第75話 美しい母の肖像画が、娘の言葉を消していく
エレナ・レイノルド公爵夫人を偲ぶ会。
その名前が王都に現れたのは、母を守る連名書状が公爵家によって止められた翌日のことだった。
連名書状は送れない。
セレスティア本人が、今は故人を擁護する証言を受け取らないと示したから。
ならば、直接送らなければよい。
そう考えた者たちがいた。
彼女たちは悪人ではなかった。
故エレナを知り、病の中でも優しく微笑んでいた公爵夫人を覚えている人々だった。
娘たちを案じていた姿も、使用人へ礼を言っていた姿も、社交界で柔らかく場を和ませていた姿も覚えている。
だから、忘れられたくなかった。
母親としてのエレナが、ただ「娘を助けられなかった人」として語られることが耐えられなかった。
その気持ち自体は、たぶん間違いではない。
けれど。
『故エレナ公爵夫人追悼慈善茶会開催案』
その報告書を読んだセレスティアは、しばらく息をし忘れた。
北方辺境伯家の王都屋敷。
朝の光はやわらかい。
庭では、使用人が静かに水を撒いている。
だが、机の上に置かれた紙一枚で、部屋の空気はまた王都の茶会の匂いに変わった。
ノアは向かいに座っている。
彼は、セレスティアが読む速度に合わせて沈黙していた。
報告書には、こうあった。
『故エレナ公爵夫人の名誉と慈善精神を記憶するため、有志夫人らが追悼慈善茶会を企画中。
目的は、エレナ夫人が生前支援していた療養所および孤児院への寄付。
会場にはエレナ夫人の肖像画と、生前の慈善活動記録を展示する案あり。
一部では、セレスティア嬢およびリリアナ嬢の出席を望む声。
出席が叶わない場合でも、姉妹から一文を寄せていただければとの意見あり』
一文。
セレスティアは、その言葉で指を止めた。
母を偲ぶ会に、娘から一文。
美しい。
とても美しい形だ。
亡き母を敬い、娘が短い追悼文を寄せる。
王都はきっと涙ぐむ。
エレナ夫人は愛されていた。
娘たちも母を敬っている。
家族の痛みは、慈善という美しい形で癒やされていく。
あまりにも綺麗だった。
綺麗すぎて、息が詰まった。
「……今度は、母を慈善にするのですね」
セレスティアは呟いた。
ノアは、すぐには何も言わない。
「いえ、違いますね。母は実際に慈善に関わっていました。療養所も孤児院も、母が気にかけていたのは本当です」
「はい」
「だから、嘘ではない」
「はい」
「嘘ではないから、断りにくい」
セレスティアは報告書を机に置いた。
母を守る連名書状なら、まだ分かりやすかった。
受け取らないと言えた。
今の自分には重いと、線を引けた。
けれど慈善茶会は違う。
母の名誉だけではない。
療養所と孤児院への寄付が絡む。
人が助かる。
母を偲びながら、困っている者へ支援を届ける。
そこに反対するのは、とても難しい。
「私は、出席したくありません」
セレスティアは言った。
「はい」
「一文も寄せたくありません」
「はい」
「でも、療養所や孤児院の名前を見ると、断ることに罪悪感が出ます」
「でしょうね」
「母のためではなく、子どもたちのために一文だけなら、と考えてしまいます」
「はい」
「そして、その一文が“母を敬う娘”として使われる」
「使われるでしょう」
セレスティアは目を閉じた。
慈善。
この言葉もまた、強い。
王宮で働いていた頃、何度もこの言葉に動かされた。
困っている者がいる。
救貧院の薪が足りない。
療養所の薬草が遅れている。
孤児院の冬服が必要だ。
だから、少し無理をする。
少し眠らない。
少し自分の感情を脇へ置く。
その少しが積み重なって、いつか自分の輪郭が消える。
「慈善を盾にされると、私は弱いです」
セレスティアは正直に言った。
ノアは静かに頷いた。
「あなたは、そこをよく使われてきたのでしょう」
