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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第84話 沈黙は、免罪符ではない

 空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない。


 その言葉は、王都のあちこちで静かに使われ始めていた。


 まだ語れない痛みを守るために。

 内容非開示の記録を、勝手な断罪にも否定にも使わせないために。

 誰かの沈黙を、茶会の好奇心でこじ開けないために。


 そのための言葉だった。


 だが、言葉はいつも、作った者の望む方向だけへは進まない。


 数日も経たないうちに、別の使い方をする者が現れた。


 王都南区のある男爵家で、娘の婚約準備金が長く未払いになっているという話があった。


 娘は何も訴えていない。


 いや、正確には、訴えられなかった。


 父の前では黙り、母の前では「大丈夫です」と言い、婚約者側から催促されても俯いていた。


 その沈黙を、男爵はこう使った。


「娘本人が何も申しておりません。ならば、外部が騒ぐことではないでしょう」


 さらに、最近の王妃宮の言葉を持ち出した。


「空白を、罪の証拠にも嘘の証拠にも使わない。そう王妃宮も申している。娘の沈黙をもって、我が家に不正があると決めつけるのはおやめいただきたい」


 その話が王妃宮に届いたとき、リリアナは報告書を読んだまま固まった。


 小会議室の空気が、少し重くなる。


 エルンが困ったように言った。


「……基準が、逆に使われています」


「はい」


 リリアナは、ゆっくり紙を机に置いた。


「娘本人が語っていない。だから家に問題はない。そう言っているのですね」


「そのようです」


「でも、婚約準備金の未払いなら、帳簿がありますよね」


 マルタが頷く。


「あります」


「支払い予定、持参金目録、婚約契約書、家内会計記録。本人の証言がなくても確認できるものがあるはずです」


「はい」


 リリアナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 怒りだった。


 しかし、怒りだけでは文書は作れない。


 彼女は白紙を引き寄せた。


「分けます」


 エルンは、もう何も言わずに新しい紙を用意した。


 リリアナは表題を書いた。


『沈黙の尊重と、調査停止の区別』


 一、本人が語らないことを、本人の痛みがなかった証拠にしない。

 二、本人が語らないことを、特定人物の罪の直接証拠にしない。

 三、ただし、本人の沈黙を理由に、既存記録の確認を停止しない。

 四、帳簿、契約書、支払い記録、目録、勤務記録等、本人証言以外で確認できる事項は確認する。

 五、本人の証言を無理に引き出さず、周辺記録から負担の構造を確認する。

 六、沈黙は、免罪符ではない。


 六番を書いた瞬間、リリアナの手に力が入った。


「これです」


 マルタが静かに頷く。


「必要な一文です」


「沈黙は、免罪符ではない」


 リリアナはもう一度、声に出した。


「お姉様が語らないから、お姉様は傷ついていなかったわけではない。あの男爵令嬢が語らないから、準備金未払いがなかったことにもならない。本人の口を開かせなくても、調べられるものはあります」


