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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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88/110

第88話 候補という名の無給労働

王太子府の記録室で、最初に見つかったのは時間だった。


 金額ではない。

 命令書でもない。

 誰かの悪意ある言葉でもない。


 ただ、時間だった。


 セレスティア・レイノルドが王太子妃候補として王宮に出入りした日。

 茶会に同席した日。

 王妃宮の見習いとして資料を読んだ日。

 外交夫人との挨拶に立ち会った日。

 王太子府の招待名簿を確認した日。

 リリアナの件で公爵家と王妃宮の間に立った日。


 それらを一つずつ並べていくと、紙の上に奇妙な影が生まれた。


 影というより、もう一つの勤務表だった。


 アデルは、その一覧を見ていた。


 エドが淡々と読み上げる。


「三年前、秋期。王妃宮行事補助、計十二回。外交茶会同席、計七回。王太子府招待名簿確認、記録上四回。ただし非公式紙片による依頼が六件」


「非公式が正式を上回っているな」


 アデルの声は低かった。


「はい」


「続けてくれ」


「同時期、リリアナ様関連の公爵家内調整と見られる非公式相談が五件。王太子府側からの返礼文案確認が三件。王妃宮物資配分への意見照会が二件」


「……それらは、候補者教育の範囲に入っていたのか」


 エドは、少しだけ間を置いて答えた。


「当時の分類上は、王太子妃候補実習に含まれています」


「実習」


 アデルは、その言葉を繰り返した。


 軽い。


 あまりにも軽い。


 実習。


 そう書けば、何もかも学びになる。


 労働ではなくなる。


 責任ある作業ではなくなる。


 失敗すれば候補者の未熟。

 成功すれば王太子府の円滑な運営。


 その仕組みが、紙の上に浮かんでいた。


 ラウルが慎重に口を開いた。


「殿下。王太子妃候補が王宮業務に触れること自体は、慣例として不自然ではありません」


「分かっている」


 アデルは即答した。


「触れることと、担うことは別だ」


 ラウルは言葉を失った。


 アデルは、机の上の一覧を指した。


「これは触れている量ではない。担っている量だ」


 エドが小さく頷く。


「特に、招待名簿修正と返礼文案確認は、王太子府内の書記官が行うべき実務です」


「それを、候補者実習として彼女へ回した」


「はい」


「対価は?」


 会議室が静まった。


 アデルはもう一度聞いた。


「対価は」


 エドは記録を確認した。


「金銭報酬はありません。候補者教育費として、教師、衣装、移動、行事出席費は王宮側と公爵家側で負担されています」


「それは、彼女が働いた対価ではない」


 アデルの声は静かだった。


「王宮へ出入りするための費用だ」


「はい」


「では、仕事の対価は」


「記録上は、名誉、学習機会、王太子妃候補としての経験、とされています」


 名誉。


 アデルは、椅子の背にもたれた。


 その言葉が出るだろうとは思っていた。


 思っていたのに、聞くとやはり胸が冷えた。


「名誉は、時間を返さない」


 ぽつりと彼が言うと、エドが筆を構えた。


 アデルはそれに気づき、苦笑もせずに言った。


「書け」


 エドは書いた。


『アデル殿下発言:名誉は、時間を返さない』


 ラウルが眉をひそめる。


「殿下。貴族令嬢に対し、王宮での実習へ金銭報酬を発生させるとなると、従来の慣例全体を見直す必要があります」


「見直す」


 アデルは言った。


「だが、すべてに金銭報酬を出すという話ではない。教育なのか、実務なのかを分ける」


「分ける、ですか」


「そうだ。教育なら、目的と指導と時間制限がいる。実務なら、責任者と対価と拒否権がいる」


 ラウルは黙った。


 エドは、もう新しい紙を用意していた。


 アデルは表題を書いた。


『候補者教育と実務労働の区分――暫定案』


 一、候補者教育

 目的、指導者、時間、振り返り記録を置く。

 教育内容は候補者本人の成長のためであり、王太子府の未処理業務を移す目的ではない。


