第81話 監査官は、涙の場所を記録しない
会計監査官イザベル・トーンは、物語を読まない人だった。
王宮会計監査局から派遣された彼女は、灰色の外套に、飾り気のない黒い鞄を一つ持って療養所へ現れた。
年齢は三十代半ばほど。
貴族家の出身らしいが、身につけているものに華やかさはほとんどない。
髪はきっちりまとめられ、表情は穏やかでも冷たくもない。
ただ、机の上に置かれた帳簿を見る目だけが、妙に鋭かった。
療養所長オルガは、彼女を小さな会計室へ案内した。
同席者は、療養所の会計担当修道女、王宮会計監査局の補佐官一名。
王妃宮からは、立会いを希望する声もあった。
だが、最終的にリリアナは行かなかった。
理由は簡単だ。
行けば、また物語になる。
王妃宮のリリアナ様が、療養所の帳簿確認にまで心を砕いた。
そう語られるのは、今は違う。
必要なのは、帳簿を見る人であって、姉妹の成長を見せる場ではない。
だから、王妃宮は資料だけを送った。
セレスティアも行かなかった。
北方辺境伯家も、現地立会いは出さなかった。
レイノルド公爵家も同じだ。
誰も、物語の中心人物としてそこに立たない。
会計室にあるのは、帳簿と領収書と納品記録だった。
イザベルは椅子に座ると、最初に言った。
「確認範囲を読み上げます」
オルガが頷く。
「お願いします」
「冬期療養環境整備費。確認対象は、寄付元記録、金額、用途指定、支出日、購入物品、受領確認、未使用残額の有無。確認対象外は、患者名、病状、寝台番号、家族状況、寄付に関係しない療養所内部記録」
彼女は顔を上げた。
「この範囲で相違ありませんか」
「ありません」
オルガは即答した。
イザベルは補佐官に目を向ける。
「記録」
「はい」
補佐官が筆を走らせる。
イザベルは次に、オルガへ言った。
「患者名を含む記録が机上に混ざっている場合、今のうちに下げてください」
オルガは静かに一冊の薄い綴じを脇の棚へ戻した。
「こちらは病室割当表です。確認対象外ですね」
「はい。不要です」
その言い方に、オルガはほんの少しだけ表情を和らげた。
「不要と言っていただけるのは、助かります」
「確認に不要なものを出されると、こちらも困ります」
イザベルの声は淡々としていた。
慰めではない。
だが、それがよかった。
会計室では、そこから淡々と確認が進んだ。
薬草費。
購入先。
納品日。
数量。
支出額。
受領印。
寝具洗浄費。
洗浄業者。
枚数。
洗浄方法。
強い香料を使わない指定。
再納品予定。
代替防虫処理費。
従来の防虫香布を避けた理由。
刺激の少ない処理の試験記録。
薬師ギルドの助言費。
イザベルは、必要なところだけ質問した。
「この薬草は、通常より単価が高いですね」
会計担当修道女が答える。
「冬期は仕入れが難しくなるためです。昨年同時期の価格表があります」
「出してください」
「はい」
紙が出る。
イザベルは比較し、頷いた。
「上昇幅は妥当。記録」
補佐官が書く。
「寝具洗浄費の香料不使用指定に追加料金があります」
オルガが答える。
「通常業者は仕上げに香りを残します。今回はそれを避けるため、別工程にしています」
「その理由は?」
「王妃宮で香気源確認の件がありました。療養所でも、咳の強い患者には香りが刺激になる場合があります」
「医学的助言はありますか」
「薬師ギルドからの文書があります」
「確認します」
イザベルは文書を読み、必要な箇所だけを写した。
そこに涙はなかった。
感動もなかった。
故エレナの名も、セレスティアの名も、リリアナの名も出てこない。
ただ、帳簿が合うかどうか。
用途が適切かどうか。
支援が指定された範囲で使われたかどうか。
それだけが、淡々と確認された。
昼前には、監査は終わった。
イザベルは最後に、会計室の小さな机で概要報告を書いた。
『冬期療養環境整備費について、寄付記録、支出記録、物品購入記録、受領確認を照合。用途指定に反する支出なし。未使用残額は次回薬草購入に繰越予定。患者名、病状、寝台番号等の個人情報は確認対象外とし、閲覧していない』
書き終えると、彼女はオルガへ確認を求めた。
「事実に相違はありますか」
「ありません」
「では、署名を」
オルガは署名した。
イザベルも署名する。
補佐官も記録した。
それで終わりだった。
劇的なことは何も起きなかった。
母の名誉も語られなかった。
娘の苦しみも語られなかった。
王宮改革の進展も、姉妹の和解も、王太子府の変化も、誰も口にしなかった。
帳簿が合った。
用途に問題はなかった。
患者情報は見なかった。