「はい」


「王妃宮の基準を補足します」


 エルンがすぐ清書に入った。


 リリアナは続ける。


「ただし、これも危険です。周辺記録を調べる名目で、また本人の私的領域に踏み込む人が出るかもしれません」


「範囲を定めましょう」


 マルタが言った。


 リリアナは頷き、さらに書く。


『周辺記録確認の範囲』


 一、金銭、契約、職務、移動、支払い等、客観記録が存在するものに限る。

 二、本人の私的日記、手紙、感情記録は本人の許可なく確認しない。

 三、本人証言が必要な場合は、支援者同席、回答拒否可、内容非開示可を明示する。

 四、調査目的を事前に明確化する。

 五、沈黙を破らせるための圧力として調査を使わない。


 書き終えると、リリアナは息を吐いた。


「これで、少しは線が引けるでしょうか」


 マルタは答えた。


「線は引けます。越える者は出ます」


「ですよね」


「そのたびに、また引き直すしかありません」


 リリアナは苦笑した。


「王妃宮の仕事、線引きばかりですね」


「今まで線がなかった場所に、線を引いているので」


「お姉様は、ずっと線のない場所で働いていたのですね」


 口にした瞬間、胸が痛んだ。


 セレスティアは、どこまでが自分の仕事で、どこからが他人の責任か、曖昧な場所で働き続けていた。


 だから、全部が彼女へ流れ込んだ。


 リリアナは、その痛みを飲み込み、清書された補足文に目を通した。


 今回は、迷わなかった。


「出します」


 王妃宮の補足は、その日のうちに各所へ送られた。


『本人の沈黙を尊重することは、既存記録の確認を停止することではない。

 本人の沈黙を罪の証拠にも嘘の証拠にも使わない一方で、帳簿、契約書、支払い記録等により確認できる責任事項は確認する。

 沈黙は、免罪符ではない』


 その文は、王都でまた議論を呼んだ。


「また王妃宮が難しいことを」


「でも、これは当然ではなくて? 娘が黙っているから準備金未払いが消えるわけではないでしょう」


「ならば、家中の帳簿を見せろというのか」


「支払い記録くらいは見るべきでしょう」


「本人が何も言っていないなら、そっとしておけばよいのでは」


「そっとすることと、放置することは違うわ」


 その最後の言葉は、最近王妃宮の文書を読み込んでいる若い令嬢のものだった。


 彼女たちは少しずつ、言葉を手に入れている。


 危うさもある。


 だが、何も持たないよりはましだった。


 同じ補足は、北方辺境伯家にも届いた。


 セレスティアは、王妃宮の文書を読んで、静かに目を伏せた。


『沈黙は、免罪符ではない』


 その一文で、胸の奥が強く鳴った。


 ノアが向かいで尋ねる。


「響きましたか」


「はい」


「どういうふうに?」


「痛いです。でも、必要な痛みです」


 セレスティアは、紙を机に置いた。


「私は語らなくていい。けれど、私が語らないことを理由に、父や王太子府が“問題はなかった”と言うことはできない」


「はい」


「同時に、私が語らないことを理由に、誰かを即座に罪人にすることもできない」


「はい」


「その間に、周辺記録の確認がある」


「はい」


 セレスティアは、母の覚書の箱を見た。


 あの箱はまだ閉じている。


 けれど、それとは別に、公爵家には大量の記録がある。


 教育記録。

 家内会計。

 侍女長の日誌。

 来客対応表。

 セレスティアの稽古日程。

 リリアナの療養記録。

 母の体調記録。


 自分が語らなくても、そこから分かることはある。


 自分の涙を差し出さなくても、責任の一部は確認できる。


「少し、救われます」


 セレスティアは言った。


「はい」


「全部を私が語らなくても、記録から見えるものがある。私が語るまで何もできない、ではない」


「はい」


「でも、怖くもあります」


「なぜ?」


「記録だけで、私の感情まで決められそうだから」


 ノアは頷いた。


「そこも線引きが必要ですね」


「はい」


 セレスティアは帳面を開いた。


『沈黙は免罪符ではない。

 この言葉に救われた。

 私が語らなくても、周辺記録から確認できる責任はある。

 ただし、記録から私の感情まで決めないでほしい。

 事実確認と感情解釈は別』


 書いてから、最後の一文を見つめた。


 事実確認と感情解釈は別。


 また別だ。


 だが、必要な別だった。


 その頃、レイノルド公爵邸でも同じ文書が読まれていた。


 グレゴールは、いつもより長く黙っていた。


 家令は控えている。


「沈黙は、免罪符ではない」


 グレゴールは低く読み上げた。


「はい」


「セレスティアが語らないから、私は許されたわけではない」


「はい」


「だが、セレスティアが語らないから、私が全て悪いと決まったわけでもない」


「はい」


「……都合の悪い文だ」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは、机に置かれた古い記録の束を見た。


