第87話 役割から降りる自由
王太子府の会議室には、朝から紙の音だけが続いていた。
誰かが咳払いをする。
誰かが椅子を引く。
誰かが新しい綴じを机へ置く。
それ以外は、ほとんど沈黙だった。
アデルの前には、王太子妃候補に関する過去記録が積まれている。
表題だけ見れば、どれも華やかだった。
『王太子妃候補教育補助記録』
『候補者社交実習予定』
『王妃宮連携見習い業務』
『外交茶会同席記録』
だが、中身は華やかではなかった。
そこにあったのは、役割の積み重ねだった。
候補だから同席。
候補だから確認。
候補だから調整。
候補だから学習。
候補だから非公式依頼。
何度も出てくるその言葉を、アデルは目で追った。
「候補、か」
声にすると、ひどく軽い言葉に聞こえた。
王太子妃候補。
セレスティアは、まだ王太子妃ではなかった。
正式な王宮官吏でもない。
王妃宮の女官でもない。
王太子府の書記官でもない。
政務補佐官でもない。
それなのに、王太子府は彼女に仕事を流していた。
候補だから。
その一語で。
エドが、別の記録を差し出す。
「殿下。こちらは候補者社交実習予定の一覧です」
アデルは受け取った。
そこには、茶会、晩餐、慈善会、外交夫人との挨拶、王妃宮行事、王太子府主催の小規模会合がびっしりと並んでいる。
その横に、細い字で備考があった。
『終了後、王妃宮物資配分について確認』
『茶会後、隣国大使夫人への返礼案を相談』
『晩餐前、リリアナ嬢対応について非公式打合せ』
『社交実習兼、招待名簿修正確認』
社交実習兼。
アデルは、その言葉を見て目を閉じた。
兼、という文字が恐ろしく便利に使われている。
社交実習兼、確認。
同席兼、調整。
見習い兼、処理。
兼ねる。
つまり、別の仕事を重ねる。
本人が学ぶための時間に、王太子府の未処理を載せる。
「これは、実習ではない」
アデルは言った。
ラウルが顔を上げる。
「殿下」
「実習なら、目的が必要だ。何を学ばせるのか、誰が指導するのか、終了後に何を振り返るのか」
「はい」
「これは、社交の場に彼女を置き、そのついでに仕事を渡しているだけだ」
エドが静かに記録する。
アデルは、もう止めなかった。
「王太子妃候補であることは、無制限に王太子府の仕事を受ける資格ではない」
言いながら、自分の胸に刺さった。
それは、今の自分に都合のよい正論ではない。
過去の自分を裁く言葉だった。
ラウルは、少し苦しそうに言った。
「当時は、候補者として王宮に慣れていただく意味もありました」
「なら、王宮に慣れる時間として扱うべきだった」
アデルは即座に返した。
「慣れてもらうと言いながら、こちらの不足を埋めさせるのは違う」
会議室に沈黙が落ちる。
アデルは紙を一枚取った。
表題を書く。
『王太子妃候補業務範囲に関する暫定整理』
一、候補者教育と王太子府業務を混同しない。
二、候補者教育には、目的、指導者、時間、振り返り記録を置く。
三、王太子府業務を依頼する場合は、正式依頼、範囲、期限、責任者を明記する。
四、候補者であることを理由に、非公式処理を継続的に担わせない。
五、候補者には、依頼を断る権利がある。
六、断ったことを、候補者としての資質不足と扱わない。
六番を書いた瞬間、アデルの手が止まった。
断る権利。
セレスティアに、それはあったのだろうか。
制度上は、あったのかもしれない。
しかし、実際にはなかった。
断れば、王太子府が困る。
王妃宮が困る。
リリアナが困る。
公爵家が困る。
アデルが困る。
セレスティアは、その全部を知っていた。
だから断らなかった。
いや、断れなかった。
「候補者には、役割から降りる自由がある」
アデルは低く言った。
エドが筆を止める。
「今の一文も?」
「入れろ」
アデルは紙から目を離さなかった。
「王太子妃候補であることは、一つの役割だ。だが、役割から降りられないなら、それは候補ではなく拘束だ」
ラウルが息を呑む。
少し強すぎる言葉だった。
だが、アデルは訂正しなかった。
強い言葉が必要なところだった。
同じ頃、王妃宮では、リリアナが別の意味で「役割」と向き合っていた。
小会議室の壁には、相変わらず紙が多い。
けれど、今日は壁ではなく、机の上に一枚の白紙が置かれていた。
リリアナはその前で、ずっとペンを握ったまま動けずにいた。
マルタは向かいに座っている。
「書けませんか」
