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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第78話 名前を出さない善意にも、帳簿はいる

 冬期療養環境整備費。


 その名義で支援が届き、療養所では寝台が二つ替わった。


 咳き込む子どもが眠る寝台。

 洗い直された布。

 香りの強い防虫布の代わりに用意された、刺激の少ない処理。

 薬草棚に並んだ、冬の夜に必要な薬。


 それは美談にならなかった。


 けれど、確かに役に立った。


 セレスティアは、そこで一度は息をつけると思っていた。


 思っていたのだが。


 王都は、善意が静かすぎることにも文句を言う。


 翌日の昼、北方辺境伯家に届いた報告書には、こうあった。


『療養所への“冬期療養環境整備費”について、一部より「名義を掲示しない寄付は不透明ではないか」との声あり』


『匿名寄付を装った政治的資金ではないかとの憶測』


『誰の支援かを明らかにしないことは、責任の所在を曖昧にするとの意見』


『一方で、寄付者名を掲示しない配慮は妥当との声もあり』


 セレスティアは、読み終えてしばらく黙った。


 そして、深く息を吐いた。


「今度は、不透明ですか」


 ノアは向かいで茶を飲んでいたが、いつもより少し苦い顔をしていた。


「そう来ましたね」


「名を出せば物語にされる。名を出さなければ不透明だと言われる」


「はい」


「では、どうすれば」


 言いかけて、セレスティアは自分で止まった。


 どうすれば、と聞く前に分ける。


 もう何度目か分からない。


 彼女は白紙を引き寄せた。


『寄付名義非掲示と不透明性の区別』


 一、外部掲示をしないこと。

 二、内部記録を残さないこと。

 三、会計監査に応じないこと。

 四、用途を曖昧にすること。


 書いてから、セレスティアは少しだけ顔を上げた。


「問題は、たぶん一と二が混同されていることです」


 ノアが頷く。


「名を掲示しないことと、記録しないことは別です」


「はい」


「今回、内部記録には残っています」


「残っています。北方辺境伯家、王妃宮、レイノルド公爵家、療養所。それぞれに」


「用途も明記されています」


「薬草費、寝具洗浄費、代替防虫処理費」


 セレスティアは紙に書き足した。


『非掲示であっても、内部記録、用途記録、監査可能性は必要』


 書き終えて、少しだけ苦笑する。


「善意にも帳簿がいるのですね」


「むしろ善意だからこそ、いるのかもしれません」


「なぜですか」


「善意は、疑われると弱い。記録があれば、少なくとも用途は守れます」


 セレスティアは、その言葉をしばらく考えた。


 善意は疑われると弱い。


 たしかにそうだ。


 美談にすれば消費される。

 隠しすぎれば疑われる。

 なら、名誉として掲げるのではなく、帳簿として残す。


 地味で、面倒で、華やかさのないやり方。


 でも、たぶん必要だ。


「王妃宮も動くでしょうか」


「おそらく」


「では、私からは出さなくてよいですね」


 ノアは、少しだけ目を細めた。


「今の判断は早かったですね」


「学びました」


「よいことです」


「少し、寂しくもあります」


「なぜ?」


「私が書かなくても、誰かが整えてくれるかもしれないと思えるようになったので」


 セレスティアは、そこで小さく笑った。


「良い寂しさ、でしょうか」


「たぶん」


「では、王妃宮を待ちます」


 その頃、王妃宮では、まさに同じ話題で会議が始まっていた。


 リリアナは報告書を読み、思わず天井を仰いだ。


「今度は不透明……」


 エルンが困った顔で言う。


「外部掲示をしないことが、匿名寄付と混同されているようです」


「匿名ではありませんよね」


「内部記録上は、寄付元も用途も確認済みです」


「では、問題は説明不足ですね」


 マルタが横から言った。


「はい。名を出さない配慮と、記録を残さない不透明性を分ける必要があります」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「最近、何が来ても“分ける必要があります”で始まりますね」