 姉妹教育記録。

 母エレナの療養期記録。

 家令補佐の日誌。

 家庭教師の評価報告。


 今まで、見るべき時に見なかったもの。


 今さら見ているもの。


「家令」


「はい」


「本人証言を待たずに確認できる記録を整理しろ」


「承知しました」


「ただし、セレスティアの私的な日記や手紙には触れるな」


「保管場所は確認されていますが、開封しておりません」


「開けるな」


「はい」


 グレゴールは少しだけ言葉を止めた。


「私が、開けたくなるかもしれん」


 家令は静かに彼を見た。


「その場合は、止めます」


「止めろ」


「承知しました」


 グレゴールは、苦い顔で笑った。


「父親の命令とは思えんな」


「今は、必要な命令かと」


「そうだな」


 彼は、次の紙を取った。


 十三歳のセレスティアの一週間分の予定表だった。


 朝の座学。

 昼の礼法。

 午後の王宮提出文書練習。

 夕方のリリアナ同席。

 夜、母の寝室前対応。


 そして翌朝、通常通り座学。


 グレゴールは、その表を見て静かに言った。


「これだけでも、分かることはある」


「はい」


「本人に泣かせて語らせなくても、分かることはある」


「はい」


「なぜ、当時分からなかった」


 家令は答えなかった。


 答えられる問いではなかった。


 グレゴールは、自分で言った。


「見なかったからだ」


 その声は低く、ひどく疲れていた。


「記録しろ」


 家令は、静かに書いた。


『グレゴール公爵発言:当時分からなかった理由。見なかったから』


 グレゴールは、その文字から目を逸らさなかった。


 王太子府でも、王妃宮の補足は重く受け止められた。


 アデルは文書を読み、すぐにエドへ言った。


「王太子府の過去検証にも入れる」


「本人証言以外の周辺記録確認ですね」


「ああ」


 ラウルが眉をひそめる。


「殿下。セレスティア嬢本人の証言なしに、どこまで検証できますか」


「できるところまでだ」


「不完全になります」


「不完全でよい」


 アデルは言った。


「本人に語らせなければ進まない、という形にすると、また彼女へ負担を戻す。まず、こちらの記録で確認できることを確認する」


「王太子府の過去依頼記録、補佐業務、王妃宮との文書往復、会議出席表などですね」


「全部出せ」


 エドが少しだけ顔を上げた。


「全部、ですか」


「範囲を定めて全部だ。セレスティア個人の私的手紙は除く。王太子府が発行した依頼、会議記録、確認印、差戻し記録、未処理事項一覧。彼女の名前が出ているものを整理する」


「承知しました」


 ラウルが小さく言った。


「かなりの量になります」


「知っている」


 アデルは、苦く笑った。


「それを彼女が一人で処理していた可能性があるなら、私たちが今読む量としては当然だろう」


 室内が静まった。


 エドは静かに頷き、記録を始めた。


 王妃宮では、補足文を出した後、リリアナが少し疲れた顔で椅子に座っていた。


 マルタが茶を置く。


「休憩です」


「はい」


 リリアナは素直に茶を受け取った。


「マルタ様」


「はい」


「沈黙は免罪符ではない、という言葉は、お姉様を守る言葉でもあり、私たちを逃がさない言葉でもありますね」


「そうですね」


「私は、お姉様が語らないことに、少し甘えていたかもしれません」


「はい」


「語られないなら、今は見なくていい。そう思いたかった部分があります」


「はい」


「でも、記録から見えることは見なければならない」


「はい」


 リリアナは茶を見つめた。


「怖いです」


「何が?」


「記録を見れば、また自分が嫌になるかもしれません」


「その可能性はあります」


「でも、見ます」


「はい」


「私に関わる記録も、あるなら」


 マルタは静かに言った。


「一人では見ないこと」


「はい」


「支援者をつけること」


「はい」


「全部を一日で見ないこと」


「はい」


「よろしい」


 リリアナは少し笑った。


「私、子どものようですね」


「記録を見るとき、人はだいたい少し子どもに戻ります」


「マルタ様も?」


「もちろんです」


「想像できません」


「見せませんので」


 その返しに、リリアナは少しだけ笑った。


 笑えるだけ、まだ大丈夫だと思った。


 夜、北方辺境伯家には、各所の動きが報告された。


 公爵家が周辺記録を整理し始めたこと。

 王太子府が、セレスティア本人の証言なしに確認できる依頼記録を洗い出し始めたこと。

 王妃宮が、沈黙を理由に調査を止めない補足を出したこと。


 セレスティアは読み終え、しばらく動かなかった。


 ノアは、静かに待っていた。


「進み始めました」


 セレスティアは言った。


「はい」


「私が語っていないのに」


「はい」


「怖いです」


「はい」


「でも、少し楽です」


「はい」


「私が全部話さなくても、彼らは自分たちの紙を読むことができる」


「できます」


「最初から、そうしてほしかった」


 声が少し震えた。


 ノアは何も言わない。


 セレスティアは、報告書をそっと閉じた。


「でも、今からでも読むなら、読まないよりはましです」


「はい」


「私はまだ、母の覚書を読みません」


「はい」


「でも、父や王太子府が自分たちの記録を読むことは、止めません」


「はい」


 セレスティアは帳面を開いた。


『沈黙は免罪符ではない。

 父も王太子府も、自分たちの記録を読み始めた。

 私が語らなくても、彼らが読むべき紙はある。

 怖い。けれど、少し楽。

 私の口だけが、過去を開く鍵ではない』


 その最後の一文を書いたとき、胸の奥が少し緩んだ。


 ずっと、自分が語らなければ何も進まないと思っていた。


 自分が許さなければ。

 自分が説明しなければ。

 自分が痛みを差し出さなければ。


 でも、そうではない。


 彼らには彼らの帳簿がある。

 予定表がある。

 依頼書がある。

 確認印がある。


 自分の涙ではなく、彼ら自身の紙がある。


 それを読むのは、彼らの責任だ。


 セレスティアは、母の覚書の箱を見た。


 まだ開けない。


 今日も開けない。


 けれど、箱を開けなくても、世界が少し動いた。


 そのことが、今夜は救いだった。

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