「はい」
「何を書こうとしているのです」
「妹、という役割についてです」
リリアナは、そう言ってから少し笑った。
「自分で言うと、変ですね」
「変ではありません」
「私は、ずっと妹でした」
「はい」
「お姉様に助けられる妹。お父様に守られる妹。アデル殿下に選ばれたかった妹。母を恋しがる妹。弱くても許される妹」
言葉にするたび、胸が重くなる。
妹。
その役割は、リリアナにとって甘い檻でもあった。
守られる。
許される。
泣けば誰かが来てくれる。
姉が何とかしてくれる。
でも同時に、幼いままにされる役割でもあった。
自分で決めない。
自分で責任を持たない。
誰かに説明してもらう。
誰かに支えてもらう。
「妹から降りることはできるのでしょうか」
リリアナが尋ねると、マルタは少しだけ首を傾げた。
「姉妹関係そのものは消えません」
「はい」
「ですが、“助けられるだけの妹”という役割からは降りられます」
「降りられる……」
「はい」
リリアナは、その言葉をゆっくり受け取った。
姉妹であることは変わらない。
でも、妹という役割の中身は変えられる。
助けられるだけではなく、待つ妹。
許される前提ではなく、受け取られない謝罪を準備する妹。
姉の代わりではなく、自分の責任で立つ妹。
いや、妹というより、一人の人間。
リリアナは、ようやく白紙に書いた。
『妹という役割から降りる自由』
一、姉に助けられるだけの妹ではいない。
二、姉に許される前提で謝らない。
三、姉の代わりに王妃宮を動かそうとしない。
四、姉がいなくても、自分の判断を持つ。
五、姉を支えたい気持ちと、姉にしがみつきたい気持ちを分ける。
六、妹であることを、責任を持たない理由にしない。
六番を書いたあと、リリアナは静かに息を吐いた。
「痛いです」
「はい」
「でも、必要ですね」
「はい」
「お姉様から離れるみたいです」
「離れることと、捨てることは別です」
リリアナは、少しだけ笑った。
「マルタ様も、別の使い方が自然になりましたね」
「便利ですので」
「本当に」
そのとき、エルンが王太子府から届いた文書を持って入ってきた。
「リリアナ様。王太子府より、候補者業務範囲に関する暫定整理です」
リリアナは受け取り、目を通した。
そして、ある一文で手を止めた。
『候補者には、役割から降りる自由がある』
リリアナは、しばらく動けなかった。
同じ日に、アデルも同じ言葉へ辿り着いていた。
「殿下も……」
声が小さく漏れる。
マルタが尋ねた。
「どうしました」
「役割から降りる自由、と」
「王太子府も同じところへ来たのですね」
「はい」
リリアナは、自分の紙を見下ろした。
妹という役割から降りる自由。
候補者という役割から降りる自由。
姉という役割から降りる自由。
王太子という役割から降りる自由は、あるのだろうか。
リリアナはふと、そう思った。
午後、アデルが王妃宮を訪れた。
いつもの連絡会議のためだったが、今日は二人とも、手元に似た紙を持っている。
リリアナは少し迷ってから、自分の紙を見せた。
「私も、同じことを考えていました」
アデルは、紙を読んだ。
『妹という役割から降りる自由』
彼は少しだけ息を呑んだ。
「君もか」
「はい」
「私は、候補者について書いた」
「読みました」
「そうか」
二人は向かい合って座った。
以前なら、ここで感情が近づきすぎていたかもしれない。
お互いの痛みを見つけ、すぐに慰め合い、距離を縮める。
だが今は、少し違う。
リリアナは聞いた。
「殿下は、王太子という役割から降りたいと思ったことはありますか」
アデルは一瞬、答えに詰まった。
重い問いだった。
だが、彼は逃げなかった。
「ある」
短い答え。
リリアナは静かに頷いた。
「でも、降りられない?」
「簡単には」
「はい」
「だが、王太子という役割から降りられないことと、王太子であることを理由に他人を役割に縛ることは別だ」
アデルは言った。
「私は、それを混同していた」
「殿下も、役割の中にいたのですね」
「いた。だが、それでセレスティアを使ったことの理由にはならない」
「はい」
リリアナは目を伏せた。
「私も、弱い妹という役割の中にいました。でも、それでお姉様にしがみついたことの理由にはなっても、免罪にはなりません」
「ああ」
二人は、少しの間黙った。
その沈黙は、以前よりずっと落ち着いていた。
アデルが先に言った。
