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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第76話 寄付の名義まで、誰かが決めたがる

 追悼茶会には出ない。


 追悼文も寄せない。


 けれど、療養所と孤児院への支援は、別に検討する。


 セレスティアがそう返答したことで、少なくとも一つの線は引けたはずだった。


 母を偲ぶこと。

 慈善を行うこと。

 娘が公に言葉を出すこと。


 それらは同じではない。


 同じ箱に入れれば、綺麗に見える。

 けれど、綺麗に見えるからこそ、危うい。


 セレスティアは、そのことを何度も紙に書いて確認した。


 だから、寄付だけならできると思っていた。


 母の追悼茶会とは切り離して、療養所と孤児院へ必要な支援を届ける。

 それなら、誰かの美談に巻き込まれずに済むかもしれない。


 そう思った。


 だが、翌朝にはもう次の問題が現れた。


「名義、ですか」


 セレスティアは、ノアから差し出された紙を見て言った。


 北方辺境伯家の執務室。


 机の上には、寄付先候補である療養所と孤児院の現状報告、必要経費、冬期支援の見込み、そして寄付名義に関する整理案が並んでいる。


 ノアは淡々と頷いた。


「はい。支援そのものは可能です。ただ、名義をどうするかで意味が変わります」


「私個人名なら?」


「セレスティア・レイノルドが、母の追悼茶会を避けつつ慈善だけ行った、と読まれるでしょう」


「北方辺境伯家名義なら?」


「北方辺境伯家が、レイノルド公爵家の問題に介入したと見る者が出ます」


「匿名なら?」


「後から漏れたとき、“名を隠してまで母の慈善を奪った”などと言われる可能性があります」


「母の名義なら?」


「故エレナ夫人追悼慈善と同じ扱いに戻ります」


 セレスティアは、紙から目を離して天井を見た。


「逃げ道がありませんね」


「寄付に関しては、だいたい名義がつきますから」


「善意にも署名欄がある」


「あります」


「嫌な世の中です」


「否定はしません」


 ノアの返事があまりにも真顔だったので、セレスティアは少しだけ笑った。


 しかし、その笑いは長く続かない。


 寄付の名義。


 たったそれだけのことが、また母と自分を結びつける。


 誰の名前で支援するか。

 誰の善意として記録されるか。

 誰の物語になるか。


 療養所や孤児院に必要なのは、お金や物資だ。


 薪。

 薬草。

 冬服。

 食料。


 本来なら、名義より中身の方が大事なはずだ。


 だが、王都では名義もまた中身になる。


「寄付先は、何を望んでいるのでしょう」


 セレスティアは尋ねた。


 ノアは、少しだけ目を細めた。


「そこを先に確認すべきですね」


「私たちが名義の意味ばかり考えて、受け取る側を置き去りにしていました」


「はい」


「では、聞きます」


 言ってから、セレスティアは少しだけ苦く笑った。


「また聞くことが増えました」


「ただ、これは必要な確認です」


「はい」


 セレスティアは白紙を出した。


『寄付名義に関する確認事項』


 一、寄付先が名義公開を必要とするか。

 二、匿名寄付を受け付けるか。

 三、用途指定はどこまで必要か。

 四、母の追悼茶会と関連づけられることで、寄付先に不利益が出る可能性はあるか。

 五、寄付先が望む受領記録の形は何か。


 書き終えて、ノアへ向ける。


「寄付先へ、このまま照会できますか」


「できます」


「ただし、急かさないでください」


「はい」


「療養所や孤児院にまで、私たちの感情整理の負担を押しつけたくありません」


「その一文も入れましょう」


 ノアがそう言うと、セレスティアは少しだけ目を伏せた。


「お願いします」


 同じ頃、王妃宮でもリリアナが寄付名義の問題に向き合っていた。


 彼女の前には、母の追悼茶会を断る文書の控えと、療養所・孤児院への別途支援案が置かれている。


「王妃宮名義は避けるべきですね」