「はい」
「なら、今回も分けましょう」
「何を?」
「慈善への寄付と、母君の追悼演出と、あなたの出席や寄稿を」
セレスティアは、ゆっくり目を開いた。
分ける。
また、その作業だ。
でも、必要だった。
彼女は白紙を取り出した。
『故エレナ夫人追悼慈善茶会案の分解』
一、療養所・孤児院への寄付。
二、故エレナ夫人を偲ぶ茶会。
三、肖像画・慈善活動記録の展示。
四、セレスティアおよびリリアナの出席希望。
五、姉妹からの追悼文希望。
六、王都が期待する物語。
六番を書いて、手が止まる。
王都が期待する物語。
それが一番厄介だった。
慈善茶会そのものよりも、そこに貼られる物語が怖い。
亡き母。
苦しんだ娘。
それでも母を敬う姉妹。
王宮と公爵家の傷が、慈善によって少し癒える。
あまりに読者受けがいい。
いや、王都受けがいい。
セレスティアは苦く笑った。
「綺麗すぎる物語は、怖いですね」
「はい」
「私は、その綺麗さに塗り込められそうです」
ノアが言う。
「寄付だけ別で行うことはできます」
「はい」
「追悼茶会へ出席しないこともできます」
「はい」
「一文を寄せないこともできます」
「はい」
セレスティアは、紙の下に書いた。
『対応案』
一、療養所・孤児院への寄付は、北方辺境伯家または個人名で別途行うことが可能。
二、追悼茶会への出席は現時点で不可。
三、追悼文の寄稿は不可。
四、故エレナ夫人への敬意を否定するものではない。
五、母の覚書未読の段階で、母への感情を公的文章にしない。
最後の一文に、自分で頷いた。
これだ。
母の覚書をまだ読んでいない。
母への感情も整理できていない。
その段階で、公に母を偲ぶ言葉を書くことはできない。
たとえ一文でも。
「これなら、言えます」
セレスティアは言った。
「はい」
「寄付は否定しない。母を偲ぶことも否定しない。でも、私の出席と一文は別」
「よいと思います」
「冷たいでしょうか」
「明確です」
「またそれですね」
「はい」
少しだけ笑い、セレスティアは正式な返答案を書いた。
短く、余計な感情を入れずに。
『故エレナ公爵夫人を偲ぶお気持ち、および療養所・孤児院へのご支援の趣旨は否定いたしません。
ただし、セレスティア・レイノルド本人は、母に関する私的覚書を未読であり、母への感情整理も未了です。
現時点で、追悼茶会への出席および追悼文の寄稿はいたしません。
療養所・孤児院への支援については、当該茶会とは別に検討いたします』
書き終えてから、ノアに差し出す。
彼は読み、頷いた。
「十分です」
「十分、ですか」
「はい」
「では、送ります」
この返答は、北方辺境伯家を通じて公爵家へ送られた。
茶会の主催予定者たちへの対応は、公爵家が担うべきだと判断したからだ。
同じ頃、王妃宮にも追悼慈善茶会の報告は届いていた。
リリアナは、読むなり顔を曇らせた。
「母の追悼茶会……」
その声は複雑だった。
悲しみ、懐かしさ、困惑、そして少しの怒り。
マルタは黙っている。
リリアナは続けた。
「母を偲びたい気持ちは、分かります」
「はい」
「療養所と孤児院への寄付も、良いことです」
「はい」
「でも、私とお姉様の出席を望む声……」
そこで、唇を噛んだ。
「私は、行きたいのかもしれません」
マルタが少しだけ目を細める。
「そうですか」
「母の肖像画を見たいです。母を知っている人たちの話を聞きたい。母がどんなふうに覚えられているのか、知りたいです」
「はい」
「でも、行けば、お姉様を置いて母を守る側に立つような気がします」
「はい」
「お姉様が行かないなら、私も行かない方がいいのでしょうか」
「それをセレスティア様基準で決めると、また別の問題になります」
リリアナは顔を上げた。
