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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第86話 名前を消された仕事は、誰のものにもならない

 王太子府の記録室から出てきた紙片は、小さかった。


 正式な依頼書ではない。


 王太子府の紋章もない。


 担当部署の印も、確認欄も、期限欄もない。


 ただ、急ぎの書類の束に挟まれていた覚書だった。


『例の件、彼女へ』


 たった、それだけ。


 アデルは、その紙片を前にして、しばらく何も言えなかった。


 机の上には、同じような紙がいくつも並んでいる。


『彼女なら分かる』


『茶会後、彼女へ確認』


『リリアナ嬢関連、彼女へ穏便に』


『王妃宮側との調整、彼女へ先に』


 彼女。


 彼女。


 彼女。


 名前がない。


 セレスティア・レイノルドという一人の人間の名は、そこにはなかった。


 王太子妃候補という役職名すらない。


 公爵令嬢という立場の記載もない。


 ただ、彼女。


 王太子府の誰もが、それで通じると思っていた。


 通じてしまっていた。


「……これは、ひどいな」


 アデルの声は低かった。


 エドは隣で記録を続けていたが、筆を止めた。


「殿下」


「名を書かないということは、責任も書かないということだ」


 アデルは紙片を指で押さえた。


「セレスティアへ正式に依頼したのではない。部署も決めていない。担当も置いていない。期限も、報酬も、指導者もない。ただ“彼女へ”と書く」


 ラウルが口を開きかけたが、すぐには言えなかった。


 以前なら、言い訳があっただろう。


 当時は慣例だった。

 セレスティア嬢は王太子妃候補だった。

 非公式の確認は社交上よくあることだった。

 本人も拒まなかった。


 だが、机の上に並んだ紙片の数は、その言い訳を少しずつ押し潰していた。


 ひとつなら偶然かもしれない。


 二つなら習慣かもしれない。


 しかし、積み上がれば構造だった。


「殿下」


 エドが静かに言った。


「この種の紙片は、正式記録に含めますか」


「含める」


 アデルは即答した。


「しかし、正式文書ではありません」


「だからこそ含める」


 アデルは顔を上げた。


「正式文書に残らない形で仕事が流れていた。それを確認するための記録だ」


 エドは頷き、記録欄に新しい項目を作った。


『非公式回付記録』


 その文字を見て、アデルは少しだけ息を吐いた。


 非公式。


 便利な言葉だ。


 正式ではないから、責任が薄い。

 命令ではないから、断れるはずだった。

 依頼ではないから、記録しなくてよい。


 しかし、受け取る側には仕事が残る。


 セレスティアは、そういう紙を何枚受け取ったのだろう。


 正式な命令ではない。

 だが断れば、王太子府の空気が悪くなる。

 王妃宮が困る。

 リリアナの立場が悪くなる。

 公爵家が面倒になる。


 だから処理する。


 そうやって、彼女の時間は削られた。


「エド」


「はい」


「この“彼女へ”という文言を使った紙片を、すべて抽出しろ」


「承知しました」


「それから、正式依頼書が存在する案件と、存在しない案件に分ける」


「はい」


「正式依頼書がない案件については、誰が発生させ、誰が渡し、誰が処理済み確認をしたかを可能な限り追う」


「はい」


 アデルは、一度言葉を切った。


 そして、少し苦い顔で続けた。


「ただし、セレスティア本人へ確認はしない」


 ラウルが顔を上げる。


「殿下、それでは不明点が残ります」


「残しておけ」


「しかし」


「不明点を埋めるために、また彼女の口を使うな」


 アデルの声には、はっきりとした線があった。


「まず、王太子府の紙で分かるところまで調べる。彼女に聞くのは、最後の最後だ。それも本人が応じる場合だけだ」


 ラウルは口を閉じた。


 エドはその言葉を丁寧に書き留めた。


『不明点を埋めるために、本人の口を安易に使わない。まず王太子府内記録で確認する』


 アデルはその記録を見て、静かに頷いた。


 王太子府の紙は、彼自身を逃がさない。


 それでよかった。


 逃げてはいけない。


 逃げるなら、また同じことを繰り返す。


 同じころ、レイノルド公爵邸では、グレゴールが別の「名前のない記録」と向き合っていた。


 公爵家の古い家内予定表。


 そこに、セレスティアの名前はあった。


 しかし、その横には、役割しか書かれていなかった。


『姉君同席』


『補助』


『安定』


『母寝室前対応』


『来客取次』


 セレスティア。


 その名が書かれている箇所も、ないわけではない。


 だが、読んでいくほど、彼女は人ではなく機能になっていった。


 リリアナが不安定なら、姉君同席。

 母の体調が悪ければ、母寝室前対応。

 父が不在なら、来客取次。

 家庭教師が困れば、補助。


 そこには、セレスティアがどう感じたかは書かれていない。


 眠かったか。

 怖かったか。

 断りたかったか。

 母の部屋の前に立つことが苦しかったか。


 何もない。


 グレゴールは、その空白を見ていた。


「家令」


「はい」


「この“姉君同席”という記録を、誰が書いた」


 家令は確認する。


「当時の侍女長の補佐記録です」


「姉君、か」


 グレゴールは低く言った。


「名もない」


「はい」


「姉という役割だけだ」


「はい」


 グレゴールは、しばらく紙を見つめた。


「父である私も、あれを名ではなく役割で見ていたのだろうな」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは続ける。