それだけ。
その報告が王妃宮に届いたとき、リリアナは小会議室で立ったまま読んだ。
読み終えて、しばらく黙る。
エルンが尋ねた。
「問題なし、ですね」
「はい」
「よかったです」
「はい」
リリアナは頷いた。
だが、胸の中には奇妙な空白があった。
もっと安堵すると思っていた。
もしかすると、涙ぐむかもしれないと思っていた。
自分たちが必死に線を引き、帳簿を守り、患者情報を守った。
そして第三者監査も通った。
それは大きなことのはずだ。
なのに、届いた報告書は淡々としていた。
『用途指定に反する支出なし』
『患者名、病状、寝台番号等の個人情報は確認対象外とし、閲覧していない』
冷たいくらい実務的だった。
「監査官は、涙の場所を記録しないのですね」
リリアナはぽつりと言った。
マルタが静かに見る。
「それが仕事です」
「はい」
「不満ですか」
「いいえ。少し寂しいだけです」
「はい」
「でも、これでいいのだと思います」
リリアナは、報告書を机に置いた。
「涙や感情まで監査報告に入ったら、それはまた物語になります」
「その通りです」
「帳簿は、帳簿でいい」
「はい」
リリアナは、壁に新しい紙を貼るか迷った。
そして、今日は貼らなかった。
何でも壁に貼ればいいわけではない。
この報告書は、会計記録として保管するものだ。
感情の戒めとして飾るものではない。
「保管場所は?」
マルタが聞いた。
「会計確認綴じです」
「壁ではなく?」
「はい。壁ではなく」
そう言えたことに、リリアナは少しだけ驚いた。
紙を貼ることで安心する癖がつき始めていた。
だが、紙にも置き場所がある。
壁に貼る紙。
帳簿に綴じる紙。
私的記録にしまう紙。
今はまだ開かない紙。
それぞれ違う。
リリアナは、自分でその違いを少しだけ掴み始めていた。
王太子府でも、同じ監査報告が読まれていた。
アデルは報告書を机に置き、深く息を吐いた。
「問題なし」
エドが頷く。
「はい。用途指定に反する支出なし。患者情報閲覧なし」
「よかった」
その言葉は短かった。
だが、本音だった。
ラウルが横から言った。
「殿下。これでヴァルム侯爵側の疑義は一つ退けられます」
「ああ」
「外部向けには、もう少し強く出てもよろしいのでは」
「強く?」
「中立監査で問題なしと確認された。これ以上の疑義は政治的攻撃である、と」
アデルは少し考えた。
言いたい気持ちはある。
ヴァルム侯爵側は、明らかに帳簿を口実に揺さぶってきた。
監査が通ったなら、反撃することもできる。
だが、そこで強く出れば、この監査報告がまた政治の武器になる。
せっかく感情や物語から切り離した帳簿を、今度は王太子府が剣として振るうことになる。
「必要最低限でよい」
アデルは言った。
「監査確認済み。用途指定に反する支出なし。患者情報は閲覧対象外。これだけを回答する」
「しかし」
「ラウル」
アデルは静かに彼を見る。
「帳簿は剣でもない」
エドがすぐ顔を上げた。
「今の」
「書け」
アデルは先に言った。
エドは少し笑い、記録した。
『帳簿は覗き穴ではなく、剣でもない』
アデルは、その一文を見て苦笑した。
「少し言いすぎたか」
「分かりやすいです」
「なら、よい」
ラウルは溜息をついた。
「殿下まで、王妃宮の壁のような言葉を」
「感染した」
「完全に」
アデルは少し笑った。
以前の王太子府なら、監査報告を使って相手を詰めただろう。
今も、その誘惑はある。
だが、帳簿は責任を確認するためのものだ。
政敵を斬るために作ったものではない。
それもまた、線引きだった。
北方辺境伯家に報告が届いたのは夕方だった。
セレスティアは、静かに読んだ。
用途指定に反する支出なし。
患者情報は閲覧していない。
未使用残額は次回薬草購入に繰越予定。
とても乾いた文書だった。
しかし、その乾きがありがたかった。
「何も起きませんでした」
セレスティアは言った。
ノアが頷く。
「はい」
「帳簿が合って、患者情報は見られず、残額は繰り越される」
「はい」
「それだけですね」
「それだけです」
セレスティアは報告書を机に置いた。
ほんの少しだけ、肩から力が抜けた。
「それだけ、で済むこともあるのですね」
「あります」
「私は、何かが起きることに慣れすぎていました」
「そうかもしれません」
「騒ぎになって、誰かが泣いて、誰かが責められて、誰かが謝って、何かの物語になる」
「はい」
「でも、今回は帳簿が合っただけ」
「はい」
セレスティアは、小さく笑った。
「とても地味です」
「地味でよいと思います」
「はい」