「別?」
「はい。リリアナ様が母君を偲びたい気持ちは、リリアナ様のものです。セレスティア様が参加しないなら自分も参加しない、という判断が必ずしも悪いわけではありませんが、それが“姉に合わせる”だけになると、また姉を基準にしてしまいます」
リリアナは、言葉を失った。
母を偲ぶ自分の気持ち。
姉を傷つけたくない気持ち。
王都に美談として使われたくない気持ち。
全部混ざっている。
「分解します」
自分で言って、苦笑した。
「言われる前に言えました」
マルタが少しだけ頷く。
「よろしい」
リリアナは白紙を出した。
『追悼慈善茶会について――リリアナ私的整理』
一、母を偲びたい気持ちがある。
二、母を知る人の話を聞きたい。
三、療養所・孤児院への寄付は良いことだと思う。
四、姉を置いて母側に立つようで怖い。
五、王都に姉妹の美談として使われたくない。
六、姉が行かないなら私も行かない、だけで決めると姉基準になる。
七、今の自分は、母への気持ちと姉への罪悪感を分けられていない。
書き終えると、リリアナは深く息を吐いた。
「私は、まだ行かない方がよい気がします」
「理由は?」
「母を偲びたいからではなく、母を知りたい焦りで行きそうだからです。あと、姉に対する罪悪感から、自分がどう振る舞うべきかを決めようとしている」
「よい分析です」
「つらいです」
「はい」
「でも、母を偲ぶこと自体を諦めたくはありません」
「なら、別の形を考えましょう」
「別の形」
マルタは言った。
「公の茶会ではなく、王妃宮の礼拝室で一人、または少人数で祈る。寄付は茶会とは別に行う。母君の話を聞くのは、今ではなく、時期を選ぶ」
リリアナは、その言葉に少しだけ救われた顔をした。
「茶会に行くか行かないかだけではないのですね」
「はい」
「また二択ではない」
「そうです」
リリアナは新しい紙に書いた。
『代替案』
一、追悼慈善茶会には現時点で出席しない。
二、療養所・孤児院への寄付は別途検討。
三、母への祈りは私的に行う。
四、母を知る人の話を聞く時期は、姉の覚書受領問題とは切り分けて後日検討。
書き終えたあと、少しだけ涙が浮かんだ。
「母を偲びたいと思ってもいいのですね」
マルタは静かに答えた。
「もちろんです」
「姉を傷つけたくないと思いながらでも」
「はい」
「両方」
「両方です」
リリアナは、涙を拭いて小さく笑った。
「最近、両方が多すぎます」
「人生はだいたいそうです」
「マルタ様の格言、記録しますか」
「不要です」
「珍しく拒否されました」
少しだけ笑いが戻った。
その午後、アデルが王妃宮へ来た。
リリアナは、追悼茶会の件を彼に話した。
アデルは最後まで聞き、静かに言った。
「王太子府としては、出席しない」
「殿下も?」
「ああ。王太子府が出ると、公式性が増す。セレスティアがまだ母の覚書を読んでいない段階で、王太子府が追悼茶会を後押しするのは違う」
「でも、療養所や孤児院への寄付は」
「別途行う」
アデルは即答した。
「母君を偲ぶ茶会と、寄付は分けるべきだ」
リリアナは、少しだけほっとした。
「同じ考えです」
「最近、分けてばかりだな」
「はい」
「だが、分けないと人が潰れる」
アデルの声には、実感があった。
リリアナは頷く。
「私は、母を偲びたいです」
「ああ」
「でも、茶会には行きません」
「うん」
「王都は、姉妹が母を拒んだと言うかもしれません」
「言うだろう」
「それでも?」
「それでも」
アデルは彼女を見た。
「君が母君を偲ぶ形は、茶会だけではない」
リリアナは、胸が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
「守りすぎていないか?」
アデルが少し不安そうに聞く。
