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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第82話 書かない痛みも、なかったことにはならない

 監査官は、涙の場所を記録しない。


 その一文は、セレスティアの中で静かに残っていた。


 帳簿には責任を残す。

 けれど、涙の場所まですべて帳簿に載せなくていい。


 その考えは、思っていた以上に彼女を落ち着かせた。


 母の覚書の箱は、まだ机の上にある。


 開けていない。


 今日も、開けない。


 ただ、箱の周りに並んだ紙は少しずつ増え、以前のような黒い塊ではなくなっていた。


 未読も選択肢。

 支えを求めてもよい。

 支えも自分で選ぶ。

 誰を選ぶかより、何を守るか。

 母を守るために、自分を黙らせない。

 慈善と追悼と自分の言葉は分ける。

 帳簿は覗き穴ではない。

 涙の場所は、報告書にしなくていい。


 そうやって柵を増やしてきた。


 だが、王都は柵を見ると、そこに門を作りたがる。


 翌朝、北方辺境伯家に届いた報告書には、また新しい声が書かれていた。


『一部若手貴族令嬢の間で、家族から受けた心的負担や婚約上の圧力について、証言記録を集めようとする動きあり』


『“書かれなかった痛みは、なかったことにされる”との主張』


『セレスティア嬢の事例を契機として、令嬢たちが自身の苦しみを公的記録へ残すべきとの意見』


『一方、私的な痛みを無理に書かせることへの懸念もあり』


 セレスティアは、途中で読む手を止めた。


 書かれなかった痛みは、なかったことにされる。


 その言葉は、正しいようで、怖かった。


 たしかに、書かれなかったものは消えやすい。


 セレスティア自身、それをよく知っている。


 十三歳の眠れなかった夜。

 妹の不安を受け止めた朝。

 母の寝室前で来客に応対した日。

 誰にも「眠い」と言わなかった自分。


 それらは、きちんとは記録されていなかった。


 記録に残っていたのは、予定通り実施、補助役、情緒安定、同席。


 痛みの形ではなかった。


 だから、記録することには意味がある。


 けれど。


「書かないと、なかったことになる」


 セレスティアは小さく呟いた。


 ノアが向かいで顔を上げる。


「厳しい言葉ですね」


「はい」


「そう感じますか」


「はい。とても」


 彼女は報告書を机に置いた。


「私も、痛みを記録することには意味があると思います」


「はい」


「でも、書けない痛みもあります」


「はい」


「書きたくない痛みもあります」


「はい」


「それを、書かなければなかったことになる、と言われたら……また追い詰められます」


 ノアは静かに頷いた。


「記録する権利と、記録しない権利を分ける必要がありますね」


 セレスティアは、少しだけ苦笑した。


「また、権利が増えました」


「増えますね」


「でも、必要です」


 白紙を出す。


 今日もまた紙だ。


 けれど今日は、紙に向かう手が少し重かった。


『痛みの記録について』


 一、痛みを記録することには意味がある。

 二、記録されなかった痛みが、見落とされることはある。

 三、ただし、書けない痛み、書きたくない痛みも存在する。

 四、記録しない選択は、痛みがなかったことを意味しない。

 五、証明のために痛みを差し出す義務はない。

 六、記録する場合も、範囲、時期、開示先を本人が決める。


 五番を書いたところで、セレスティアは手を止めた。


 証明のために痛みを差し出す義務はない。


 その一文は、自分で書いておきながら胸に刺さった。


 母の覚書を読む日が来たとき。


 父に、リリアナに、王都に、王妃宮に、自分の痛みを証明する必要があるのだろうか。


 ない。


 そう言いたい。


 でも、記録がなければまた「大げさだったのでは」と言われるかもしれない。


 だからこそ、帳簿には責任を残す。


 しかし、涙そのものを差し出す必要はない。


「難しいですね」


 セレスティアは言った。


「はい」


「記録しなければ消える。記録しすぎれば奪われる」


「はい」


「では、どうすればいいのでしょう」


 ノアは少し考えた。


「存在だけ記録し、内容を閉じる方法もあります」


「存在だけ」


「はい。“痛みあり。内容非開示。本人の意思により記録範囲限定”のように」


 セレスティアは目を瞬いた。


 それは、母の覚書の状態区分に似ている。


 存在確定。

 内容未読。

 受領意思未判断。


 痛みも、存在だけ記録できるのかもしれない。


 全部を語らずに。


 全部を隠すのでもなく。


 彼女は紙に書き足した。


『七、内容を詳細に書かず、“痛みがあった”という存在のみを記録する方法もある』


 書いた瞬間、少しだけ息が楽になった。


 すべてを書くか、何も書かないか。


 また二択にされそうになっていた。