 二、実務労働

 王太子府、王妃宮、外交、社交、会計等の実際の処理を担うもの。

 正式依頼、責任者、範囲、期限、成果物、対価または代替補償を明記する。


 三、混合禁止

 教育名目で実務を継続的に担わせない。

 実務成果を期待する場合、教育ではなく実務として扱う。


 四、拒否権

 候補者は、実務依頼を断る権利を持つ。

 断ったことを資質不足、忠誠不足、王家への非協力と扱わない。


 五、対価

 金銭、休息、正式評価、将来権限、補助者付与など、内容に応じて明示する。

 名誉のみを対価としない。


 名誉のみを対価としない。


 その行を書いた瞬間、会議室の空気が重くなった。


 アデル自身も、その重さを感じた。


「これは、王都で反発されるな」


 エドが言う。


「されます」


「令嬢が報酬を求めるのか、と」


「おそらく」


「王家に仕える名誉を軽んじるのか、と」


「言われます」


 アデルは小さく息を吐いた。


「だが、名誉を軽んじることと、名誉だけで人の時間を使うことは別だ」


 エドは、すぐに記録した。


 ラウルは苦い顔をした。


「殿下、その文はさらに火をつけます」


「つくなら、つくだろう」


「よろしいのですか」


「よくはない」


 アデルは、机に置かれた『彼女へ』の紙片を見た。


「だが、火がつかないように言葉を丸めてきた結果が、これだ」


 誰も何も言わなかった。


 同じ頃、王妃宮にも王太子府の暫定案が届いた。


 リリアナは、最初の数行を読んだだけで表情を変えた。


「名誉のみを対価としない……」


 マルタが向かいに座っている。


 エルンは、少し緊張した顔で控えていた。


「王太子府が、ここまで書いたのですね」


「はい」


 リリアナは文書を最後まで読み、静かに机へ置いた。


「お姉様は、ずっと名誉で働いていたのでしょうか」


 マルタは答える。


「記録上、そう扱われていた部分は多いと思われます」


「名誉」


 リリアナは、その言葉を口にして、少し顔を歪めた。


「便利ですね」


「便利です」


「名誉だから、断れない。名誉だから、報酬はいらない。名誉だから、疲れたと言えない」


「はい」


「名誉だから、姉が壊れても誰も帳簿に書かない」


 言ってから、リリアナは自分で息を呑んだ。


 少し強すぎた。


 けれど、撤回できなかった。


 マルタも訂正しなかった。


「王妃宮にもありますね」


 リリアナは言った。


「候補者実習、妃教育、女官見習い、慈善参加……名誉で済まされているもの」


「あります」


「洗い出しましょう」


 エルンが目を瞬いた。


「すべてですか」


「すべては無理です。まず、王妃宮内で継続的に実務成果を出しているのに、教育扱いされているもの」


 マルタが少しだけ頷く。


「妥当です」


 リリアナは白紙を出した。


『王妃宮内・名誉労働確認項目』


 一、教育名目で継続的実務を担っていないか。

 二、見習い、候補、補助、実習という名で責任者不在の処理をさせていないか。

 三、成果物が王妃宮の実務に利用されているか。

 四、本人の学習記録、指導記録、休息記録があるか。

 五、名誉、経験、勉強になる、という言葉で対価や休息を省いていないか。

 六、断る権利が実質的にあるか。


 書き終えて、リリアナは息を吐いた。


「これは、お姉様だけの話ではありません」


「はい」


「王妃宮全体の話です」


「はい」


「そして、私自身の話にもなります」


 マルタが見る。


 リリアナは少し苦笑した。


「私は今、王妃宮で実務を学んでいます。でも、学ぶことと、ただ使われることは違う。私も、自分が学んでいるのか、誰かの穴を埋めているだけなのか、確認しなければいけません」


「よい視点です」


「怖いです」


「怖いですね」


「でも、見ます」


 そのとき、古参女官の一人が小さく呟いた。


「名誉では、夜食は出ませんものね」


 部屋が一瞬、静まった。


 リリアナは、その女官を見た。


「今、何と?」


 女官は慌てた。


「あ、いえ、申し訳ございません。昔、夜遅くまで慈善会の帳簿を整えていた頃、先輩がよく言っていたのです。名誉名誉と言われても、夜食は自分で用意しなければならない、と」