リリアナは考えてから答えた。
「今のは、守られたというより、確認を助けてもらった感じです」
「そうか」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
「暫定評価です」
アデルは小さく笑った。
「便利だな」
「本当に」
その頃、レイノルド公爵邸では、追悼茶会の主催予定者たちへ返答が出されていた。
グレゴールは、自分で文面を確認した。
『故エレナ公爵夫人を偲ぶお気持ちには感謝する。
ただし、現在、セレスティアおよびリリアナ両名は母に関する私的記録と向き合う過程にあり、公的追悼行事への出席または寄稿を求める段階にはない。
療養所・孤児院への支援は、追悼茶会とは別に公爵家として検討する。
故人への敬意を、娘たちの感情整理に先行させることは控えられたい』
最後の一文で、グレゴールは少し顔をしかめた。
「きついな」
家令が答える。
「必要かと」
「私が書かせた」
「はい」
「分かっている」
彼は文面を机に置いた。
「エレナを偲ぶ会を、私が止めることになるとは」
「偲ぶことを止めるのではなく、時期と形を整理するものです」
「お前も分けるのが上手くなったな」
「王妃宮方式です」
「嫌な方式だ」
「便利です」
「知っている」
グレゴールは苦々しく言った。
そして、少しだけ声を落とした。
「私も、エレナを偲びたい」
家令は静かに頷く。
「はい」
「だが、今それをやると、セレスティアを追い詰める」
「その可能性があります」
「なら、待つしかない」
「はい」
「待つことばかりだな」
「はい」
グレゴールは、窓の外を見た。
待つ。
家長として命じることに慣れた男にとって、それはひどく苦手な行為だった。
しかし、今は待つしかない。
娘が読むかどうかを決めるまで。
リリアナが母を偲ぶ形を選ぶまで。
自分自身が、エレナの記憶を盾にしないでいられるまで。
その日の夕方、北方辺境伯家に公爵家の返答写しが届いた。
セレスティアは読み終えて、少しだけ目を伏せた。
「父が、止めました」
ノアが頷く。
「はい」
「母を偲ぶ会を」
「時期と形を整理した、という文ですね」
「そうですね」
セレスティアは、もう一度文面を見る。
故人への敬意を、娘たちの感情整理に先行させることは控えられたい。
父の文だ。
いや、家令の手も入っているだろう。
王妃宮の言葉も混ざっている。
それでも、公爵家の名で出ている。
「父も、待つことを覚えているのでしょうか」
「その途中かもしれません」
「途中」
「はい」
「暫定版ですか」
「おそらく」
セレスティアは、少しだけ笑った。
父の暫定版。
あまり見たくないような、見てみたいような奇妙な言葉だった。
その夜、セレスティアは箱の横にまた一枚紙を増やした。
『慈善と追悼と私の言葉は、分ける』
そして帳面に書いた。
『母を偲ぶ会の案が出た。療養所と孤児院への寄付が絡み、断りにくかった。
でも、寄付と追悼と私の出席や言葉は別。
母の覚書を読んでいない私が、母を公に偲ぶ一文を書くことはできない。
それは母を拒むことではなく、私の言葉を空のまま使わせないための線引き』
書き終えて、少しだけ息を吐く。
美しい母の肖像画。
療養所。
孤児院。
慈善茶会。
娘からの一文。
どれも、善意でできている。
それでも、今のセレスティアには重い。
善意でできたものが、人を追い詰めることもある。
彼女は、そのことをもう何度も学んでいた。
母の覚書は、まだ箱の中にある。
けれど、箱の周りにはまたひとつ、線が引かれた。
寄付はできる。
母を偲ぶことも、いつかできるかもしれない。
でも、今、自分の空白を美しい一文で埋めさせない。
それだけは、今日のセレスティアが守ったものだった。