「君は、妹という役割から降りたら、何になるのだろう」
リリアナは少し考えた。
「まだ分かりません」
「そうか」
「でも、王妃宮で一つずつ自分の判断を持つ人になりたいです」
アデルは、少しだけ微笑んだ。
「それは、いいな」
「殿下は?」
「私は、王太子である前に、自分の判断に責任を持つ人間にならなければならないと思っている」
「もう、なり始めていると思います」
リリアナがそう言うと、アデルは苦笑した。
「そう言われたい気持ちがある」
「はい」
「だが、それを君に言わせるのは、少し危ない」
「……そうですね」
リリアナは、少し照れたように笑った。
「では、暫定評価として」
「それなら受け取る」
「殿下は、少しずつ自分の判断に責任を持つ人になり始めている。暫定評価です」
「ありがとう」
二人の間に、穏やかな空気が流れた。
甘さはある。
けれど、以前のように互いの不足を埋め合う甘さではない。
少し距離を置きながら、それでも隣に立つための甘さだった。
北方辺境伯家には、その日の夕方、王太子府と王妃宮の二つの文書が届いた。
セレスティアは、まず王太子府の文書を読んだ。
『候補者には、役割から降りる自由がある』
その一文で、指が止まる。
次に、王妃宮からの報告。
『リリアナ様、妹という役割から降りる自由について私的整理』
そこには、要点だけが書かれていた。
姉に助けられるだけの妹ではいない。
姉に許される前提で謝らない。
妹であることを、責任を持たない理由にしない。
セレスティアは、しばらく何も言わなかった。
ノアは向かいで静かに待っている。
「役割から降りる自由」
セレスティアは小さく言った。
「はい」
「私が、ずっと欲しかったものかもしれません」
「はい」
「姉から降りる自由。王太子妃候補から降りる自由。補助役から降りる自由。良い娘から降りる自由」
言葉にすると、胸の奥に深い痛みが走った。
降りたかった。
でも、降りてよいと思えなかった。
降りれば、誰かが困る。
降りれば、冷たいと言われる。
降りれば、母が悲しむ。
降りれば、リリアナが泣く。
降りれば、王宮が乱れる。
降りれば、公爵家の恥になる。
だから降りなかった。
降りられなかった。
セレスティアは、帳面を開いた。
『役割から降りる自由。
私は、姉から降りたかったのかもしれない。
王太子妃候補からも、補助役からも、良い娘からも。
でも、降りれば誰かが困ると思っていた。
困らせないために降りなかった私は、いつから私自身を困らせていたのだろう』
書き終えたあと、目が熱くなった。
でも、涙は落ちなかった。
「閣下」
「はい」
「私は今、何の役割から降りたいのでしょう」
ノアは少しだけ考えた。
「それは、私が決めることではありません」
「はい」
「ですが、今のあなたは“すぐに答えを出す人”という役割から降り始めているように見えます」
セレスティアは、驚いたように彼を見た。
「すぐに答えを出す人」
「はい」
「……確かに」
彼女は小さく笑った。
「母の覚書も、まだ読んでいません」
「はい」
「答えも出していません」
「はい」
「王都は苛立っているでしょうね」
「でしょうね」
「でも、私は少しだけ楽です」
セレスティアは、箱を見た。
母の覚書は、まだ閉じている。
その箱の前で、彼女はずっと答えを出さない練習をしている。
読むのか。
読まないのか。
母を責めるのか。
許すのか。
父へ何を返すのか。
リリアナとどう向き合うのか。
何も決めていない。
それでも、日々は進んでいる。
周囲も、自分たちの紙を読み始めている。
セレスティアは、箱の横に新しい紙を置いた。
『答えを急ぐ役割から降りる』
短い一文。
だが、今の彼女には大きな一文だった。
「今日は、これを書けました」
ノアが頷く。
「はい」
「母の覚書は、まだ読みません」
「はい」
「でも、私は少しずつ、箱の前に立つ自分を選べるようになっている気がします」
「そう見えます」
セレスティアは、静かに目を伏せた。
役割から降りる自由。
それは、何もかも捨てることではない。
姉妹であることを消すことでも、娘であることを否定することでも、王宮と無関係になることでもない。
ただ、その役割に自分を全部奪わせないこと。
降りたいときに降りられる扉を作ること。
セレスティアは、ようやくその扉の形を少しだけ思い描けるようになっていた。