「セレスティア。そう呼んでいたつもりだった。だが、実際に見ていたのは、王太子妃候補、長女、姉、補助、家の安定装置だ」


 言葉が、ひどく苦かった。


「名前を呼ぶことと、人として見ることは違う」


 家令は、静かに筆を取った。


「記録いたしますか」


「書け」


 家令は書いた。


『グレゴール公爵発言:名前を呼ぶことと、人として見ることは違う。セレスティア様を、長女、姉、補助、家の安定装置として見ていた可能性』


 グレゴールは、その文字から目を逸らさなかった。


 嫌な記録だ。


 だが、残すべき記録だ。


「この“姉君同席”を、今後の整理ではどう扱う」


 家令が答える。


「セレスティア様本人名に戻した上で、作業内容、判断者、利益を受けた者、負担を負った者を分けます」


「よい」


「ただし、感情は推測しません」


「なぜ」


「本人が語っていないためです」


 グレゴールは頷いた。


「そうだな」


 少し前の自分なら、ここで「つらかったに違いない」と言ったかもしれない。


 それはきっと間違いではない。


 だが、本人の感情を父が勝手に決めることもまた、彼女を奪う行為なのだと、今は少し分かる。


「事実だけ整理しろ」


「はい」


「感情は、空白として置く」


「はい」


「だが、空白を大丈夫だった証拠にするな」


「承知しております」


 家令の返事は落ち着いていた。


 グレゴールは、ようやく小さく息を吐いた。


 公爵家の紙もまた、彼を逃がさなかった。


 王妃宮では、リリアナが「名前のない役割」についての報告を受け取っていた。


 王太子府の『彼女へ』。


 公爵家の『姉君同席』。


 どちらも、セレスティアの名を消していた。


 いや、名そのものよりも、人としての輪郭を消していた。


 リリアナは小会議室でその報告を読み、静かに言った。


「私は、お姉様を何と呼んでいたのでしょう」


 マルタが向かいに座っている。


「セレスティア様、でしょうか」


「口では、そう呼んでいました」


「はい」


「でも、心の中では?」


 リリアナは紙を見つめた。


 お姉様。

 助けてくれる人。

 私を見捨てない人。

 私より強い人。

 私の代わりに分かってくれる人。

 父に説明してくれる人。

 アデル殿下にふさわしい人。

 でも、私から奪った人。

 私が勝てない人。


 たくさんの役割が出てくる。


 そのどれもが、セレスティア本人とは少し違う。


「私も、名前を呼びながら、役割を見ていました」


 リリアナは言った。


 マルタは静かに頷く。


「はい」


「お姉様、と呼ぶと、優しく聞こえます。でも、その中に“私を助ける人”という意味を入れていました」


「はい」


「姉だから、助けてくれる。姉だから、分かってくれる。姉だから、許してくれる」


 言っていて、胸が苦しくなった。


 リリアナは白紙を出した。


『私が姉に重ねていた役割』


 一、助けてくれる人。

 二、分かってくれる人。

 三、私を見捨てない人。

 四、父や王宮へ説明してくれる人。

 五、私より強い人。

 六、私が勝てない人。

 七、許してくれるはずの人。


 七番を書いた瞬間、リリアナは手を止めた。


 許してくれるはずの人。


 ひどい。


 あまりにもひどい。


 けれど、心の奥にあった。


 姉なら、最後には許してくれる。


 姉は優秀で、冷静で、大人だから。


 自分が泣けば、困った顔をしても最後には手を伸ばしてくれる。


 そう思っていた。


「……私は、本当に勝手です」


 リリアナは呟いた。


 マルタはすぐには慰めなかった。


「勝手な部分があります」


「はい」


「でも、それを見たからといって、全部が終わるわけではありません」


「はい」


「今後どう扱うかです」


 リリアナは涙をこらえながら頷いた。


「姉を“許してくれるはずの人”にしない」


「はい」


「姉が許さなくても、それは姉の権利」


「はい」


「それを書きます」


 リリアナは記録帳に書いた。


『私は姉を、許してくれるはずの人として見ていた。

 それは姉を人ではなく役割にする見方だった。

 姉が許さなくても、それは姉の権利。

 私は、許される前提で謝罪してはいけない』


 書き終えると、涙が落ちた。


 今日はマルタが布を差し出す前に、リリアナは自分で拭った。


「マルタ様」


「はい」


「私は、まだ謝る資格がない気がします」


「謝る資格というより、謝る準備が整っていないのでしょう」


「準備」


「はい。許される前提ではなく、受け取られない可能性を持った謝罪の準備です」