 でも、その間に棚がある。


「王妃宮へ送りますか」


 ノアが尋ねた。


 セレスティアは、しばらく考えた。


「送ります。ただし、私の痛みの話としてではなく、証言記録を集める動きへの注意として」


「はい」


「回答不要で」


「はい」


 彼女は、短い形にまとめ直した。


『痛みの記録について、記録する権利と記録しない権利を分ける必要があります。

 記録されない痛みが見落とされることはありますが、書けない痛み、書きたくない痛みも存在します。

 証明のために本人へ痛みの詳細を差し出させることは避けるべきです。

 必要な場合、“痛みあり。内容非開示”のように、存在のみを記録する方法も検討できます』


 短い。


 だが、今の自分にはこれが限界だった。


 王妃宮では、その文書を読んだリリアナが、深く息を吸った。


 小会議室にはマルタとエルンがいる。


 最近は、セレスティアからの「回答不要」の文書が届くと、まず全員が少し緊張するようになっていた。


 それは命令ではない。


 だが、王妃宮の手順を変えることが多い。


 今回もそうだった。


「記録する権利と、記録しない権利」


 リリアナは読み上げた。


「痛みあり。内容非開示」


 エルンが小さく呟く。


「これは……必要ですね」


 リリアナは頷いた。


 胸の中で、いくつもの記憶が動く。


 姉に謝りたいこと。

 母について思うこと。

 アデルに対する未整理の感情。

 自分が姉を安心の場所として使っていたこと。


 書けるものもある。


 書けないものもある。


 書いたら、誰かを傷つけそうなものもある。


 でも、何も書かなければ、自分の中でなかったことにしてしまいそうなものもある。


「私も、あります」


 リリアナは言った。


 マルタが静かに見る。


「書けない痛みですか」


「はい。書きたくないものもあります」


「当然です」


「でも、書かないと逃げている気もします」


「それを分けるための基準です」


 リリアナは、白紙を出した。


『痛みの記録に関する暫定基準』


 一、本人には、痛みを記録する権利がある。

 二、本人には、痛みを記録しない権利もある。

 三、記録しない選択を、痛みがなかった証拠として扱わない。

 四、記録を求める場合、目的、範囲、開示先、保管期間を明示する。

 五、本人が望む場合、内容詳細ではなく“痛みあり・内容非開示”として記録できる。

 六、証明のために涙、怒り、恐怖の詳細を求めない。

 七、第三者が本人の痛みを物語化しない。


 七番まで書いて、リリアナはペンを止めた。


「これ、若い令嬢たちの証言集にも関わりますね」


 エルンが頷く。


「はい。善意で集めている可能性もありますが、危険です」


「痛みを集めれば、力になる。でも、集め方を間違えれば、また傷になります」


 マルタが言った。


「そうです」


 リリアナは、すぐに王妃宮として注意文を出す準備を始めた。


 若い令嬢たちの動きを否定するのではない。


 痛みを記録することを止めるのでもない。


 ただ、証言を求める側が、相手に語らせる権利を持っているわけではないと伝える。


 文面は慎重にした。


『家族関係、婚約、教育、社交上の負担に関する証言記録を作成する場合、本人の意思確認、記録範囲、開示先、保管方法を明確にすること。

 記録しない選択を、痛みがなかった証拠として扱わないこと。

 証言を求める側は、相手の沈黙を責めないこと。

 痛みを社会へ伝えることは重要であるが、本人の痛みを本人から奪う形で記録してはならない』


 リリアナは、最後の一文を見つめた。


 本人の痛みを本人から奪う形で記録してはならない。


 強い文だ。


 けれど、必要だった。


「これを出します」


 マルタは頷いた。


「はい」


「また反発されますね」


「されるでしょう」


「でも、出します」


「はい」


 その文書が出ると、若い令嬢たちの間には戸惑いが広がった。


 ある伯爵令嬢は、友人たちと集めていた証言用紙を見下ろし、唇を噛んだ。


「私たち、良いことをしているつもりだったのに」


 隣の令嬢が言った。


「良いことだとは思うわ。でも、確かに……“書けないなら無理しないで”とは書いていなかった」


「むしろ、“今こそ声を上げましょう”って」


「声を上げられない人もいるのよね」


「いるわ。私も、父のことはまだ書けないもの」


 沈黙が落ちた。


 やがて、その伯爵令嬢は証言用紙の上部に新しい欄を書き足した。


『書かない選択もできます』


『痛みあり・内容非開示を選べます』


『提出後の開示先を選べます』


 それは小さな修正だった。


 だが、大きな意味を持った。


 一方で、保守派は別の角度から騒ぎ始めた。


「王妃宮は、令嬢たちに家族への不満を書かせる気か」


「いや、今度は書かなくても痛みがあったことにできるそうだ」


「そんな曖昧な記録を認めれば、家が冤罪を受ける」


「痛みあり・内容非開示など、証拠にならない」


 その声は、レイノルド公爵邸にも届いた。


