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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第77話 美談にならない善意は、こんなにも静かだった

冬期療養環境整備費。


 その名義は、王都の人々が期待していたものとは、あまりにも違っていた。


 故エレナ公爵夫人追悼寄付。


 セレスティア・レイノルド令嬢より、亡き母へ捧ぐ慈善。


 姉妹和解記念支援。


 北方辺境伯家による救済基金。


 そういう名前なら、きっと社交界は喜んだ。


 涙ぐむ者もいただろう。


 亡き母の善意を、傷ついた娘が受け継いだ。

 公爵家の歪みを、慈善が少しずつ癒やしていく。

 王都はまだ、美しい物語を信じられる。


 そんなふうに語れたからだ。


 だが、実際に療養所へ送られた支援の名義は、ただの実務名だった。


『冬期療養環境整備費』


 用途は、薬草費、寝具洗浄費、代替防虫処理費。


 個人名の掲示なし。

 追悼文なし。

 肖像画なし。

 娘からの一文なし。


 支援は届いた。


 けれど、王都が泣ける物語は届かなかった。


 その静けさに、最初に戸惑ったのは、王都の人々だった。


「それだけ?」


「ええ。療養所には布と薬草が届いたそうですわ」


「セレスティア様のお名前は?」


「掲示なしですって」


「レイノルド公爵家も?」


「名義を出していないとか」


「まあ……それでは誰の善意か分からないではありませんの」


 誰の善意か。


 その問いそのものが、セレスティアには少しだけ苦しく感じられた。


 北方辺境伯家の王都屋敷で、彼女は療養所から届いた受領報告を読んでいた。


 報告は短い。


 薬草の数量。

 寝具洗浄の予定日。

 防虫処理の変更内容。

 冬の間、咳の出やすい患者を移す部屋の準備状況。


 最後に、療養所長オルガの字で一文だけ添えられていた。


『これで、夜に咳き込む子の寝台を二つ替えられます』


 セレスティアは、その一文で指を止めた。


 咳き込む子の寝台を二つ替えられる。


 それは、どんな追悼文よりも具体的だった。


 母がどう思うか。

 王都がどう語るか。

 自分が救われるか。


 その前に、咳き込む子どもが眠る寝台がある。


「……届いたのですね」


 セレスティアは呟いた。


 ノアは向かいで頷いた。


「はい」


「美談にはなりませんでした」


「なりにくいでしょうね」


「でも、寝台が二つ替わります」


「はい」


 セレスティアは、報告書を胸元へ引き寄せそうになって、やめた。


 これは自分を慰めるための紙ではない。


 療養所の実務報告だ。


 大切に扱うべきだが、自分の感傷で抱きしめるものではない。


 そう思って、そっと机に置いた。


「思ったより、静かです」


「支援が?」


「はい」


 彼女は、少し困ったように笑った。


「もっと、何かが変わるような気がしていました。寄付をすれば、少し心が軽くなるとか。母への気持ちが少し整理されるとか」


「実際は?」


「寝台が二つ替わるだけです」


「それは大きいことです」


「はい。大きいことです」


 セレスティアは頷いた。


「でも、私の心はあまり変わりません」


 言ってから、少しだけ罪悪感が浮かんだ。


 人の役に立つことをしたのに、自分が救われないことにがっかりする。


 それは、どこか浅ましい気がした。


 ノアは静かに言った。


「寄付は、あなたの心を治す薬ではありません」


 その言葉は、優しくはなかった。


 でも、正しかった。


 セレスティアはゆっくり息を吐いた。


「そうですね」


「療養所の寝台を替えるためのものです」


「はい」


「あなたの心は、また別に扱う必要があります」


「また別です」


「はい」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「本当に、全部別ですね」


「混ぜると苦しくなるものが多いので」


「はい」


 彼女は帳面を開いた。


『支援は届いた。咳き込む子の寝台が二つ替わる。

 それは良いこと。

 でも、私の心がすぐ軽くなったわけではない。

 寄付は、私の心を治す薬ではない。

 人を助けることと、自分が救われることは別。

 別だからこそ、支援を美談にしなくて済むのかもしれない』


 書き終えると、少しだけ胸のざわつきが落ち着いた。


 美談にしない善意。


 それは、こんなにも静かで、こんなにも地味で、こんなにもすぐには自分を救わない。


 でも、寝台は替わる。


 その事実だけは、確かだった。


 同じ頃、王妃宮でも療養所からの受領報告が読まれていた。


 リリアナは、最後の一文を何度も見た。


『これで、夜に咳き込む子の寝台を二つ替えられます』


 彼女は、しばらく黙っていた。


 マルタが隣に立っている。


「リリアナ様」


「はい」


「泣きそうですか」


「泣きそうですが、泣く理由が少し分かりません」


「では、分解しますか」


「します」


 リリアナはすぐに紙を取った。


 最近はもう、言われなくても白紙へ手が伸びる。


『療養所支援報告を読んだ時の感情』


