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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第89話 名誉は、食事にも休息にもならない

 王妃宮の小会議室の壁は、もはや壁というより、紙でできたもう一つの宮殿だった。


『必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草』


『患者の寝台に名札は不要。帳簿には責任を残す』


『患者は、善意の証拠品ではありません』


『名誉では、夜食は出ません』


『品位で眠れるなら苦労しません』


 最後の一枚だけ、少しだけ字が踊っている。


 書いたのはエルンだった。


 真面目な書記官のくせに、こういうときだけ妙に筆に感情が出る。


 リリアナは、その紙を見上げて、また少し笑ってしまった。


「エルン」


「はい」


「この字、少し楽しそうですね」


「……申し訳ございません」


「謝らなくていいです。悔しいですが、私も少し楽しいです」


 リリアナがそう言うと、部屋の端で資料を整理していた若い女官が、堪えきれずに小さく笑った。


 マルタが咳払いをする。


 その瞬間、全員が背筋を伸ばした。


 ただ、マルタの目元もほんの少しだけ柔らかかった。


「笑うのは構いませんが、議題へ戻ります」


「はい」


 リリアナは椅子へ座り直した。


 今日の議題は、王妃宮内の「名誉労働」の洗い出しである。


 王太子府が「候補者教育」と「実務労働」を分ける暫定案を出したことで、王妃宮も避けて通れなくなった。


 見習い。

 補助。

 勉強のため。

 将来のため。

 名誉ある経験。


 そういう言葉で、どれほどの仕事が誰かへ渡されてきたのか。


 最初に出てきたのは、慈善会の帳簿だった。


 年に数回、王妃宮主催の慈善会がある。


 貴族夫人たちが寄付を募り、孤児院や療養所、退役兵家族への支援を行う。


 美しい行事だ。


 実際に役立ってもいる。


 だが、その裏で帳簿を整え、寄付品を分類し、礼状の宛名を確認し、欠品を調整していたのは、正式な会計官だけではなかった。


「若い女官見習いと、貴族令嬢の奉仕参加者ですね」


 エルンが資料を読み上げる。


「奉仕参加者?」


 リリアナが眉を寄せる。


「はい。名目上は、王妃宮慈善活動への理解を深めるための奉仕参加です」


「実際は?」


「寄付品の仕分け、礼状の下書き、帳簿補助、夜間の封緘作業などを行っています」


「作業時間は?」


「記録がある範囲では、最長で午後三時から夜十時まで」


 リリアナは、手元のペンを止めた。


「夜十時」


「はい」


「夕食は?」


 エルンが別紙を見る。


「軽食提供あり、と書かれています」


 部屋の空気が少し変わった。


 リリアナはゆっくり聞いた。


「軽食とは?」


 エルンは気まずそうに言った。


「茶と菓子です」


「菓子」


 マルタの声が低くなった。


「夕食ではありませんね」


「はい」


 沈黙。


 壁の紙が、やけに目立った。


『名誉では、夜食は出ません』


 リリアナは、静かに言った。


「正確には、名誉では夕食も出ない、ですね」


 若い女官が、また少し笑いそうになった。


 だが今度は笑えなかった。


 午後三時から夜十時。


 その間、茶と菓子だけで帳簿補助と封緘作業。


 奉仕。

 名誉。

 理解を深めるため。


 そう呼ばれてきたものの形が、少しずつ変わって見えてくる。


「マルタ様」


「はい」


「これは、教育でしょうか。実務でしょうか」


「実務です」


 即答だった。


「慈善活動への理解を深める意味は?」


「あるでしょう。ですが、寄付品を分類し、帳簿を補助し、礼状を封緘する作業は実務です」


「では、実務として扱います」


 リリアナは白紙を引き寄せた。


『王妃宮慈善活動における奉仕参加者の扱い――暫定修正』


 一、作業内容を教育と実務に分ける。

 二、実務を担う場合、作業時間、休憩、食事、責任者を明記する。

 三、午後六時を超える作業には、菓子ではなく食事を用意する。

 四、夜間作業は原則禁止。必要時は事前承認と帰路確保。

 五、奉仕参加を断ったことを、慈善精神不足と扱わない。

 六、名誉、奉仕、勉強という言葉で、身体的負担を消さない。


 書き終えたあと、リリアナは自分の字を見つめた。


 昔の自分なら、こんなことを考えただろうか。


 考えなかった。


 慈善会に参加できるのは名誉。


 王妃宮で奉仕できるのは貴重な経験。