 リリアナは目を伏せた。


 それは、怖い。


 とても怖い。


 でも、必要だった。


 その日の夕方、王太子府、公爵家、王妃宮から整理報告が北方辺境伯家へ届いた。


 セレスティアは、いつものようにノアの向かいで読んだ。


 王太子府の報告。


『彼女へ』という非公式回付記録の抽出開始。

 正式依頼書の有無による分類。

 本人確認は現時点で行わない。


 公爵家の報告。


『姉君同席』等の役割記録を、作業内容、判断者、利益を受けた者、負担を負った者へ分解。

 感情は推測せず、空白として置く。


 王妃宮の報告。


 リリアナが、自身がセレスティアへ重ねていた役割を私的記録へ整理。

 「許してくれるはずの人」と見ていた可能性を記録。

 現時点で謝罪文は作成しない。


 最後の一文で、セレスティアは長く黙った。


 リリアナが、許してくれるはずの人。


 その役割に気づいた。


 セレスティアは、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 よく分かっている。


 リリアナがそう思っていたことを、どこかで感じていた。


 泣いて、縋って、謝れば、最後には姉が手を伸ばす。


 それを期待されているような苦しさ。


 だから距離を取った。


 自分がまた姉の役割に戻らないために。


「……リリアナは、見たのですね」


 セレスティアは言った。


 ノアは頷く。


「そのようです」


「痛かったでしょうね」


「はい」


「少し、よかったと思いました」


「はい」


「でも、許したいとは思いません」


「はい」


「本当に別ばかりです」


 セレスティアは苦く笑った。


 そして、帳面を開いた。


『王太子府には“彼女へ”とあった。

 公爵家には“姉君同席”とあった。

 リリアナは、私を“許してくれるはずの人”として見ていたと記録した。

 名前を呼ばれていても、人として見られていたとは限らない。

 私もまた、誰かを役割で見ているかもしれない。

 リリアナが見たことは、少しよかった。でも、許したいとはまだ思わない。

 それでよいことにする』


 書き終えたあと、セレスティアはペンを置いた。


「閣下」


「はい」


「私は、閣下を何として見ているのでしょう」


 ノアは少しだけ意外そうに彼女を見た。


「私を?」


「はい。庇護者。支えてくれる人。急かさない人。安全な人」


「はい」


「それも、役割かもしれません」


 ノアは、少し間を置いてから頷いた。


「そうかもしれません」


「嫌ではありませんか」


「役割で見られること自体が、すべて悪いわけではないと思います」


「そうなのですか」


「人は関係の中で、何かしらの役割を持ちます。問題は、その役割から降りる自由があるかどうかでは」


 セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。


 役割から降りる自由。


 姉であること。

 娘であること。

 王太子妃候補であること。

 補助役であること。


 彼女には、降りる自由がなかった。


「閣下は、私の庇護者役から降りられますか」


 セレスティアは尋ねた。


 ノアは静かに答えた。


「あなたが望むなら」


「閣下自身は?」


「私自身が降りる必要を感じたら、その理由を伝えます」


「……それは、少し怖いです」


「はい」


「でも、必要ですね」


「はい」


 セレスティアは、帳面にもう一行書いた。


『役割そのものより、役割から降りる自由があるかどうか』


 書いてから、少しだけ息を吐いた。


 母の覚書の箱は、今日も閉じられている。


 けれど、箱の周囲にある言葉は、また少し変わった。


 名前。

 役割。

 自由。


 セレスティアは、灯りを落とす前に箱を見た。


「私は、母を何として見ていたのでしょう」


 小さな呟きだった。


 答えは出ない。


 母。

 病の人。

 守られるべき人。

 助けてほしかった人。

 責めたくない人。

 責めるかもしれない人。


 そのどれも、母の全部ではない。


 いつか覚書を読む日が来たら、その問いにも向き合うのだろう。


 でも、今日はまだ。


 セレスティアは静かに灯りを消した。


 名前を消された仕事は、誰のものにもならない。


 そして、役割だけで呼ばれた人は、いつか自分の名前を取り戻さなければならない。


 彼女はまだ、その途中にいた。

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