第85話 彼らの紙は、彼ら自身を逃がさなかった
セレスティアが語らなくても、読むべき紙はあった。
その事実に、最初に沈黙したのは王太子府だった。
王太子府の記録室には、過去数年分の依頼書、会議録、確認印、差戻し記録が積まれている。
その多くに、セレスティアの名があった。
いや、正確には名ではない。
『セレスティア嬢確認済』
『セレスティア嬢へ回付』
『王太子妃候補側で調整』
『公爵令嬢側処理』
『例の件、彼女へ』
最後の一文を見たとき、アデルはしばらく声を出せなかった。
例の件、彼女へ。
それは正式な書式ですらなかった。
侍従が急ぎで残した付箋のような紙片に、そう書かれていた。
日付は三年前。
内容は、王妃宮の冬期物資配分と、隣国大使夫人への贈答調整、さらに王太子府内の招待名簿修正だった。
本来なら、三部署に分けるべきものだ。
それが一つの紙片で、彼女へ、になっている。
アデルは、紙片を机に置いた。
「……彼女、とは誰のことだ」
分かっている。
分かっているから、あえて聞いた。
エドが、少し声を落として答える。
「当時の流れから見て、セレスティア様です」
「名前も書かずにか」
「はい」
「役職も書かずに」
「はい」
「彼女へ、だけで回ったのか」
「そのようです」
アデルは椅子に深く座った。
喉の奥が、妙に乾いていた。
ラウルも、今日はいつものように反論しなかった。
机の上には、他にも似た紙が積まれている。
『急ぎ。セレスティア嬢へ相談』
『王妃宮側と折衝。セレスティア嬢なら分かる』
『リリアナ嬢関連。公爵家側へ穏便に。セレスティア嬢へ』
『王太子殿下ご予定変更に伴う社交調整。セレスティア嬢へ先に確認』
どれも、正式な命令ではない。
だから、責任者が曖昧だった。
正式な命令ではないから、誰も「命じた」とは言わないで済む。
だが、紙は残っていた。
セレスティアへ。
セレスティアなら。
セレスティア嬢確認。
それだけは、何度も何度も出てくる。
「エド」
「はい」
「この“彼女なら分かる”という文言を使った者を確認できるか」
「筆跡と部署印から、ある程度は」
「確認しろ」
「承知しました」
アデルは、次の紙を手に取った。
そこには会議記録があった。
『王太子府内処理遅延について。
セレスティア嬢へ非公式に確認依頼。
正式依頼とすると公爵家経由となり時間を要するため、茶会後に口頭確認予定』
茶会後に口頭確認。
アデルは目を閉じた。
覚えがある。
華やかな茶会。
音楽。
貴族たちの笑い声。
その片隅で、セレスティアが静かに微笑んでいた。
彼女はいつも控えめで、落ち着いていて、こちらが話しかければすぐ理解した。
だから、茶会のあとに少しだけ確認する。
少しだけ。
その少しが、どれほど積み上がったのか。
当時の自分は、考えもしなかった。
「私は、何をしていた」
アデルは低く言った。
誰に聞いたわけでもない。
けれど、エドが静かに答えた。
「殿下も、王太子府も、正式依頼ではない形でセレスティア様に処理を移していた可能性があります」
「可能性ではない」
アデルは紙を見たまま言った。
「記録がある」
室内が静かになった。
ラウルが、ようやく口を開いた。
「殿下。当時は、セレスティア嬢が王太子妃候補として実務を学ぶ段階でした。非公式確認も、学習の一環と見なされていた可能性があります」
「学習なら、指導記録が必要だ」
アデルは即座に返した。
「担当者、目的、範囲、振り返り。どこにある」
ラウルは黙った。
「ないなら、学習ではない。処理だ」
アデルの声は荒くなかった。
だからこそ、重かった。
「セレスティアを学ばせていたのではない。使っていた」
エドが、記録する手を止めた。
書いてよいのか迷っている。
アデルは彼を見た。
「書け」
「……はい」
エドは静かに書いた。
『アデル殿下発言:セレスティア様を学ばせていたのではなく、使っていた可能性。非公式確認を学習と称するには指導記録が不足』
アデルはその文字を見ても、もう訂正しなかった。
王太子府の紙は、彼を逃がさなかった。
同じ頃、レイノルド公爵邸でも、紙は父を逃がしていなかった。
グレゴールは、家令とともに古い予定表を読んでいた。
セレスティア十三歳の春。
母エレナの病が重くなり始めた頃。
一週間分の予定表には、細かい字がびっしり並んでいる。
朝六時、起床。