 一、寝台が替わることへの安堵。

 二、母の慈善が美談にされなかったことへの安心。

 三、母の名が出ないことへの寂しさ。

 四、姉の名も出ないことへの安堵。

 五、誰も褒められない支援が少し寂しい。

 六、それでも、これでよかったと思う。


 書き終えて、リリアナは顔を上げた。


「私は、誰かに褒めてほしかったのかもしれません」


 マルタは静かに頷く。


「はい」


「母の名も、姉の名も、私の名も出ない。正しいと思います。でも、誰も“よくやった”と言われないのは、少し寂しいです」


「人間らしい感情です」


「またそれですね」


「便利ですので」


 リリアナは、少し笑った。


 そして、壁に貼られた紙を見た。


『必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草』


 その一文は、今では王妃宮の小会議室で妙な存在感を放っている。


 皆が会議で美しい言葉に流れそうになるたび、ちらりと見る。


 清潔な布と薬草。


 現実に戻すための釘だった。


「マルタ様」


「はい」


「美談にならないことって、こんなに寂しいのですね」


「はい」


「でも、美談にしたら、きっともっと苦しかった」


「そうですね」


「では、寂しいくらいでちょうどよいのでしょうか」


「今回に限っては、そうかもしれません」


 リリアナは、受領報告をそっと畳んだ。


「夕方、また礼拝室に花を置いてもいいですか」


「もちろんです」


「今日は、母にではなく……いえ、母にもですが、咳き込む子のために」


「はい」


「名前も知らない子ですが」


「それでよいと思います」


 リリアナは小さく頷いた。


 母を偲ぶ気持ち。

 姉への罪悪感。

 療養所への支援。

 名前も知らない子どもへの祈り。


 全部が混ざりそうになる。


 だから、花を一輪ずつ置くしかない。


 今日は、昨日とは別の花。


 そう決めた。


 王太子府でも、支援報告は共有された。


 アデルは「冬期療養環境整備費」の名義を見て、しばらく黙っていた。


 エドが確認する。


「殿下。王太子府としても追加支援を検討しますか」


「する」


 即答だった。


「名義は?」


 エドが聞いた瞬間、アデルは少しだけ笑った。


「最近、名義が一番厄介だな」


「はい」


「王太子府名義では重すぎる。王妃宮と重なるのも避けたい。だが匿名にすれば、また妙な憶測が出る」


 ラウルが言った。


「王太子府として堂々と支援すべきでは。王妃陛下の療養環境にも関わる知見を得た件ですし」


「それも一理ある」


 アデルは頷いた。


「だが、今回は療養所の実務希望を尊重する。名義は“冬期療養実務補助費”。用途は、薬師ギルド照会費と記録様式整備費。掲示不要」


 エドが素早く書き留める。


「記録様式整備費も含めるのですね」


「ああ。王妃宮で得た香気源一覧の知見は、療養所にも役立つ。逆に療養所の現場から学ぶこともある」


 ラウルは少し怪訝そうだった。


「殿下。療養所の記録様式にまで王太子府が」


「口を出すのではない。費用を出す」


 アデルは静かに言った。


「実務者が必要とするならだ。こちらの形式を押しつけるな。療養所長に確認を取れ」


「承知しました」


 エドが頷く。


 アデルは、療養所長の一文をもう一度読んだ。


 物語ではなく、清潔な布と薬草。


 その言葉は、王太子府にも必要だった。


 王宮は、すぐに物語を作る。


 王家の慈悲。

 王太子の反省。

 王妃宮の改革。


 そういう言葉は華やかだ。


 だが、患者の寝台はそれだけでは替わらない。


「エド」


「はい」


「王太子府の壁にも貼っておけ」


「どの文を?」


「必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草」


 エドは一瞬だけ目を瞬いた。


 それから、少しだけ笑った。


「承知しました」


 ラウルは渋い顔をしたが、何も言わなかった。


 王太子府の壁にも、その日から一枚の紙が増えた。


 レイノルド公爵邸では、グレゴールが支援完了報告を読んでいた。


 家令は控えている。


「名を出さなかった」


 グレゴールが言った。


「はい」


「エレナの名も、セレスティアの名も、家の名も」


「はい」


「誰も褒めんだろうな」


「そうでしょう」


「つまらんな」


 家令は答えなかった。


 グレゴールは報告書を机に置き、苦々しく笑った。


「つまらん、と言った自分が嫌になる」


「記録いたしますか」


「するな」


「承知しました」


 少し沈黙があった。


 そのあと、グレゴールは低く言った。


「いや、書け」


 家令は黙ってペンを取る。


「グレゴール公爵、名が出ない支援をつまらないと感じる。理由、公爵家の善行として記録されないため。自覚あり。不快」


 家令は、そのまま書いた。


 グレゴールは顔をしかめた。


「醜いな」


「はい」


「そこは少し否定しろ」


「旦那様が正確な記録を」


「分かっている」


 グレゴールは椅子に深く座り込んだ。


「だが、寝台は替わる」


「はい」


「なら、それでいい」