「便利ですので」


「本当に便利です」


 彼女は白紙を出した。


『非掲示寄付に関する暫定基準』


 一、非掲示とは、受領先の掲示板や社交報告に寄付者名を出さないこと。

 二、匿名とは、受領先も寄付者を把握しないこと。

 三、非掲示寄付であっても、内部会計記録には寄付者、金額、用途、受領日を残す。

 四、用途指定がある場合、使用後に用途報告を作成する。

 五、名誉目的の掲示を避けることと、責任を消すことを混同しない。


 五番を書いたところで、リリアナはペンを止めた。


「これですね」


 マルタが頷く。


「はい」


「名誉目的の掲示を避けることと、責任を消すことは違う」


「よい文です」


「お姉様も、きっと同じことを考えている気がします」


「そうかもしれません」


 リリアナは少し迷い、それから苦笑した。


「今のは比較ではなく、想像です」


「分かっています」


「先に言っておきました」


「成長しましたね」


「子ども扱いに聞こえます」


「半分は」


「マルタ様」


 短い笑いが起きた。


 だが、文書の内容は重かった。


 エルンが清書しながら言う。


「王妃宮として出す場合、寄付者名を内部記録へ残すことを明記すると、今度は内部記録の閲覧要求が来るかもしれません」


「来るでしょうね」


 リリアナはすぐに答えた。


「では、閲覧範囲も必要です」


 また紙が増える。


 それでも、増やさなければいけない。


『内部記録閲覧範囲』


 一、寄付先会計担当。

 二、必要に応じた監査役。

 三、寄付者本人または代理人。

 四、外部公開は寄付者および受領先双方の合意がある場合のみ。

 五、噂確認目的の閲覧は認めない。


 最後の一行で、エルンが小さく笑った。


「噂確認目的」


「ありますよね」


「あります」


「“誰が出したのか気になるから見せて”は、監査ではありません」


 リリアナがきっぱり言うと、マルタが満足そうに頷いた。


「その通りです」


 王妃宮の暫定基準は、その日のうちに関係各所へ共有された。


 療養所長オルガからは、すぐに短い返答が来た。


『ありがたい基準です。当所でも、掲示不要と記録不要を混同しないよう、会計簿に非掲示欄を設けます。患者の寝台に誰の名札もつけませんが、帳簿には責任を残します』


 リリアナは、その一文を読んでまた壁を見た。


『必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草』


 その下に、新しい紙を貼るか迷った。


 そして、貼った。


『患者の寝台に名札は不要。帳簿には責任を残す』


「壁が本当に足りませんね」


 エルンが呟く。


 リリアナは真顔で答えた。


「壁使用計画、暫定版一を作りましょうか」


「冗談ですよね」


「半分は」


 マルタが横から言った。


「棚を増やしましょう」


 三人は少しだけ笑った。


 紙が増える。


 けれど、その紙が誰か一人に押しつけられていた責任を、少しずつ外へ出している。


 そのことだけは、確かだった。


 王太子府にも王妃宮の基準は届いた。


 アデルは読み終えて、すぐに採用を決めた。


「王太子府の支援にも同じ基準を使う」


 エドが頷く。


「非掲示と匿名の区別ですね」


「ああ。王太子府は名を出すと重くなりすぎる。だが、記録を残さなければ別の問題になる」


 ラウルが口を挟む。


「殿下。王太子府の支援なら、むしろ名を出すべきでは。民に安心感を与えます」


「場合による」


 アデルは答えた。


「飢饉や災害なら、王太子府の名が安心になることもある。だが今回は、セレスティアと故エレナ夫人の私的記録をめぐる騒動が絡んでいる。王太子府の名を掲げれば、また政治になる」


