表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/110

第83話 空白を、嘘と決める人たち

 痛みあり。内容非開示でもよい。


 セレスティアが箱の横に置いたその紙は、翌朝になってもそこにあった。


 短い言葉だ。


 けれど、その短さの中に、今の彼女がようやく確保した逃げ場があった。


 全部を書かなくていい。


 全部を証明しなくていい。


 それでも、痛みがなかったことにはならない。


 その考えは、静かに胸を支えてくれた。


 だが、王都はまた別の読み方をした。


『痛みあり・内容非開示』


 その言葉が広がった途端、二つの声が生まれた。


 一つは、救われた声だった。


「まだ書けないことがあってもいいのね」


「内容を出さなくても、痛みがあるとだけ残せるのはありがたいわ」


「全部話せと言われるのが、一番つらいもの」


 もう一つは、疑う声だった。


「内容非開示なら、何でも言えますわね」


「証拠も出さずに“痛みあり”と書けば、家を責められるのでしょう?」


「セレスティア様も、具体的に何があったのか言わないまま、周囲を動かしているのでは?」


「空白を盾にしているのよ」


 空白を盾にしている。


 その報告を読んだとき、セレスティアは目を閉じた。


 来ると思っていた。


 思っていたのに、やはり痛かった。


 北方辺境伯家の執務室は、朝から静かだった。


 ノアは向かいに座り、彼女が報告書を読むのを待っている。


 セレスティアは、紙を机に置いた。


「今度は、空白を盾にしている、です」


「はい」


「内容を書かないなら、嘘かもしれない。証拠にならない。何でも言える」


「そう言う者はいるでしょう」


「いますね」


 彼女は小さく笑った。


 笑ったが、楽しくはない。


「私も、分かります。内容非開示のまま責任追及はできません。証拠にはならない」


「はい」


「でも、証拠にならないことと、嘘であることは違う」


「はい」


「また、別です」


 ノアが少しだけ頷いた。


「その通りです」


 セレスティアは白紙を出した。


 今日は少し迷わず、表題を書けた。


『内容非開示の扱い』


 一、内容非開示は、責任追及の直接証拠ではない。

 二、内容非開示は、痛みがなかった証拠でもない。

 三、内容非開示を理由に、相手を断罪してはならない。

 四、内容非開示を理由に、本人を嘘つきと決めてはならない。

 五、今は語れない、という状態を状態として置く。

 六、調査や責任確認が必要な場合は、本人の許可、範囲、方法を別に定める。


 書き終えると、セレスティアはペンを置いた。


「これも、出した方がいいでしょうか」


 ノアは問い返した。


「あなたはどうしたいですか」


「出したい気持ちはあります」


「はい」


「でも、私が出すと、“ほら、また自分を守る理屈を作った”と言われる気もします」


「言われるでしょう」


「王妃宮が出す方がよいです」


 セレスティアは、少しだけ息を吐いた。


「ただ、王妃宮に押しつけるのも違います」


「では、回答不要の参考意見として」


「はい」


 彼女は短くまとめた。


『内容非開示の痛みは、責任追及の直接証拠ではありません。

 同時に、痛みがなかった証拠でもありません。

 本人がまだ語れない状態を、断罪にも否定にも使わず、未整理の状態として置く基準が必要と思われます』


 それだけ。


 それ以上は書かなかった。


 送付の準備を終えると、セレスティアは箱の方を見た。


 母の覚書は、まだ閉じられている。


 自分の痛みも、まだ多くは閉じられている。


 閉じているからといって、嘘ではない。


 開けないからといって、存在しないわけではない。


 そのことを、何度も自分に言い聞かせる必要があった。


 王妃宮にその文書が届く前に、リリアナもまた同じ問題にぶつかっていた。


 小会議室では、若い令嬢たちの証言記録について、問い合わせが相次いでいた。


『内容非開示の痛みを記録する場合、対象となった家や婚約者側に反論機会はあるのか』


『具体内容がない記録をもとに、家名が傷つく可能性はないか』


『痛みありとだけ記録されれば、周囲が勝手に疑うのではないか』


 どれも、完全に無視できる問いではなかった。


 リリアナは書類を前に、額を押さえた。


「……難しいです」


 マルタが頷く。


「難しいですね」


「内容を書けない痛みは守りたい。でも、内容がないまま誰かを悪者にするのも違います」


「はい」


「痛みを否定しないことと、相手を断罪することは別」


「はい」


「また別です」


 リリアナは、少し泣きそうな顔で笑った。


「世界は、別だらけです」


「混ぜる方が簡単ですから」


「はい」


 そのとき、セレスティアからの参考意見が届いた。


 リリアナはすぐに封を開き、読み、深く息を吐いた。


『内容非開示の痛みは、責任追及の直接証拠ではありません。

 同時に、痛みがなかった証拠でもありません』


「お姉様も、同じところにいました」


 リリアナは小さく言った。


 エルンが少しだけ微笑む。


「では、王妃宮として整理できますね」


「はい」


 リリアナは白紙を出した。


『内容非開示記録の扱い――暫定基準』


 一、内容非開示記録は、本人が現時点で詳細を語れない、または語らないことを示す。

 二、内容非開示記録をもって、特定の相手を断罪しない。

 三、内容非開示記録をもって、本人の痛みを虚偽と決めつけない。

 四、責任確認や調査が必要な場合は、本人の同意、範囲、方法、支援者を別途定める。

 五、内容非開示のまま外部へ人物名・家名と結びつけて流布しない。

 六、空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない。


 六番を書いた瞬間、リリアナは手を止めた。


「これです」


 マルタが頷いた。


「よい一文です」


「空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない」


 リリアナはもう一度読んだ。


 自分にも必要な言葉だった。


 姉が語らない空白を、父や自分への罪の証拠として勝手に使ってはいけない。