 リリアナは、しばらくその言葉を見つめるように黙った。


 そして、真剣な顔で言った。


「貼ります」


 エルンが即座に紙を用意した。


 マルタが少しだけ眉を上げる。


「本当に貼るのですか」


「貼ります」


 リリアナは清書した。


『名誉では、夜食は出ません』


 小会議室の壁に、また一枚増えた。


 しんとしたあと、誰かが小さく笑った。


 その笑いは、少しだけ苦くて、少しだけ救われるような笑いだった。


 北方辺境伯家に、王太子府と王妃宮の文書が届いたのは夕方だった。


 セレスティアは、まず王太子府の暫定案を読んだ。


『候補者教育と実務労働の区分』


『名誉のみを対価としない』


 その一文で、手が止まった。


 次に、王妃宮の報告。


 名誉労働の洗い出し開始。


 そして、壁に貼られた新しい言葉。


『名誉では、夜食は出ません』


 セレスティアは、それを読んだ瞬間、思わず息を漏らした。


 笑いだった。


 ほんの小さな笑い。


 でも、確かに笑った。


 ノアが彼女を見る。


「笑いましたね」


「はい」


「よい文ですか」


「とても」


 セレスティアは、もう一度読んだ。


 名誉では、夜食は出ません。


 なんて身も蓋もない。


 なんて現実的で、なんて救われる言葉だろう。


 王太子妃候補の名誉。

 王宮に仕える名誉。

 家を代表する名誉。

 姉としての名誉。

 良い娘としての名誉。


 それらは、夜の空腹を満たしてくれなかった。


 眠気を消してくれなかった。


 疲れた手を休ませてくれなかった。


 セレスティアは、昔の夜を思い出した。


 王妃宮の行事資料を直していた夜。


 晩餐後、リリアナが泣き止んだあと、父に提出する書類の下書きを整えた夜。


 茶会で微笑み続けたあと、帰邸してから返礼文案を確認した夜。


 夜食が出たこともあった。


 出なかったことも多かった。


 出たとしても、それは労働の対価ではなく、気遣いだった。


 帳簿には載らない。


「私は、名誉でお腹がいっぱいになると思っていたのかもしれません」


 セレスティアは言った。


 ノアは静かに返す。


「本当は?」


「なりませんでした」


「はい」


「眠くもなりました」


「はい」


「疲れもしました」


「はい」


「でも、それを言うのは、名誉を軽んじることだと思っていました」


「はい」


 セレスティアは、帳面を開いた。


『名誉では、夜食は出ません。

 王妃宮の古参女官の言葉。

 笑ってしまった。でも、胸に刺さった。

 私は名誉で空腹をごまかし、名誉で眠気を隠し、名誉で疲れを見ないふりをしていた。

 名誉を大切にすることと、名誉だけで働かされることは別』


 書き終えて、ペンを置く。


「閣下」


「はい」


「私が担った実務に、今さら対価を求めるのは醜いでしょうか」


 ノアは少しだけ考えた。


「対価を求めることと、過去の労働を正しく分類することは別です」


「また別ですね」


「はい」


「私は、お金がほしいわけではありません」


「はい」


「でも、無償だったと認めるのが怖いのです」


「なぜ?」


「自分が、本当に使われていたと認めることになるから」


 ノアは、何も言わなかった。


 セレスティアは続けた。


「候補として学んでいた。家のために必要だった。王宮のために役立った。そう思えば、まだ耐えられました。でも、無給労働だったと言われると……」


 言葉が詰まった。


 自分の時間が、あまりにも安く扱われていたようで。


 自分自身が、安く扱われていたようで。


「腹が立ちます」


 セレスティアは、やっと言った。


「はい」


「悲しいです」


「はい」


「恥ずかしいです」


「なぜ恥ずかしいのですか」


「気づかなかったから」


「気づかないようにされていたのでは」


 その言葉で、胸の奥が少し揺れた。


 気づかなかった。


 気づかないようにされていた。


 その二つは違う。


 全部自分の愚かさにしなくてもいいのかもしれない。


 セレスティアは、帳面にもう一行書いた。


『気づかなかったことと、気づかないようにされていたことは別』


 書き終えると、少しだけ息が楽になった。