 リリアナが言うと、マルタは頷いた。


「王妃宮名義にすると、公的支援の意味合いが強くなります」


「公爵家名義なら、母の追悼と結びつきます」


「はい」


「私個人名義なら?」


「リリアナ様が母を偲ぶ寄付として扱われる可能性があります」


「姉は出ないのに妹は寄付した、ですね」


「そう読む者も出るでしょう」


 リリアナは、机に額をつけたくなった。


「本当に、何をしても読まれますね」


「読まれます」


「黙っても読まれ、書いても読まれ、寄付しても読まれる」


「はい」


「では、何もしない方が」


「それも読まれます」


「知っています」


 リリアナは顔を上げた。


 目元は疲れているが、もう以前のようにすぐ泣きそうな顔ではなかった。


「寄付先に聞きます」


 マルタは、わずかに頷いた。


「よい判断です」


「私たちがどう見られるかではなく、受け取る側がどう扱いやすいかを先に確認します」


「はい」


「それと、寄付を母への気持ちの代わりにしないようにしたいです」


 マルタが彼女を見る。


 リリアナは、少し言いにくそうに続けた。


「私、寄付すれば少し楽になる気がしていました。母を偲ぶ茶会には出ないけれど、寄付はした。だから私は母を拒んでいない、と言える気がして」


「はい」


「でも、それだと寄付先を私の罪悪感の受け皿にしてしまいます」


「その危険はあります」


「ですよね」


 リリアナは苦笑して、記録帳を開いた。


『寄付は、私の罪悪感を軽くするための道具ではない。

 母を偲ぶ気持ち、姉への罪悪感、療養所・孤児院への支援は分ける。

 寄付先が必要とする形を確認する』


 書き終えると、少しだけ息を吐いた。


「母を偲びたい気持ちが、どこへも行けずに余っています」


 マルタは静かに言った。


「それは、寄付とは別に置くしかありません」


「置く場所がありません」


「作りましょう」


「また紙ですか」


「紙でなくても構いません。祈りでも、花でも、沈黙でも」


 リリアナは、少し驚いたようにマルタを見た。


「マルタ様が、紙以外の案を」


「私を何だと思っているのです」


「記録の化身」


「失礼です」


 リリアナは、久しぶりに少し声を出して笑った。


 その笑いは短かったが、部屋に温度を戻した。


「では、今日の夕方、礼拝室に花を一輪置きます」


「はい」


「誰にも知らせずに」


「それがよいでしょう」


「母を偲ぶためだけに」


「はい」


 それは、とても小さな案だった。


 茶会でもない。

 寄付でもない。

 声明でもない。


 ただ、花を一輪置く。


 それだけなら、今のリリアナにもできる気がした。


 午後、療養所から返事が届いた。


 北方辺境伯家、王妃宮、レイノルド公爵家の三か所へ、同じ内容で送られたものだった。


 差出人は、療養所長オルガ・メイ。


 年配の女性で、かつてエレナの支援を受けたこともあり、セレスティアの王妃宮実務にも何度も助けられていた人物だ。


 文面は丁寧だったが、率直だった。


『ご支援のお申し出に深く感謝いたします。

 ただ、当療養所としては、現在、故エレナ公爵夫人の追悼、セレスティア様のご意向、レイノルド公爵家のご事情、王妃宮の制度整理が複雑に重なっていることを承知しております。

 そのため、名誉ある物語としての寄付より、用途の明確な実務支援を希望いたします。

 具体的には、冬期薬草費、寝具洗浄費、香気源除去後の代替防虫処理費への充当をお願いできれば幸いです。

 名義は、可能であれば“冬期療養環境整備費”として処理し、個人名の掲示は不要です。

 子どもたちと病人の寝台に必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草です』


 セレスティアは、その最後の一文を何度も読んだ。


 子どもたちと病人の寝台に必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草です。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「強い方ですね」