 そう思っていた。


 そして、そう思っている自分が、たぶん誰かの夜食を消していた。


「……私も、消す側でしたね」


 リリアナが呟くと、マルタが静かに答えた。


「今、気づきました」


「はい」


「気づいたなら、変えます」


「はい」


 リリアナは頷いた。


「変えます」


 その声は、小さいがはっきりしていた。


 王太子府でも、同じ頃、別の資料がアデルの前に置かれていた。


 王太子妃候補だけではない。


 王太子府にも「名誉」の名で処理されていた仕事があった。


 若い貴族令息の政務見習い。

 騎士候補の式典補助。

 地方貴族子弟の王都研修。


 表向きは、将来のための経験。


 実際には、資料運搬、招待客誘導、夜間の会場撤収、返礼品の分類。


 アデルは、一覧を見て眉間を押さえた。


「どこも同じか」


 エドが答える。


「王宮全体にある慣行です」


「慣行、か」


 その言葉も便利だ。


 長く続いているから正しいように見える。


 皆がやってきたから問題ないように見える。


 しかし、長く続いたからといって、誰も苦しくなかったことにはならない。


 アデルは、ひとつの記録に目を止めた。


『地方伯爵家子息、王太子府式典補助。午後二時より夜十一時まで。翌朝、王宮礼拝出席』


「翌朝?」


「はい」


「睡眠は?」


 エドは記録を探した。


「宿泊先への帰着が深夜だったため、四時間程度かと」


「四時間で礼拝か」


「はい」


 アデルは、少し目を閉じた。


 セレスティアだけではない。


 もちろん、セレスティアの件が中心だ。


 だが、彼女に起きたことは、王宮全体にある構造の中で起きた。


 名誉ある場に参加させる。


 だから多少の無理は当然。


 若いうちの苦労は将来のため。


 王宮を学ぶなら、これくらい耐えなければならない。


 アデル自身も、そう言われて育った。


 だから、他人にもそうしていた。


 自分がされたから、相手にもしてよい。


 そんな雑な継承を、伝統と呼んできた。


「エド」


「はい」


「王太子府でも、夜間実務の基準を作る」


「承知しました」


「名誉参加、見習い、候補者、研修生。呼び名に関係なく、一定時間を超えたら食事と休息を義務化する」


「はい」


「翌朝に王宮行事がある場合、前夜の終了時間を制限する」


「はい」


「それから」


 アデルは少しだけ顔をしかめた。


「“若いうちの苦労は将来のため”という文言を、公式説明に使うな」


 エドが一瞬だけ笑いそうになった。


「よく使われています」


「知っている」


「代替表現は?」


「不要だ。苦労を美化するな」


 エドは真面目に書いた。


『苦労を美化しない』


 ラウルが溜息をつく。


「殿下、それもかなり反発を招きます」


「招くだろう」


「王宮経験の厳しさは、一定の選別にもなっています」


「選別と消耗は別だ」


 アデルは言った。


「厳しい教育が必要な場面はある。だが、食事を出さないことや睡眠を削ることを、品位や忠誠心の試験にするな」


 ラウルは黙った。


 エドはそのまま書いた。


 その日の昼、王妃宮から届いた壁の追加文を見て、アデルは少しだけ笑った。


『名誉では、夜食は出ません』


『品位で眠れるなら苦労しません』


 アデルはしばらくその紙を見ていた。


「王妃宮は、少し強くなりすぎていないか」


 エドが答える。


「必要な強さでは」


「セレスティアと同じことを言うな」


「そうなのですか」


「いや、ノア閣下が言いそうだ」


 アデルは苦笑した。


 それから、自分の机の端に小さく書いた。


『名誉は、食事にも休息にもならない』


 エドがそれに気づく。


「貼りますか」


「貼るな」


「よろしいのですか」


「これは私の机に置く」


 アデルは、その紙を引き出しにしまわなかった。


 机の端に置いた。


 自分が毎日見る場所に。


 北方辺境伯家では、セレスティアが王妃宮と王太子府の報告を読んでいた。


 午後の光が窓から差し込んでいる。


 机の上には、母の覚書の箱と、相変わらず増え続ける紙。


 そこに今日の報告が加わった。


 慈善会の奉仕参加者に夕食を出すこと。

 夜間作業の制限。

 王太子府の見習い・研修生にも休息基準を作ること。

 苦労を美化しないこと。


 そして、例の壁の言葉。


『名誉では、夜食は出ません』


『品位で眠れるなら苦労しません』


 セレスティアは、やはり少し笑った。


「王妃宮の壁、見てみたい気もします」


 ノアが向かいで茶を置いた。