 王都では、すぐに反発が起きた。


「令嬢が報酬を求める時代になったのですか」


「王宮で学ばせていただく名誉を、労働などと」


「王太子妃候補が実務に触れるのは当然でしょう」


「でも、実務を担っていたなら、範囲は決めるべきでは?」


「名誉では夜食は出ません、ですって。王妃宮も俗っぽくなりましたわね」


「俗っぽいのではなく、現実的なのでは」


「現実ばかり見ていては、王宮の品位が」


「品位で眠れるなら苦労しませんわ」


 最後の一言で、若い令嬢たちの茶会に小さな笑いが起きた。


 品位で眠れるなら苦労しない。


 その言葉も、翌日にはどこかの壁に貼られそうな勢いだった。


 王太子府では、反発の報告を受けたアデルが苦い顔をした。


「予想通りだな」


 エドが頷く。


「はい。名誉を軽んじているとの声が強いです」


「名誉は軽んじない」


 アデルは言った。


「だが、名誉を理由に休息や対価を消すことは認めない」


「そのまま回答しますか」


「いや、もう少し整理する」


 彼は白紙を取り、書いた。


『名誉と対価の区分』


 一、王宮に仕える名誉は存在する。

 二、名誉は、責任ある実務の範囲、時間、休息、対価を消す理由にはならない。

 三、名誉を受ける者にも、身体と時間がある。

 四、名誉による参加と、継続的実務労働を分ける。

 五、名誉を理由に拒否権を奪わない。


 エドがその文を読み、静かに言った。


「以前の王太子府なら、絶対に出さなかった文ですね」


「だろうな」


「殿下ご自身も」


「出さなかった」


 アデルは即答した。


「名誉を与えているつもりだった。まさか、それで人の時間を奪っているとは思わなかった」


 ラウルが言った。


「殿下。そこまでご自身を責める必要は」


「責めるためではない」


 アデルは、ラウルを見た。


「次に同じことをしないためだ」


 ラウルは黙った。


 王妃宮では、リリアナが「名誉では夜食は出ません」の紙を見上げていた。


 その横に、エルンがこっそり新しい紙を持って立っている。


「何ですか、それ」


 リリアナが尋ねると、エルンは少し気まずそうに見せた。


『品位で眠れるなら苦労しません』


 リリアナは、数秒黙った。


 そして、吹き出した。


「貼ります」


「本当に?」


「貼ります」


 マルタが後ろから言った。


「貼るなら、品位の定義を別紙で」


「マルタ様、そこまで真面目にしなくても」


「冗談です」


「今のは冗談なのですね」


 小会議室に、久しぶりに軽い笑いが広がった。


 だが、その笑いの奥で、王妃宮は確実に変わり始めていた。


 名誉。

 品位。

 候補。

 見習い。


 美しい言葉の下に隠れていた労働が、少しずつ名前を取り戻していく。


 夜、北方辺境伯家で、セレスティアは王都の反応まで含めた報告を読み終えた。


 壁に貼られたらしい二枚の言葉。


『名誉では、夜食は出ません』


『品位で眠れるなら苦労しません』


 セレスティアはまた笑った。


 今度は、少し長く。


「王妃宮、強くなりすぎではありませんか」


 ノアが淡々と答える。


「必要な強さでは」


「そうですね」


 セレスティアは、母の覚書の箱を見た。


 今日も開けない。


 だが、少しだけ部屋の空気が違う。


 重い箱の周りに、夜食だの品位だの、妙に現実的な言葉が増えたせいかもしれない。


「閣下」


「はい」


「今日は、少しお腹が空きました」


 ノアは一瞬だけ目を瞬いた。


 それから、静かに立ち上がった。


「夜食を用意させます」


 セレスティアは、少し笑った。


「名誉ではなく?」


「もちろん、食べられるものを」


「お願いします」


 その夜、セレスティアは温かいスープを飲んだ。


 ただのスープだ。


 王宮の名誉も、候補者の品位も、母の覚書も入っていない。


 温かくて、塩気があって、胃に落ちるもの。


 それが、今夜の彼女には必要だった。


 帳面には、最後に一行だけ書いた。


『名誉ではなく、スープを飲んだ。少し、生き返った』


 それは、どんな制度文書よりも正直な記録だった。

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