朝七時、礼法復習。
朝八時、座学。
十時、リリアナ同席。
十一時、母寝室前来客対応。
昼食。
午後、王宮提出文書練習。
夕刻、リリアナ礼法補助。
夜、母方親族への返書下書き。
グレゴールは、その予定表をじっと見ていた。
「休息はどこだ」
家令は答えなかった。
答えようがなかった。
予定表に、休息という文字はない。
食事はある。
移動はある。
稽古はある。
対応はある。
しかし、休む時間はない。
あるとすれば、誰かが勝手に「食事中に休めるだろう」と思っていた程度だ。
「この日は」
グレゴールは別の紙を取った。
「夜にリリアナが泣いた記録がある」
「はい」
「翌朝は通常座学」
「はい」
「その日の午後に、王宮提出文書練習」
「はい」
「なぜ止めなかった」
家令は、今度も答えなかった。
グレゴールは怒鳴らなかった。
怒鳴る相手がいない。
当時の家庭教師。
侍女長。
家令補佐。
母。
父である自分。
責任は、紙の上で一人にまとまらない。
だが、最終責任欄には自分の名がある。
昨日、自分で書かせた。
グレゴールは、別の記録を開いた。
家庭教師の評価報告。
『セレスティア様、近頃集中にわずかな乱れあり。ただし王太子妃候補としての水準に大きな問題なし。ご本人の努力により遅れは回復可能』
グレゴールは、その一文で口元を歪めた。
「ご本人の努力により」
低く読み上げる。
「便利な言葉だな」
家令が静かに言う。
「はい」
「周囲が調整しない理由になる」
「はい」
「努力できる子は、休ませなくていい子ではない」
言ってから、グレゴールは目を閉じた。
遅すぎる。
あまりに遅すぎる言葉だった。
だが、遅くても書くしかない。
「記録しろ」
家令は筆を取る。
「努力できる子は、休ませなくていい子ではない」
「はい」
家令は書いた。
グレゴールは、その文字を見て少しだけ息を吐いた。
「エレナは、この予定表を見たのか」
「不明です」
「私は?」
「要約はご覧になった可能性があります」
「原本は?」
「確認記録がありません」
グレゴールは、机の端を指で叩いた。
「要約には何と」
家令は別紙を探し、読み上げた。
『セレスティア様、王太子妃候補教育おおむね順調。リリアナ様への良き影響あり。奥方様療養中につき、姉妹関係安定』
グレゴールは笑った。
笑いというには、あまりに乾いていた。
「順調」
その一言で、すべてが隠れる。
予定表の過密さも。
リリアナの夜泣きも。
母の来客対応も。
十三歳の少女が眠れていたかどうかも。
順調。
「要約は、刃物だな」
グレゴールは言った。
家令は静かに頷いた。
「便利ですが、削ります」
「削ったものが、娘だった」
家令は、何も言えなかった。
王妃宮では、リリアナが公爵家から共有された一部記録を読んでいた。
全てではない。
セレスティア本人に関わる私的領域は除かれ、姉妹教育の構造に関わる範囲だけが共有された。
それでも、リリアナには十分だった。
『リリアナ様礼法稽古不安定。セレスティア様同席時は安定』
『以後、セレスティア様の稽古予定をリリアナ様休息時間に合わせ調整』
『リリアナ様、姉君不在時に不安を訴える』
リリアナは、その三行を何度も読んだ。
マルタは向かいに座っている。
今日は、リリアナに一人で読ませなかった。
読ませてはいけないと判断した。
「私、よく覚えていません」
リリアナは小さく言った。
「はい」
「お姉様がそばにいると安心したことは覚えています。でも、それでお姉様の予定が動いていたことは……」
「記録上は、動いています」
「はい」
リリアナは唇を噛んだ。
「お姉様の稽古予定を、私の休息時間に合わせる」
言葉にすると、ひどく身勝手に聞こえる。
もちろん、当時のリリアナが決めたわけではない。
九歳の子どもだった。
不安で泣いた。
姉がいると安心した。
ただそれだけだった。
でも、結果として、姉の時間が自分に合わせて曲げられた。
「私、悪い子だったのでしょうか」
その問いは、幼かった。
マルタはすぐに答えなかった。
リリアナは、少し怯えたように彼女を見る。
マルタは静かに言った。
「九歳のリリアナ様が、悪い子だったと決める必要はありません」
「はい」
「ただ、九歳のリリアナ様の不安を、周囲の大人たちがセレスティア様の時間で処理した」
リリアナの目に涙が浮かんだ。
「それが事実ですね」
「記録上は、そうです」