「すでに政治では?」


「だから、これ以上乗せない」


 アデルの声は静かだった。


 エドが記録している。


『王太子府支援においても、名誉掲示と責任記録を分離。非掲示の場合も内部会計記録、用途報告、監査可能性を保持』


 アデルはその文を見て、小さく息を吐いた。


「名を出さないことは、逃げではない。だが、記録しないことは逃げになり得る」


 エドがすぐに顔を上げた。


「今の一文、入れますか」


「入れろ」


「はい」


 ラウルは少しだけ苦い顔をした。


「殿下は最近、ご自分の言葉をすぐ記録させるようになりましたね」


「後で逃げにくい」


「それは……よいことなのでしょうか」


「たぶん、私には必要だ」


 アデルは淡々と言った。


「以前の私は、良いことをしたつもりで名を出し、嫌なことは記録から遠ざけていた」


 室内が静かになる。


「これからは逆も必要だ。名を出さなくても責任は残す」


 エドは、丁寧にその言葉を書き留めた。


 レイノルド公爵邸では、グレゴールが王妃宮の基準を読んでいた。


 家令が控えている。


「非掲示と匿名の区別、か」


「はい」


「公爵家でも必要だな」


「すでに暫定案を作成しております」


「早い」


「必要になると思いましたので」


 グレゴールは、家令をじろりと見た。


「お前、最近先回りするな」


「以前からでございます」


「そうだったな」


 短い沈黙。


 グレゴールは紙をめくった。


「患者の寝台に名札は不要。帳簿には責任を残す……誰の言葉だ」


「療養所長オルガ殿です」


「よい言葉だ」


「はい」


「公爵家でも使う」


 家令は頷き、すぐに書き込む。


 グレゴールは、少しだけ不機嫌そうに言った。


「エレナの名を出さない支援は、まだつまらんと思う」


「はい」


「だが、帳簿には残す。公爵家が出したことも、用途も」


「はい」


「いつかセレスティアが見たいと言えば見せられるように」


 家令が、わずかに手を止めた。


「セレスティア様が、でございますか」


「そうだ」


 グレゴールは窓の外を見た。


「今すぐではない。見たいかどうかも分からん。だが、名を出さなかった支援まで消えてしまえば、また何もなかったことになる」


「承知しました」


「それから、エレナの名を出さなかった理由も残せ」


「理由」


「エレナを忘れたからではない。セレスティアの未読の権利と感情整理を妨げないため。そう書け」


 家令は静かに書いた。


 グレゴールは、その文字を見て苦い顔をした。


「まるで私が、できた父親のようだな」


「事実としては、今回の判断理由です」


「過去は消えん」


「消えません」


「なら、よい」


 家令は顔を上げた。


「よい、ですか」


「今だけ綺麗に見える文にするな。過去にできなかったから、今回はこうした、と書け」


「承知しました」


 その一文は、公爵家の内部記録に残された。


『過去にセレスティア様の感情整理を待たず、家の都合を優先した反省により、今回は故エレナ夫人名義での掲示を避けた』


 グレゴールは、それを読んでしばらく黙った。


 痛い。


 だが、残す。


 それが、今できる責任だった。


 夕方、北方辺境伯家に王妃宮、王太子府、公爵家、それぞれの基準と記録方針の写しが届いた。


 セレスティアはすべて読み終え、長く息を吐いた。


「私が書かなくても、整いました」


 ノアが頷く。


「はい」


「非掲示と匿名の区別。内部記録。用途報告。閲覧範囲」


「はい」


「私なら、もう少し早く」


 言いかけて、セレスティアは自分で笑った。


「いけませんね」


「言ってもいいのでは」


「いいのですか」


「思ったことは事実です。そこから、では自分が全部やる、にならなければ」


 セレスティアは、少し考えてから頷いた。


「私なら、もう少し早く整理できたかもしれません」


「はい」


「でも、私がやらなくても、皆が整理しました」


「はい」


「少し遅くて、少し不格好で、でも残る形で」


「はい」


 セレスティアは、王妃宮の紙に書かれた一文を読み返した。


『噂確認目的の閲覧は認めない』


 思わず口元が緩む。


「リリアナでしょうか、これ」


「可能性はありますね」


「強くなりました」


「はい」


「いいえ、違いますね。強くなったというより、自分の言葉を持ち始めた」


「そうですね」


 セレスティアはその表現に、自分で少し驚いた。


 妹が、自分の言葉を持つ。


 それは嬉しい。


 そして、やはり少し寂しい。


 でも、今日はその寂しさが優しかった。


 彼女は帳面を開いた。


『名を出さない支援が、不透明だと言われた。

 王妃宮が、非掲示と匿名を分けた。療養所長は、患者の寝台に名札は不要、帳簿には責任を残す、と書いた。

 この言葉が好きだ。

 名を掲げないことは、責任を消すことではない。

 私は書かなかった。皆が書いた。

 少し不格好でも、皆の紙になった』


 書き終えると、胸が少し軽かった。


 その夜、リリアナは王妃宮の礼拝室へ行った。


 花は置かなかった。


 今日は、花ではなく、小さな紙を一枚持っていた。


 そこには、療養所長の言葉を書いてある。


『患者の寝台に名札は不要。帳簿には責任を残す』


 リリアナはその紙を礼拝室の台には置かなかった。


 そこは祈りの場所であって、会議室ではない。


 代わりに、胸元で一度だけ読み、そっと折りたたんだ。


「お母様」


 小さく言う。


「今日は、名前ではなく、責任の話を覚えました」


 誰も答えない。


「私はまだ、お母様の名前をどう扱えばいいか分かりません。でも、名前を出さないことが、忘れることではないと少し分かりました」


 静かな礼拝室に、その声だけが落ちた。


「お姉様も、そう思える日が来るでしょうか」


 それは祈りだった。


 母への祈りなのか、姉への祈りなのか、自分でも分からない。


 でも、今日はそれでよかった。


 同じ夜、セレスティアは母の覚書の箱を見た。


 箱の周りには、紙が増え続けている。


 けれど今日、新しい紙は増やさなかった。


 代わりに、療養所長の言葉を心の中で繰り返した。


 患者の寝台に名札は不要。

 帳簿には責任を残す。


 母の名前も、父の名前も、自分の名前も。


 出すか出さないかだけが問題ではない。


 残すべき場所に残すこと。

 出すべきでない場所に出さないこと。


 その区別が、少しずつ見えてきた。


 セレスティアは灯りを落とす前に、小さく呟いた。


「名前を出さないことと、忘れることは別」


 また別。


 けれど今日は、その「別」が少しだけ温かかった。

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