したわけではない。


 会いたいわけでもない。


 謝罪を待っていたわけでもない。


 それでも、彼らが送らなかったことに、セレスティアは小さな変化を感じた。


「閣下」


「はい」


「私は、いつか謝罪文を読みたいと思うのでしょうか」


「分かりません」


「ですよね」


「はい」


「今は、読みたくありません」


「はい」


「でも、書いたことを隠されるのも嫌だったかもしれません」


「では、未送付記録の共有はよかったのかもしれません」


「はい」


 セレスティアは、少し考えた。


 謝罪文そのものではなく、謝罪文が未送付であること。


 その状態だけを知る。


 また状態区分だ。


 でも、今はそれがちょうどよかった。


「母の覚書も、似ていますね」


 セレスティアは言った。


「存在は知っている。内容はまだ知らない」


「はい」


「謝罪文も、存在は知った。内容は知らない」


「はい」


「全部、少しずつですね」


「はい」


 母の覚書の箱は、今日も閉じている。


 しかし、その周りにある世界は、少しずつ変わっている。


 父は自分の記録を読んでいる。

 王太子府は非公式依頼を洗い出している。

 リリアナは自罰で読まない練習をしている。

 アデルは謝罪文を送らない判断をした。


 誰も完璧ではない。


 むしろ、不格好で、遅くて、失敗ばかりだ。


 それでも、以前とは違う。


 セレスティアは、箱の横に新しい紙を置いた。


『謝罪は、送る前にも責任がある』


 そして、灯りを落とす前にもう一行、帳面へ書いた。


『今日は、謝られなかったことに救われた』


 それは不思議な一文だった。


 でも、今の彼女には、それが本当だった。

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