 同時に、姉が語らないからといって、痛みがなかった、嘘だ、大げさだと決めてはいけない。


 空白は、空白のまま置く。


 それは、とても難しい。


「出します」


 リリアナは言った。


「はい」


「ただし、証言を集めている令嬢たちを責める文にはしません」


「もちろんです」


「守るための基準として」


「はい」


 王妃宮から暫定基準が出ると、反応はまた割れた。


 若い令嬢たちの間では、少しほっとした空気が流れた。


「これなら、書けないことを無理に書かなくていいのね」


「でも、誰かを名指しで責めるなら、別の手順が必要」


「そうよね。私たち、勢いで家名まで書かせようとしていたかもしれない」


「空白を罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない……難しいけれど、分かるわ」


 一方で、保守派はまた反発した。


「曖昧な痛みを公的に認めるなど、危険だ」


「内容非開示なら、結局何も分からないではないか」


「分からないものを残す意味があるのか」


 その声は、王太子府にも届いた。


 アデルは王妃宮の基準を読み、すぐ採用を決めた。


 ラウルは、今度ばかりは強く眉をひそめた。


「殿下。内容非開示の痛みを記録することは、曖昧な不満を王宮が認めることになります」


「曖昧な不満ではない」


 アデルは静かに言った。


「語れない痛みだ」


「しかし、内容がなければ判断できません」


「判断しないための欄だ」


 ラウルが口を閉ざす。


 アデルは続けた。


「内容非開示をもって罰しない。だが、なかったことにもしない。判断できないものを、判断できないものとして置く」


 エドが筆を走らせる。


 アデルは少しだけ苦笑した。


「今のも書くのか」


「はい」


「書け」


 エドは頷いた。


 アデルは、窓の外へ視線を向けた。


「私は、判断できない空白を、自分に都合よく読んできた」


 部屋が静まる。


「セレスティアが語らないなら、大丈夫なのだろう。笑っているなら、問題ないのだろう。記録にないなら、負担ではないのだろう。そうやって、空白を都合よく埋めた」


 ラウルは何も言わなかった。


 エドも、今度はすぐには書かなかった。


 アデルが静かに言う。


「それも記録しろ」


 エドは、ゆっくり頷いた。


 レイノルド公爵邸でも、その基準は重く受け止められた。


 グレゴールは、家令が読み上げる文を黙って聞いていた。


「空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない」


 家令が読み終えると、グレゴールはしばらく黙った。


「……私には、都合が悪い文だ」


 家令は何も言わない。


「セレスティアが語らなかった空白を、私は“大丈夫だった”と読んだ」


「はい」


「今度は、その空白を“私は悪かった”という証拠として使いたくなる」


 家令が、わずかに目を上げた。


 グレゴールは苦い顔で続けた。


「どちらも、あれの空白を私のために使っている」


「はい」


「腹が立つな」


「どなたに」


「私にだ」


 家令は静かに頭を下げた。


 グレゴールは、低く言った。


「記録しろ。セレスティア様が語らない空白を、公爵家の免罪にも断罪にも用いない。本人の同意なく内容を推測しない」


「承知しました」


 家令は書いた。


 グレゴールは、その文字を見つめながら、ふと呟いた。


「あれが何も言わなかった時間を、私はこれからどう扱えばよいのだ」


 家令は少し考えてから答えた。


「まず、何も言わなかった時間として扱うしかないのでは」


「そのままか」


「はい」


「役に立たんな」


「でも、必要かと」


 グレゴールは、少しだけ笑った。


 疲れた、苦い笑いだった。


「その通りだ」


 夜、北方辺境伯家に各所の対応報告が届いた。


 セレスティアは、王妃宮の暫定基準を読み、リリアナの一文に目を止めた。


『空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない』


 彼女は、長くその文字を見ていた。


 ノアが静かに尋ねる。


「どうしました」


「リリアナの言葉だと思います」


「そうですか」


「強いですね」


「はい」


「そして、優しいです」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


 空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない。


 それは、セレスティア自身を守る言葉であり、同時に父やリリアナを即座に断罪しないための言葉でもある。


 リリアナは、自分を守るだけではなく、姉の空白を勝手に使わないための線を引いたのだ。


「私は、リリアナに少し救われました」


 セレスティアは小さく言った。


 ノアは頷いた。


「はい」


「でも、まだ会いたいとは思いません」


「はい」


「それも別ですね」


「はい」


 セレスティアは帳面を開いた。


『王妃宮が、内容非開示の扱いを整理した。

 空白を、罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない。

 この言葉に救われた。

 私の語らない部分を、誰かが勝手に使わないでいてくれるかもしれない。

 同時に、私も自分の空白で誰かを罰しないようにしたい。

 まだ難しいけれど』


 書き終えて、少しだけ息を吐いた。


 母の覚書の箱は、まだ閉じられている。


 そこにも空白がある。


 中身を知らない空白。


 母への感情の空白。


 父への答えの空白。


 リリアナへの距離の空白。


 それらを、誰かが勝手に埋めようとする。


 でも、今日はその空白の周りに、また一枚、静かな札が立った。


 罪の証拠にも、嘘の証拠にも使わない。


 空白は、空白として置く。


 それは停滞ではなく、今の彼女に必要な保留だった。


 セレスティアは灯りを落とす前に、箱へ向かって小さく呟いた。


「まだ、空白のままでいい」


 その言葉は、母へではなく、自分自身へ向けたものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