「私は、処理される側だった」
「はい」
「お姉様は、処理する側だった」
「はい」
「どちらも子どもだったのに」
「はい」
リリアナは、とうとう涙をこぼした。
けれど、声を上げて泣きはしなかった。
マルタが布を差し出す。
リリアナは受け取り、静かに目元を拭った。
「謝りたいです」
「はい」
「でも、今すぐ謝らない」
「はい」
「謝る前に、私はこの記録をもう少し読まなければならない」
「一人ではなく」
「はい。一人ではなく」
リリアナは記録帳を開いた。
『姉の予定が、私の休息時間に合わせて動かされていた。
私は九歳だった。悪意はなかった。
でも、姉の時間は実際に曲がった。
私の不安を、大人たちは姉の時間で処理した。
謝りたい。でも、今はまだ謝罪ではなく確認を続ける』
書き終えたあと、リリアナは小さく息を吐いた。
「苦しいです」
マルタは言った。
「はい」
「でも、これはリリアナ様が一人で全部背負う苦しさではありません」
「分かっています」
「分かっていても、苦しいですね」
「はい」
「では、今日はここまでにしましょう」
「もう少し」
「ここまでです」
マルタの声は、柔らかくはなかった。
だが、必要な固さだった。
「記録を見ることは、罰ではありません」
リリアナは、その言葉で動きを止めた。
「罰……」
「はい。自分を罰するために読むなら、止めます」
「私は」
言いかけて、リリアナは黙った。
自分を罰するために読もうとしていたのかもしれない。
姉の痛みを見て、自分も傷つけば少し釣り合うような気がしていたのかもしれない。
でも、それではまた姉の記録を自分のために使ってしまう。
「今日は、ここまでにします」
リリアナは言った。
「よろしい」
マルタは、静かに記録を閉じた。
その夜、北方辺境伯家に、王太子府と公爵家、王妃宮からそれぞれ報告が届いた。
セレスティアは、それらを順に読んだ。
王太子府では「彼女へ」と書かれた非公式依頼が見つかったこと。
公爵家では、十三歳の自分の予定表に休息欄がなかったこと。
王妃宮では、リリアナが姉妹教育記録を一部読み、そこで止められたこと。
最後の一文に、セレスティアの指が止まった。
『リリアナ様は続きの閲覧を希望されましたが、マルタ女官長判断により本日は中止。理由、自罰的閲覧の兆候あり』
自罰的閲覧。
セレスティアは、少しだけ目を閉じた。
リリアナらしい、と思った。
苦しんで、罰を受けるように読み進めようとしたのだろう。
それは駄目だ。
そう思った瞬間、胸の奥に姉の感情が出た。
リリアナを止めたい。
自分を傷つけるために読まないでほしい。
その気持ちは、まだ残っていた。
セレスティアは驚いた。
自分はまだ、妹を心配するのか。
あれほど距離を置きたいと思っているのに。
「……リリアナを、少し心配しました」
セレスティアは言った。
ノアは頷く。
「はい」
「でも、会いたいとは思いません」
「はい」
「心配することと、会うことは別」
「はい」
「本当に、別ばかりです」
セレスティアは苦笑した。
そして帳面を開いた。
『王太子府の紙に“彼女へ”とあった。私の名前すらない。
公爵家の予定表に、私の休息欄はなかった。
リリアナは記録を読み、自罰的になりかけて止められたらしい。少し心配した。
でも、会いたいとは思わない。
心配と接近は別。
彼らが自分たちの紙を読み始めたことは、怖い。でも、私の口だけが鍵ではないと少し思える』
書き終えて、ペンを置いた。
心は重い。
けれど、どこかで少しだけ軽い。
自分が語らなくても、紙が語り始めた。
それは恐ろしく、同時に救いでもあった。
ノアが静かに尋ねた。
「今日は箱を?」
「開けません」
「はい」
「でも、少しだけ思いました」
「何を?」
「母の覚書を読む前に、彼らはもっと自分たちの紙を読むべきだと」
ノアは頷いた。
「その通りだと思います」
セレスティアは、箱を見つめた。
母の言葉は、まだ早い。
少なくとも、今日ではない。
父が父の紙を読む。
王太子府が王太子府の紙を読む。
リリアナが、自分を罰しない範囲で姉妹の紙を読む。
それが先だ。
自分の未読の箱を、すべての答えにされてたまるものか。
セレスティアは、灯りを落とす前に小さく呟いた。
「私の箱だけが、答えではない」
その声は静かだった。
だが、以前より少しだけ強かった。