 言い切ったあと、自分でも納得しきれていない顔をした。


 家令は、少しだけ柔らかい声で言った。


「それでいい、と言い切れない部分も含めて、今は記録でよろしいかと」


「お前は本当に、私を甘やかすのか刺すのか分からんな」


「両方かもしれません」


「王妃宮かぶれめ」


 グレゴールはそう言ったが、声に本気の怒りはなかった。


 その日の夕方、リリアナは礼拝室に花を置いた。


 昨日とは別の、小さな青い花だった。


 香りはほとんどない。


 礼拝室には誰もいなかった。


 リリアナは、台の上に花を置き、手を組んだ。


「お母様。今日は、療養所の子の寝台が替わるそうです」


 小さな声だった。


「お母様の名前ではなく、誰の名前でもなく、冬期療養環境整備費として」


 言ってから、少しだけ笑った。


「変な名前です。でも、たぶん良い名前です」


 沈黙。


 リリアナは続けた。


「私は、少し寂しいです。お母様の名前で何かを残したい気持ちもあります。でも、今はそれをすると、お姉様が苦しくなるかもしれません」


 胸が痛む。


「だから、今日は名前のない支援を良いことだと思う練習をします」


 練習。


 そう、全部練習だ。


 母を偲ぶことも。

 姉を待つことも。

 アデルとの距離も。

 自分の罪悪感を寄付に混ぜないことも。


 どれも、まだうまくできない。


 でも、練習はできる。


 礼拝室を出ると、廊下でアデルが待っていた。


 リリアナは驚く。


「殿下」


「待っていた。中には入らない方がいいと思って」


「……ありがとうございます」


 アデルは、彼女の手元を見た。


 花はもうない。


「今日は何を?」


「療養所の子の寝台のために」


「そうか」


「母のためでもあります。でも、それだけではなくて」


「うん」


「名前のない支援を、良いことだと思う練習です」


 アデルは、少しだけ目を細めた。


「良い練習だ」


「殿下もしますか」


「私も?」


「王太子府の支援も、掲示不要なのでしょう?」


「ああ」


「寂しくありませんか」


 アデルは少し考えてから言った。


「寂しい」


 リリアナは、少し驚いて彼を見た。


 アデルは苦笑する。


「王太子として、良いことをしたなら、どこかで認められたい気持ちはある。だが、それを求めると、また支援を自分の物語にしてしまう」


「はい」


「だから、私も練習する」


「では、一緒ですね」


「ああ」


 二人は廊下を歩き出した。


 並んで歩く距離は、以前より少しだけ広い。


 けれど、その距離は冷たさではなかった。


 互いの未完成を、勝手に埋めないための距離だった。


 夜、北方辺境伯家でセレスティアは、今日一日の報告を読み終えた。


 王妃宮の壁に、療養所長の一文が貼られたこと。

 王太子府にも同じ文が貼られたこと。

 レイノルド公爵家も名を出さず支援を進めたこと。

 リリアナが礼拝室に花を置いたこと。


 最後の報告は、王妃宮からではなく、マルタの短い私信に近いものだった。


『リリアナ様は本日、礼拝室に香りの薄い花を一輪置かれました。公的記録ではありませんが、必要と思い、事実のみ共有いたします。回答不要』


 セレスティアは、その一文を読んで、しばらく黙った。


 リリアナが、花を。


 母のために。

 療養所の子のために。

 たぶん、自分自身のためにも。


「リリアナらしいですね」


 セレスティアは小さく言った。


 ノアが静かに頷く。


「はい」


「少し、よかったと思いました」


「はい」


「母を偲ぶことを、全部止めたいわけではないので」


「はい」


「ただ、私に一文を書かせないでほしかった」


「はい」


 セレスティアは目を伏せた。


 リリアナの花は、自分へ向けられた圧ではない。


 母を守る演説でもない。


 王都への美談でもない。


 ただ、一輪の花。


 その距離なら、今のセレスティアも受け止められる気がした。


 彼女は帳面を開いた。


『療養所に支援が届いた。寝台が二つ替わる。

 王妃宮と王太子府の壁に、療養所長の言葉が貼られた。

 リリアナは礼拝室に花を置いたらしい。

 誰かの名前を掲げなくても、できることはある。

 誰かに褒められなくても、良いことは良いこととして残る。

 まだ少し寂しいけれど』


 最後の一文を書いて、セレスティアは少しだけ笑った。


 まだ少し寂しい。


 それを書けるようになったことも、たぶん前進だ。


 善意は、静かだ。


 美談にならない善意は、なおさら静かだ。


 だがその静けさの中で、咳き込む子の寝台が替わり、リリアナは花を置き、王太子府の壁に一文が貼られた。


 大きな和解も、涙の追悼も、劇的な救いもない。


 それでも、今日という日は少しだけ進んだ。


 セレスティアは灯りを落とす前に、母の覚書の箱を見た。


 まだ読まない。


 でも、箱の周りにある紙の空気が、昨日よりほんの少しだけ穏やかになった気がした。


 物語ではなく、清潔な布と薬草。


 そして時には、一輪の花。


 それだけで足りる日も、あるのかもしれない。

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