 ノアが言った。


「はい」


「療養所長として、必要なものをはっきり書いています」


「救われました」


 セレスティアは小さく言った。


「物語ではなく、清潔な布と薬草」


「はい」


「本当に、その通りです」


 母の名誉でもなく、娘の感情整理でもなく、王都の美談でもない。


 必要なものは、清潔な布と薬草。


 それは、とても地に足のついた言葉だった。


 セレスティアは、久しぶりに紙ではなく、すぐに行動を決められた。


「この形で支援します」


「はい」


「名義は、冬期療養環境整備費。個人名掲示なし」


「手続きします」


「それから」


 セレスティアは少し考えた。


「孤児院にも、同じように必要な用途を確認してください。こちらで美談にせず、相手の必要な形で」


「分かりました」


 同じ返事を、王妃宮で読んだリリアナは、しばらく黙ってから笑った。


 泣きそうな笑いだった。


「物語ではなく、清潔な布と薬草」


 マルタが頷く。


「よい一文です」


「貼りたいです」


「王妃宮の壁に?」


「はい」


「貼りましょう」


「よいのですか」


「必要な戒めです」


 リリアナは、自分で清書した。


『必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草』


 そして、王妃宮の小会議室の壁に貼った。


 紙だらけの壁に、また一枚。


 けれどその一枚は、他のどの紙よりもまっすぐだった。


「私たちは、すぐ物語にしてしまいますね」


 リリアナが言うと、マルタは静かに答えた。


「物語は人を支えることもあります」


「はい」


「ですが、布と薬草の代わりにはなりません」


「はい」


 その言葉も、リリアナは小さく記録した。


 夕方、リリアナは王妃宮の礼拝室へ行った。


 誰にも知らせずに。


 いや、マルタだけは知っていた。


 手には、小さな白い花が一輪。


 豪華な花ではない。


 庭の端に咲いていた、香りの薄い花だった。


 母は香りのある花が好きだった。


 けれど今は、王妃の療養記録のこともあり、強い香りの花を見るだけで少し警戒してしまう。


 そんな自分に苦笑しながら、リリアナは礼拝室の小さな台へ花を置いた。


「お母様」


 声は小さかった。


「今日は、これだけです」


 追悼文はない。


 茶会もない。


 母を守る演説もない。


 ただ、花を一輪。


「私はまだ、お母様をどう思えばいいのか分かりません。好きです。寂しいです。でも、お姉様のことを思うと、苦しいです」


 言葉は、礼拝室の静けさに落ちた。


「だから今日は、綺麗な娘の言葉は言えません。花だけ置きます」


 それだけ言って、リリアナはしばらく立っていた。


 泣かなかった。


 泣くと思っていたのに。


 ただ、胸の奥に小さな痛みが残った。


 それでよかった。


 全部を涙で流せる日ではなかった。


 レイノルド公爵邸でも、療養所長の手紙は読まれていた。


 グレゴールは、最後の一文を見て長く黙った。


「物語ではなく、清潔な布と薬草、か」


 家令が頷く。


「はい」


「正しいな」


「はい」


「エレナの名を出さなくても、支援はできる」


「できます」


「セレスティアの名を出さなくても」


「できます」


「公爵家の体面にもならないな」


「なりにくいかと」


 グレゴールは、少しだけ苦い笑みを浮かべた。


「それが一番よいのだろうな」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは、すぐに支援命令を書かせた。


 名義は、冬期療養環境整備費。

 掲示不要。

 用途、薬草費、寝具洗浄費、代替防虫処理費。


 エレナの名も、セレスティアの名も入れない。


 それが、今できる最も正しい支援だった。


 もちろん、王都はまた言った。


「名を隠すなんて、かえって不自然ですわ」


「エレナ様の慈善を継いだと堂々と言えばよいのに」


「でも、療養所がそれを望んだのでしょう?」


「物語ではなく布と薬草、ですって。ずいぶん現実的ね」


 現実的。


 その言葉は、少し冷たく聞こえることもある。


 だが、この場合は褒め言葉だった。


 少なくとも、セレスティアにはそう思えた。


 夜、北方辺境伯家で、セレスティアは療養所への支援手続き完了報告を読んだ。


 名義は、冬期療養環境整備費。


 個人名掲示なし。


 用途明記。


 それだけ。


 あまりにも地味だった。


 でも、その地味さが、今日はとてもありがたかった。


「地味ですね」


 セレスティアが言うと、ノアは頷いた。


「はい」


「美談になりにくい」


「はい」


「そこがいいです」


「はい」


 セレスティアは、今日届いた療養所長の手紙の写しを、箱の横ではなく、別の場所に置いた。


 母の覚書の周囲に置く紙ではない。


 これは、実務の紙だ。


 清潔な布と薬草の紙。


 その区別が、今は大切だった。


 彼女は帳面を開いた。


『療養所長からの返事。必要なのは、物語ではなく、清潔な布と薬草。

 この一文に救われた。

 寄付を母の物語にも、私の物語にもせずに済んだ。

 名義は冬期療養環境整備費。地味で、よい。

 誰かを救うことまで、いつも美談にしなくていい』


 書き終えると、少しだけ息が楽になった。


 母を偲ぶことは、まだ難しい。


 母の覚書も、まだ読めない。


 けれど、療養所には布と薬草が届く。


 それは、母への答えではない。


 セレスティアの癒やしでもない。


 ただ、必要な場所へ必要なものが届く。


 それで十分なこともあるのだと、彼女はその夜、初めて少し思えた。

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