 グレゴールは報告を読み、低く唸った。


「証拠にならない、か」


 家令が控えている。


「はい」


「確かに、内容非開示では責任追及の証拠にはならん」


「はい」


「だが、本人が今は語れない痛みの存在を、消さないためには必要だ」


 グレゴールは、自分で言ってから少し黙った。


 家令は何も言わない。


「……私がこれを言うのは、遅すぎるな」


「遅いことと、不要なことは別です」


「王妃宮のようなことを言う」


「便利ですので」


 グレゴールは、少しだけ苦い顔で笑った。


「公爵家の過去記録にも、この区分を入れろ」


「痛みあり・内容非開示、ですか」


「ああ。セレスティアが語っていない部分まで、こちらが勝手に空白として扱わないために」


「承知しました」


「ただし」


 グレゴールは、声を低くした。


「内容非開示を理由に、私が何も問われないわけではない。記録がないから責任もない、とはしない」


「その一文も入れます」


「書け」


 家令は丁寧に書いた。


『セレスティア様に関する過去負担について、本人未申告・内容非開示の領域が存在する可能性を認める。内容非開示をもって、負担不存在または公爵家責任不存在とは扱わない』


 グレゴールは、その文を読んで目を閉じた。


 これで、また逃げ道が一つ消えた。


 だが、逃げ道を消すことが今の自分の仕事なのかもしれない。


 王太子府でも、同じ基準は採用された。


 アデルは、痛みの記録に関する王妃宮文書を読み、しばらく黙っていた。


「痛みあり。内容非開示」


 彼はその言葉を繰り返した。


 エドが尋ねる。


「王太子府でも使いますか」


「使う」


 アデルは即答した。


「特に、王太子府の過去対応検証で必要になる。セレスティアだけでなく、過去の侍女、書記官、女官にも、語れることと語れないことがあるだろう」


 ラウルが難しい顔をした。


「殿下。内容非開示の痛みを認めると、検証が曖昧になります」


「認めない方が、もっと歪む」


「しかし、証拠として」


「証拠と記録を分ける」


 アデルは静かに言った。


「責任追及に使う証拠と、本人がまだ語れない痛みの存在を消さない記録は別だ」


 エドが筆を取った。


 アデルはそれを見て、少しだけ笑った。


「書け」


「はい」


 エドは書いた。


『証拠と、痛みの存在記録を区分する。内容非開示は責任追及の直接証拠ではないが、負担不存在の証拠にもならない』


 アデルはそれを読み、深く頷いた。


「これも、私自身に返ってくる」


 ラウルが沈黙する。


「彼女が語らないから、傷ついていなかったわけではない。笑っていたから、大丈夫だったわけでもない。記録がないから、負担がなかったわけでもない」


 アデルの声は、静かだが重かった。


「私は、その空白を都合よく読んできた」


 エドは、今度はペンを止めた。


 記録してよいのか迷ったのだろう。


 アデルは小さく言った。


「それも書け」


 エドは頷き、記録した。


 北方辺境伯家に王妃宮、王太子府、公爵家の対応報告が届いたのは夕方だった。


 セレスティアは、順に読んだ。


 若い令嬢たちの証言用紙に「書かない選択」が加えられたこと。

 公爵家が、本人未申告の痛みを不存在として扱わないと記録したこと。

 王太子府が、証拠と痛みの存在記録を分けたこと。


 読み終えて、セレスティアは長く黙った。


 ノアは急かさない。


「……少し、怖いです」


 セレスティアは言った。


「はい」


「痛みあり・内容非開示。これは、私にとって救いにもなります。でも、同時に、周囲が“セレスティアにはまだ語らない痛みがある”と勝手に想像する余地にもなります」


「はい」


「また物語にされるかもしれない」


「されるかもしれません」


「でも、全部書かされるよりはいい」


「はい」


「何もなかったことにされるよりも」


「はい」


 セレスティアは帳面を開いた。


『痛みあり・内容非開示。

 救いでもあり、危うさでもある。

 でも、今の私には必要な棚だと思う。

 私は、まだ全部を書けない。書きたくない。

 それでも、書かない痛みがなかったことにはならない』


 書き終えて、少しだけ目元が熱くなった。


 泣くほどではない。


 ただ、胸の奥で十三歳の自分が少しだけこちらを見たような気がした。


 あの子は、まだ何も言わない。


 それでいい。


 言えないことにも、存在を認める棚ができた。


 それだけでも、今日のセレスティアには十分だった。


 夜、母の覚書の箱は相変わらず閉じられていた。


 だが、箱の横に置かれた紙の中に、セレスティアは一枚だけ新しく加えた。


『痛みあり。内容非開示でもよい』


 そして、灯りを消す前に小さく呟いた。


「書かない痛みも、ここにある」


 誰に聞かせるためでもない。


 ただ、自分の中の空白へ向けた言葉だった。

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