「行きますか」


「行きません」


「即答ですね」


「はい。今行くと、きっと私自身が壁の一部にされます」


「なるほど」


「でも、少しだけ嬉しいです」


「はい」


「私が言わなかったことを、誰かが言葉にしている」


 セレスティアは、報告書を見つめた。


 名誉は、食事にも休息にもならない。


 当たり前のことだ。


 あまりにも当たり前で、だからこそ誰も言わなかったこと。


 王宮では、当たり前の身体の話が、なぜか最も後回しにされる。


 食べたか。

 寝たか。

 座ったか。

 帰れたか。


 そんなことより、品位、名誉、学習、奉仕が先に来る。


 セレスティアは、過去の自分を思い出した。


 茶会で微笑み、帰邸してから書類を直し、夜更けに冷めた茶を飲んだ日。


 空腹だった。


 けれど、空腹だと言うより先に、明日の返礼文を整えた。


 眠かった。


 けれど、眠いと言うより先に、リリアナの朝の予定を確認した。


 疲れていた。


 けれど、疲れたと言うより先に、父へ提出する要約をまとめた。


 自分の身体は、いつも最後だった。


「私は、自分の身体を王宮へ置き忘れていたのかもしれません」


 セレスティアは言った。


 ノアは静かに聞いていた。


「心より先に、身体を」


「はい」


「眠いとか、お腹が空いたとか、肩が痛いとか、そういうものを、品位に合わないと思っていました」


「はい」


「王太子妃候補は、空腹を顔に出してはいけない。眠気を悟られてはいけない。疲労を言い訳にしてはいけない」


「はい」


「でも、身体はありました」


「あります」


 その言葉が、妙に深く響いた。


 身体はある。


 肩が凝る。

 腹が減る。

 眠くなる。

 冷える。

 熱が出る。


 そんな当たり前のことを、自分はずっと低く見ていた。


 セレスティアは帳面を開いた。


『名誉は、食事にも休息にもならない。

 王妃宮と王太子府で、夜間作業、食事、休息の基準が作られ始めた。

 私は、自分の身体を王宮へ置き忘れていたのかもしれない。

 空腹も眠気も疲労も、品位の欠如ではない。

 ただの身体の声だった』


 書き終えたあと、彼女は自分の手を見た。


 細い指。


 昔、筆を持ち続けて痛くなった指。


 礼法稽古で背筋を伸ばしすぎて固くなった肩。


 茶会の靴で痛くなった足。


 それらは全部、自分のものだった。


 誰かの名誉の一部ではない。


「閣下」


「はい」


「今日は少し散歩したいです」


「庭ですか」


「はい。長くなくていいので」


「分かりました」


 ノアは立ち上がった。


 セレスティアも席を立つ。


 以前なら、報告を読んだあとすぐに返答を考えていた。


 今は、少し歩くことを選ぶ。


 身体を、自分の側へ戻すように。


 庭に出ると、夕方の風が頬に触れた。


 冷たすぎない。


 草の匂いがする。


 セレスティアは、ゆっくり歩いた。


「疲れたら戻ります」


「はい」


「疲れる前に戻ってもいいですか」


「もちろんです」


「それも、昔は難しかったのです」


 ノアは何も言わなかった。


 セレスティアは続ける。


「限界まで頑張ってから休むものだと思っていました」


「今は?」


「限界の前に戻る練習をします」


「よい練習です」


 セレスティアは少し笑った。


 庭を半分ほど歩いたところで、彼女は立ち止まった。


「戻ります」


「はい」


「まだ歩けますが、戻ります」


「はい」


 それだけのことだった。


 でも、セレスティアには小さな勝利だった。


 限界ではないところで戻る。


 まだできるのに、やめる。


 名誉のためでも、品位のためでも、誰かのためでもなく、自分の身体のために。


 その夜、セレスティアは夕食をいつもより少し多く食べた。


 スープと、柔らかく煮た野菜と、薄い肉。


 食べ終えたあと、帳面に一行だけ書き足した。


『今日は、疲れきる前に庭から戻った。少し変な感じがした。でも、悪くなかった』


 母の覚書の箱は、今日も開けない。


 けれど、箱の前にいる自分は、昨日より少しだけ身体を持っていた。


 眠くなれば眠っていい。


 空腹なら食べていい。


 疲れたら戻っていい。


 そんな当たり前のことを取り戻すのにも、時間がかかる。


 セレスティアは灯りを落とす前に、箱へ目を向けた。


「名誉ではなく、休息を」


 小さく呟いたその言葉は、誰かへの宣言というより、自分への許可だった。

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