彼女は帳面を開いた。
『第三者監査終了。用途指定に反する支出なし。患者情報は見られなかった。
何も劇的なことは起きなかった。
帳簿が合っただけ。
それが、こんなにありがたいとは思わなかった。
監査官は涙の場所を記録しない。だから守られるものもある』
書き終えたあと、セレスティアは母の覚書の箱を見た。
母の覚書を読む日にも、もしかすると似た線引きが必要になる。
何を読むか。
何を記録するか。
何を誰にも話さないか。
涙の場所まで、誰かに記録させなくていい。
自分の感情は、監査報告ではない。
そう思えた。
レイノルド公爵邸でも、監査報告は静かに受け取られた。
グレゴールは、いつもなら何か言いそうな場面で、しばらく黙っていた。
家令が控えている。
「問題なし、か」
「はい」
「患者情報も見られていない」
「はい」
「よかったな」
「はい」
そこで会話は終わるかと思われた。
だが、グレゴールは報告書を閉じずに言った。
「私は、少し物足りないと思っている」
家令は顔を上げた。
「物足りない、ですか」
「ああ。監査で問題なしとなれば、公爵家の判断も正しかったと示せる。そう思った」
「はい」
「だが、この報告書はそういうためのものではない」
「はい」
「帳簿は剣ではない、ということか」
家令がわずかに目を見開いた。
「王太子府からの共有文にも、同様の記録がありました」
「そうか」
グレゴールは苦く笑った。
「王太子と同じことを考えたとは、私も焼きが回ったな」
「悪いことではないかと」
「そうか?」
「はい」
グレゴールは、報告書を丁寧に畳んだ。
「これは会計確認綴じへ」
「承知しました」
「エレナの記録の近くには置くな」
「なぜでしょう」
「混ざる」
短い答えだった。
だが、家令には十分だった。
母の覚書。
療養所支援。
寄付監査。
関連はある。
だが、同じではない。
混ぜれば、また誰かの物語になる。
「会計確認綴じへ保管します」
「ああ」
グレゴールは椅子にもたれた。
「紙にも置き場所があるのだな」
家令は、少しだけ穏やかに答えた。
「はい」
「人にも、あったはずだ」
その言葉は、ひどく小さかった。
家令は聞こえていたが、何も言わなかった。
グレゴールも、記録しろとは言わなかった。
すべてを記録すればよいわけではない。
沈黙にも、置き場所がある。
夜、王妃宮では、リリアナが会計確認綴じを棚へ戻していた。
マルタが隣で見ている。
「壁に貼らないのですね」
「はい」
「なぜ?」
「これは、見せるための言葉ではなく、保管するための確認だからです」
「よい判断です」
リリアナは棚の扉を閉めた。
「少し、貼りたくなりました」
「でしょうね」
「でも、貼らない練習も必要です」
「はい」
リリアナは苦笑した。
「紙に頼りすぎですね」
「紙は支えになりますが、杖を振り回すと危ないです」
「それも記録したいです」
「それは貼らなくていいです」
「厳しい」
小さな笑い。
そのあと、リリアナは少し真面目な顔になった。
「マルタ様」
「はい」
「お姉様が母の覚書を読む日が来たとして、私が何かを知りたいと思っても、それが会計監査のように必要な確認なのか、ただ覗きたいだけなのか、分からなくなるかもしれません」
「そのときは、分けましょう」
「はい」
「今すぐ答えを持たなくてもいい」
「……はい」
リリアナは棚に手を添えたまま頷いた。
姉の箱は、まだ開いていない。
でも、その箱をめぐって、自分も変わり続けている。
何を知りたいのか。
なぜ知りたいのか。
知ったあとどうするのか。
その問いから、もう逃げられない。
同じ夜、セレスティアは母の覚書の箱を前に座っていた。
開けない。
今日も開けない。
ただ、箱の前で静かに茶を飲んでいる。
ノアは少し離れた席にいた。
セレスティアは、ぽつりと言った。
「閣下」
「はい」
「いつか読むとしても、私は泣くかもしれません」
「はい」
「怒るかもしれません」
「はい」
「何も感じないかもしれません」
「はい」
「そのどれも、報告書にしなくていいのですね」
「もちろんです」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
「監査官は、涙の場所を記録しない」
「はい」
「私も、自分の涙を全部記録しなくていい」
「はい」
帳面に書くことは救いになる。
だが、書かないこともまた、自分を守る。
そのことを、今日ようやく少し理解した。
セレスティアは箱に触れなかった。
ただ、茶器を手に取った。
温かい。
今夜は、それだけを感じた。




